希望


 921  日本人の癖


江戸時代中期の町人学者だった富永仲基は、日本人は閉鎖癖があるといったそうです、

その他、ざっと思い浮かぶ癖をあげてみると、人目を気にする、皆さんそうしていますと言われて安心する、ユーモアのセンスに欠けリラックスするのが苦手、といった面があるように思います。
真面目な性格で、問われても決して自分の考えを人前では言わず周りに合わして生きてきたかに見える年老いた母が、ポロッと漏らしたのが次のような言葉でした。
'羨ましかった'。半年ほど前に、ニュージーランド人の中年夫婦が我が家に10日ほど居たことがあります。すらっと背の高い上品なその奥さんが、ある時台所近くで、プラスチックの小さな容器に入ったヨーグルトを食べようとしていたそうです。蓋を開けて、スプーンですくって食べるのかと見ていると、先ず蓋に付いているヨーグルトを舌で舐めたそうです。本当に美味しそうに舐めているのを見てしまい、羨ましかったといいました。
幼子に戻りつつある母には、次回ヨーグルトを食べる際には是非蓋を舌で舐めるように言うと、ニコッと微笑んでくれました。

以前にも増して、この国の人は引きこもり(閉鎖癖)するようになってしまったように感じます。チャレンジせず、失敗を恐れ自分で考えることをしないで生きるのは何の意味があるのでしょう。
10年以上前になりますが、文部省長期海外研修ツアー(30日間に亘りヨーロッパやアメリカの教育の現場を見て回り意見交換会をする)に参加した小学校の校長先生(団長)が、帰りの飛行機の中で私に、'心の窓が初めて開いたような気がする旅でしたが、その開いた窓を閉じないと世間やP.T.A.がうるさい'と語ったのを思い出します。
この世に完璧な人はいるのでしょうか?
そうでない人を例にあげて正反対をイメージするのも一考のようです。
イギリス人のように料理好き。イタリア人のように冷静。オランダ人のように気前がいい。
ロシア人のように酒を飲まない。イラク人のように温厚。日本人のようにユーモアがある。
韓国人のように忍耐強い。

トルコでは、学校で今も教えていると言うホジャ老人の小話(トルコの13世紀アキシュヒルの人)のいくつかです。
妻を2人持つ男性がいました。彼は2人に分からないようにそっと、それぞれ高価なトルコ石をプレゼントしました。ある時、妻はどちらの方を愛しているかと訊ねますが、答えて夫はトルコ石を貰った方さ。
賢者(イマーム)の象徴である帽子を被っていたホジャ老人に、彼の説教が人気があるのは帽子(権威)のせいだとチャレンジした人がありました。そこで、ホジャ老人は被っていた帽子を渡してやり、さあどうぞあなたが話をしてみて下さいと下駄(帽子?)を預けたそうな。
モスクでイマーム(導師)の話を聞きに集まった人々に向かって、話を始める前にホジャ老人は訊ねました。私の話を理解できますか?ある人は難しくて分らないと答え、また他の人は分かるとの返事でした。皆が分かる人もいればそうでない人もいるので、話を始めて欲しいと頼むと、分かる人は分り分らない人は分らないのなら、話をしても無駄だから話をするのを止すと答えたそうな。



922  商品に触れる新商法の百貨店誕生


大相撲で年に3度賑わう両国国技館のすぐ後ろに、コンクリートの大きな4本柱に支えられ空中に浮いてつくられた大江戸東京博物館があります。

展示物の中に、日本橋あたりで手広く呉服の商いをしていた三越か三井の店内と隣接してあった立派な土蔵造りの倉庫がありました。火事と喧嘩は江戸の華と詠われましたが、頻繁に起こった大江戸での火事の際、高価な反物の着物布地を守る為、夜は全て蔵の中に仕舞っていたそうですし昼間の商い中でも客の求めに応じて蔵に行き取ってくる、商品は客の目に触れない慎重な商売をしていたそうです。
今でも、高級イメージで売っている一部の店では、店先に品物を並べておかないで奥に仕舞っておくことで商品価値を高める印象を売りにしている所もあります。

フランスはパリ、セーヌ川のほとりシテ島にほど近い一角で、19世紀の半ばにできた百貨店では全く新しい試みを始めました。商品は店内に並べてあり、客が勝手に触ったり手にとってみることができました。限られた特権階級の人しか買うことができなかった時代は終わりを告げつつあり、産業革命の進行する最中プチ・ブルジョアも台頭し、1850年代には女性向けのファッション雑誌が刊行され、既製服も登場しました。木綿やウールを素材にして工場で機械が大量に織り上げた繊維製品が安く出回るようになりました。
この世界最初の百貨店(?)は、今も同じ場所で営業しています。19世紀末には、フランス・アールヌーボー建築の曲線を生かした鉄とガラスを素材に自然光線をふんだんに取り入れた百貨店の建物もできました。
こうした流れとは反対に個人経営のパリの小さな八百屋や果物屋,肉屋などでは、今でも
客が商品に触ったり手に取ったりさせず、店主だけが触り色や形、鮮度を気にかけず袋に入れ客に渡す商いをしているのでしょうか?
勿論、個人商店の売りは温もりのある会話、パーソナルな心配りであり、時間の節約効率だけを追い求める現代社会へのアンチテーゼ的役割を果たすことで、客との信頼関係や安心感、コミュニティの一員としての仲間意識を増す効用が取引の中に含まれていたのですが…。



 923  ノアの箱船とタイタニック号は似ている?


ノアの箱船は、地球上から人類が消滅する危機を救った事件ですが、何時のことか本当にあったのかは謎とされています。

他方、タイタニック号は大西洋を渡る大型豪華客船としてつくられ、20世紀の初めの1912年処女航海で氷山にぶつかって沈んでいった本当に起こった話です。
いずれの船も映画や小説で大勢の人に馴染みになっています。
聖書に書かれている文章から類推すると、実はノアの箱船とタイタニック号はいろんな面で似ていて共通するものがあるといいます。
ノアの箱船(アーク)は糸杉を素材としてつくられましたが、樹脂(水漏れを防ぐ効果がある)を多く含んだ木です。更に、箱船の外表面と内側にはタールが塗られていました。
アークとはピッチで覆われたという意味があり、赤ちゃんの時にナイル河にバスケットに入れられて捨てられたモーゼもまたアークに入れられていて、水漏れを防ぐ入れ物に入っていたと想像できます。

ノアの箱船の大きさですが、長さは140米、幅は24米、高さは14米あり、幅を1とすると長さが6、高さが0.6の比率で、3層づくりで密閉された箱型ですので、浮力を増す働きがありました。
その大きさや密閉した箱型造り、大勢の人を乗せるか生きものを乗せていたことなど似ている所が多々あります。
       924  馬は牛に誇らしげに言った!

'王や勇者の傍に何時もいてご馳走を食べるが自分は食べられることはない'と、馬は荷車を引いている牛に向かってメソポタミアの寓話の中で語っています。

海神ポセイドンは馬の神であり、馬をつくり飼育したとされています。馬は犠牲にされることは滅多にありませんでしたが、時にはポセイドンへの捧げものとして使用されることもありました。その際は、屠殺するのではなく溺れさせたそうです。またギリシャ神話では、4頭立ての白馬の引く戦車に乗って軍神アレスは朝日の前を進んで行きました。

動物の家畜化の歩みでは、犬や羊、山羊豚牛鶏などの方が馬よりはかなり時期に始まっています。犬は狩猟に頼る生活の中で紀元前1万2千年頃人間と共生を始めましたし、定住農業が始まると羊や山羊、豚牛鶏なども紀元前9千〜7千年には家畜化されました。
年長のメス馬について移動する習性をもつ馬は、新石器時代の終わり近くユーラシア草原で、紀元前3千〜4千年にかけて家畜化が起ったと云われています。馬と共生することで、狼などの獣から守ってあげる替わりに人間はミルク(クミス)や肉、テント、衣服、運搬、乗馬などを手にすることになりました。
もっと北のユーラシアでは、トナカイが馬よりも2千年も前に家畜化されていますし、メソポタミアでは野生のロバの家畜化も行われていました。馬の背中に人が乗ったのが先か、馬に引かせる車輪に乗ったのが先かは今となっては分りません。平らな土地では車輪が有利であってシリアやエジプト、メソポタミアなどが該当しますが、山間地帯では乗馬した方が有利です。紀元前2千年頃にはステップ地方に住む遊牧民は、馬を主にした社会を築きました。そして、草や鉄、塩や贅沢品を手に入れるため、定住民との交流も始まりました。

アナトリア高原に興ったヒッタイト族は3人1組で馬に引かせた戦車に乗り、馬を御す人、敵の矢や槍を防ぐ防御盾を持つ人、矢を放ち槍を投げる人がそれぞれ役割分担をしていて、
紀元前17世紀以降常勝の勢いで、カデッシュの闘い(BC1286)ではラムセス2世率いるエジプト軍を破っています。
その後も騎馬隊や馬に引かせた戦車隊の活躍は、パルティアやスキタイ民族などを通して歴史に名が刻まれました。
ギリシャ神話の中で、ホーマーは英雄は2頭立ての戦車に乗っていると語っていますし、最初の4頭立ての馬車競争はオリンピアの地(25回古代オリンピック)で紀元前680年に行われました。それ以降、ギリシャでは戦車競技が5百年以上も続きました。
ポエニ戦争(BC3〜2世紀)の結果、優れた馬の産地として名高いスペインの地を手にしたローマは、馬の補給地の確保に成功しました。また、外人傭兵騎馬部隊も見逃せません。
カルタゴのハンニバル将軍はヌビアの地から、シーザーはモーリタニアから、シリアやゴート族はベドウィン族を人馬一体で雇っていました。

アレキサンダー大王の愛馬はブスファラスといい、広い額に大きな牡牛のような頭、黒毛で額に白い星印のあるオリエンタルの血を引いていました。ナポレオンもシーザーと同様、戦場では馬上から指揮をしましたが、マレンゴーに乗りました。ナポレオンの好敵手ウェリントンは栗毛の馬コペンハーゲンを愛しました。
数少ない馬を戦場で巧みに操り、先住民族のアステカ族を怯えさせたのがコルテス(16世紀初めメキシコで活躍)ですが、彼の愛馬はエル・モルジーロと呼ばれました。
日本でも、山内一豊の名馬購入話や飛ぶように走ると讃えられたディープ・インパクトに競馬ファンは酔いしれました。

占めはやはりギリシャ神話に登場するケンタウロス氏にお願いしましょう。
正に彼こそ人馬一体となった方で半人半馬であり、馬術の名手でした。



925  全ての川は南から北に向かって流れる!?


ソティス(犬星)が太陽と一緒に東の空に昇る7月19日か20日には、決まってデルタ地帯がナイル河の増水で氾濫しました。

ナイル河の洪水は星の動きと深く関係しているのを述べた観察記録が、第5王朝時代(2494〜2345BC)に書かれています。エジプトでは、地味の肥えた土がナイルの上流から水で運ばれてくる、この時期が新しい年の始まりとされていました。
増水期は8月末まで続き、10月末に水が引き始めます。11月15日から畠を耕し始め種を蒔きました。そして、翌年の3月16日から収穫しました。4月頃が最も水が引きました。
長い間、全ての川は南から北に向かって流れていると信じていたようで、それ程エジプトの人々はナイル(水)の賜物に頼って生きていました。
上エジプトと下エジプトという分け方も、ナイルの上流を上、下流を下と呼ぶのに起因していて,気候風土もそれぞれ異なっていました。
上エジプトの都はネケブで、第一カタラクトの近くアスワンとテーベ(ルクソール)の間にあり、死者の町(墓、ネクロポリス)はアビドスでした。支配者のシンボルは尖った白い王冠や禿げ鷹、サソリが使われました。一方、下エジプトの都はプトで、ナイルデルタの中にあり、ネクロポリスはカイロ近くのメンフィスでした。その支配者の象徴は赤い王冠やコブラ、蜂でした。
上下エジプト統一の試みは、サソリ王(上エジプト)が下エジプトへ勢力を拡大しようとした頃(前王朝時代3400〜3100BC)から始まりました。そして、統一が成った後も上下エジプトは長い間、二つの都、二つの死者の町を大切に守り行政も分かれていました。
第一王朝(3100〜2890BC)初代ファラオ伝説では、メネス(ホルス、カルメル)王が第一カタラクトから東地中海まで支配していたとされ、上下エジプトの境に白い壁をつくり、そこにメンフィスの町が出来ました。化粧版として使われたかも知れないカルメル・パレットの片面には上エジプトの象徴白い王冠を被り、裏面には下エジプトのシンボル赤い冠を付けた王の姿が描かれています。文字は未だありませんでした。
第三王朝から第六王朝(2686〜2181BC)を古王国時代といいます。ジョセル王(第3王朝)のサッカラの地にできた階段ピラミッド・コンプレックスこそ、ファラオ(ホルス神の子孫)による上下エジプトに君臨する権威を高らかに宣言したモニュメントでした。

ファラオの先祖とされたホルス神は、オシリスを父にイシスを母に生まれました。オシリスとイシスは夫婦であり兄妹でもあり、彼等にはセトという名の兄弟がいます。伝説によると兄弟喧嘩の末、オシリスはセトにより14のバラバラ死体にされて散布されますが、妻のイシスは丹念に拾い集めて元通りに復元します。物語の背景には、農業(オシリス神)が砂漠(セト神)により苦しめられるが、収穫(イシス神が集める)を無事迎えたことを意味しているそうです。やがて、息子のホルス神がセト神を退治することで、肥えたデルタ地帯を維持し父オシリスの献身的な息子の役割を果たすことで太陽神の子孫になりました。
オシリスやイシス、セトやネプシスなど4人の兄弟は自然(大地)と強く結びついていますが、彼らの親はゲブ(大地)とヌート(空)であり、親の兄弟にはシュー(空気)やテフヌート(湿気)といった大気と密接な関係がある神々となっています。そして、更にその前の両親つまりオシリス神たちの祖父祖母にあたるのがアトムラーとヌートで天界を支配する太陽神となります。

エジプトの人々はアトムラー(太陽神)信仰とオシリス(自然の恵み)信仰を両軸にして、ホルス神の子孫であるファラオの指導の下、偉大な古王国時代を打ち立てました。
ホルス神は鷹の顔をした神様ですが、エジプト航空のシンボルはその鷹になっています。





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