希望


956  売れ残りは惜しげもなく捨てる


イースター(復活祭)の終わったばかりのアムステルダム市内にあるシンケル運河に沿って立つ有名なシンケル花市場を散策していると、黄色い花をつけたチューリップの切花が10〜15本づつ束ねられて,道行く人にタダで配られていました。

予期しなかったプレゼントを貰った観光客の誰もが、自然と口元に笑みがこぼれています。
ガイド女史がそっと私に囁きました。オランダでは、イースターには女性に黄色のチューリップをあげる習慣があり、今配られているのは売れ残った分です。

以前、洋菓子作りを専門にしている人たちをスイスにお連れしたことがあります。
生チョコをつくる会社を見学した折、朝作った生チョコを店頭に並べますが、売れ残ったものは捨てていると説明があり、新鮮な内に賞味してこその生チョコだと聞かされたことがありました。

産卵後のマスや真夏の数日だけ精一杯鳴いている蝉に似て、潔く散っていくものへの哀れを多少センチメンタルに捉えるのは日本人だからでしょうか?
もったいないなーという伝統の考え方も、私達の遺伝子(長い困窮の歴史を体験した)の中に未だ未だ残っていることですし…。



957  あるホテル・レセプションカウンターの後ろの壁には


第二次世界大戦でのドイツ空軍の爆撃によりロッテルダムの町の建物の多くは壊されてしまいました。

ロッテルダム鉄道中央駅は戦後大急ぎでつくり直されましたが、老朽化したのでもうじき(2010)新しい駅が出来るそうで、その完成予想図が泊った駅前のホテル(出来立てホヤホヤの高層建築)で貰ったパンフレットに載っていました。
駅前界隈はそれに呼応するように地下鉄や路面電車の工事が始まっていて、ニューデザインの高層オフィスビルやマンションが既に幾つか誕生しています。
私たちのホテル・ロビーでは、若くて美しい一人の女性バイオリニストがクラッシックの曲を演奏していて、合わせてウェルカム・ドリンクまで用意してありました。

レセプション後ろの広い壁には、淡いピンク系のどこかで見たことがあるような初めて見るような花が描かれています。花の名前を尋ねてみたのですが誰も知らず、後で調べて知らせてくれるとの返事でした。
そして、花と花の絵の合間に次のような短い幾つかの英語の詩が書かれていました。

The best way to find yourself is to lose  yourself in the service of  
others 
自分自身を見つける最善の道は、他の人の役に立つことで自分を見失うことだ
                            マハタマ・ガンディ

Home is not where you live , but where they understand you
家とはあなたが住んでいるところではなくて、家族があなたを理解してくれるところだ
                            あるドイツの詩人

We have more possibilities available in each moment than we realize
私たちには実感する以上に,瞬間瞬間の中に大いなる可能性が潜んでいる
                            ベトナムの僧侶

We cannot all do great things , but we can do small things with great love
皆が偉大なことをすることは出来ないが、小さなことを愛を持ってすることは誰にも出来る 
                            マザー・テレサ

夕食はホテルから歩いて5分の、駅横のビル1階の中にあるレストランに行きました。
このどっしりとした横に大きな建物は、戦後間もない頃(1949〜1953)建てられたもので、オフィス・フロアー面積が当時ヨーロッパでも最大級で評判になったそうです。

駅前がどんどん変わっていく中、古くても良いものは残しておく町の知恵の一端に触れたように思いました。



958  ココアとコカは間違われ易い


ベルギーには何百種類のもビールがあり、味も様々でびっくりするようなものもあります。

元々、水を媒介とするコレラや赤痢、腺病を恐れた中世の人々は、水の替わりにビールを飲んでいた背景があります。
そんな中でも特に勧めるのがトラピスト・ビール(修道院でつくるビール)です。自給自足の生活をキリスト教の修道院ではしましたが、水の替わりにアルコール分の低い(2〜3%)自然発酵したビールをつくり飲みました。現在では、シメイ、オーバル、ロッシュフォール、ウェストヴェッテレン、ウェユトマール、アーベルの6つの銘柄だけがトラピストの称号を使っていて、アルコール度は8〜10度と高くなっています。
あるいはクリーク銘柄のビールはサクランボからつくりますし、ブロンシュ(白)ビールなど様々です。
19世紀末の細菌学者であるルイ・パスツールの登場は、殺菌や炭酸の入ったビールを可能にし瓶ビールが普及することになりました。

バスの中では、ガイド氏による初級フランス語講座が始まりました。フランス語圏のアルデンヌ地方での昼食の際の飲み物のオーダーの仕方です。ビエール(ビール)を飲まない人は、カフェ(コーヒー)やテ(紅茶)、ショコラッシュ(ココア)を頼めばよいでしょう。口はあまり開かず秋田弁か津軽弁をイメージして早口で言うと、フランス語に近く聞こえるといいます。
大切なのは注文する時は、シルブプレ(お願いします)という言葉を付け加えることだそうで、下膨れとか新聞くれと言ってみると通じるする説もあるなど頭の中をかき回してくれました。
注文を取り間違えられ易いのがココアだそうで、替わりにコカ・コーラが出てくるそうです。そこで教わった津軽弁を模した早口でココアと言ってみたのですが、やはりコーラが出されたと言って、ひとしきりバスは笑いに包まれました。



959  あやかり商売がベルギーにも


愛犬パトラッシュと少年ネロの悲しい童話'フランダースの犬'は、日本ではアニメ化されテレビで放映されたので、誰でも知っているお話です。

幼くして孤児となった可愛そうなネロ少年と老犬パトラッシュが報われないで寂しく死んでゆくストーリーは、涙腺が緩み易いセンチメンタルな日本人にはピッタリ合っていたのでしょう。しかし、日本で有名なこの話は、ベルギーの地元の人すら知らなかったというのが的を射ているようです。
ヨーロッパでは、少年は厳しい社会の荒波に勇ましくチャレンジして鍛えられて、初めて男になっていくと考える伝統があるようで、ネロ少年の弱気な性格は評価されなかったようです。
物語の舞台となったアントワープの大聖堂の中にルーベンスの描いた大作'キリスト降下'を見た日本人観光客は、ネロ少年と愛犬が住んでいたアントワープの郊外の村・ホーボーケンにも足を延ばし彼らの臭いを嗅いで回りました。
10キロあまりの道のりをアントワープまで牛乳を運んだのですから…。

しかし、童話が書かれてから百年の歳月はホーボーケンの田園風景を変えてしまい、今は住宅の立ち並ぶ町になっています。日本からの観光客は増すばかりです。ホーボーケンの町役場はきっと一計を案じたのでしょう。俗に云う'あやかり商売'なるものを。

今では、町の目抜き通りの一角に観光案内所ができ、その前にネロ少年と愛犬パトラッシュの小さな銅像が立っています。また案内所の中に入ると、日本地図が掛っていて訪れる日本人観光客に日本の何処からきたのか、その場所をピンで指して記念に残すようにしていて、合わせてパトラッツシュ(ネロではなくて)チョコレートも売っています。
近くには、犬の絵が描かれた看板が掛るカフェ・パトラッシュ(ネロではなくて)ありました。



960  6キロメートルの銅線を地下に埋めたアントワープ


北海の沿岸から内陸に向かってシェルデ川を90キロ遡った右岸に開けた町がアントワープです。

伝説では、ローマ兵士ブラボーがシェルデ川を航行する船を襲う巨人アンティゴンの手を切って川へ投げて平和が戻ったとされ、アントワープ市の紋章に2つの手が描かれていて、手(ハンド)を投げる(ワーペン)が町の名前になったとされます。
アントワープの繁栄は'神がシェルデ川をお造りになり、そのシェルデ川に全てを負っている'とエドモンド・デ・ブルイン(詩人)は詠いました。

史実によると、11世紀ごろ川傍に要塞が造られたのが始まりで、13世紀に魚や塩、穀物そしてイギリスからの羊毛の輸入などで経済成長しました。15世紀には、ハンザ同盟(バルト海や北海の海上交易で栄えた200前後の都市同盟)の支部ができ、ブルージュのライバルとなっていきました。やがて15世紀後半になると、ブルージュに通じる運河に泥が溜まりだし交易の中心はアントワープへと移りました。
インド航路発見(1498)により、ポルトガルはスパイス(香料や香辛料)を独占しましたが、アントワープはヨーロッパ向けの販売センターの地位を会得し、カール5世神聖ローマ帝国皇帝の保護(1515)を受けるようになりました。人口もそれに伴って増え、10万人を超しました。株式取引所(1531)や為替や信用状取引、印刷業も盛んになり、1560年にはパリに次いでヨーロッパ第2の都市に躍進しました。
シェルデ川近くの旧市街の中心マルクト広場には、黄金期に相応しい各種のギルドホールや市庁舎の建物が立ち並び、また近くにはゴシック様式の神の座す天へと届かんばかりに聳える大聖堂もあります。

しかし16世紀後半になると、カトリック・キリスト教を頑なに固辞するフェリッペ2世・スペイン王の治世の下で新教カルヴィン派との抗争が激しくなり、アントワープの経済繁栄を支えた商人や職人は宗教に寛容な北のオランダ(アムステルダムなどの)へと少しずつ去っていきました。
やがてシェルデ川に土砂が溜まるようになり海上交通も寂れていきましたが、18世紀末のナポレオンの時代に至り、イギリス攻略の基地として再び脚光を浴びることになりました。

現在は、アントワープはヨーロッパ有数の港湾設備を誇る都市であり、交通の要衝の地位を確立していて、芸術や文化面でも有望な若い人材が育っています。

もう一つ忘れてならない大切なアントワープの顔は、ユダヤ商人たちが扱うダイヤモンド取引です。元々ダイヤモンド取引はインドにルーツがあったとされていて、ポルトガルによるインド航路(スパイス航路でもいい)の発見がダイヤモンドを強く意識させることになりました。1476年にブルージュの人であったルイス・デ・ベルケンはダイヤモンドのカッティングを完成しました。
キリスト教支配下にあったユダヤ教徒たちは職業選択の幅が狭められ、宝石商になる傾向があったようです。やがてポルトガルに住んでいたユダヤ人は、アントワープに移り住むようになります。1869年には南ア連邦からダイヤモンドの原石が入ってきたり、何世紀に亘ってユダヤ人家族が東ヨーロッパやインド、ザイールやレバノンあたりからやってきました。
多くのユダヤ人は、より安全な生活が保障されたアムステルダムへと去りましたが、第二次世界大戦後アントワープ市民の一致した声で再びユダヤ人を町に呼び戻す運動が起こったそうです。
アントワープ市からラブ・コールを貰ったユダヤ人は、一つの条件を提案したと言います。
それは、ユダヤ人の生活空間の周りを銅線で囲む(実際に地中に6キロに及ぶ銅線が埋められたそうです)というものでした。何故そうするのかと問われて、'おまじないです'という答えが返ってきたようです。

アントワープの中央駅前には数多くのダイヤモンド商の店があり、その界隈は独特の服装に身を包んだユダヤ人の姿を目にします。10年ほど前に、宝石を商う日本の業者の方々を案内してこの地のダイヤモンド取引所に行ったことがありますが、2時間もの間、添乗員の私だけは建物の外で待たされたことがあります。

歴史の中では、商業流通に精通したユダヤ人のシンジケートを持った町や国は繁栄しています。
ダビデの星(二つの正三角形を組み合わせた六つの鋭角をもつ)の人たち(ユダヤ教徒)を喜んで迎え入れたアントワープに幸いあれ!





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