希望


916  トルコ は聖書世界の宝庫


聖書では、人間(アダムとイブ)が登場するのは神による天地創造から6日目となっていて、満足された神は7日目は休まれました。

そして、人類の父と母はエデンの園という生活するのになに不自由のない全てが整えられたパーフェクトな環境で永遠に生きるチャンスを貰いました。トルコの東部にそのエデンの園(地上のパラダイス)だったのでは?と考えられている所があるそうです。
あるいは、40日間降り続いた雨の為、神の言いつけを守ったノア一家8人と各種類の生きものの夫婦1組だけが箱船に入ったお陰で助かりましたが、その箱船が漂着した所では?といわれるアララット山(5100米)もトルコの東部、イランやアルメニアとの国境にあります。
考古学者の調査では、チグリス・ユーフラテス川の下流デルタにあたるメソポタミア(2つの川の間という意味)地方に人類最初の都市国家ができたと考えられていますが、そんな町の一つウルに住んでいたアブラハムは神の言いつけを守り町を出て、遠く離れたユーフラテス川の上流にあるハランに一族を連れて移住していますが、ハランもまたトルコの東部にあります。後に息子(イサク)の嫁探しもハランまでわざわざ使いを遣っているほどで、心の優しいリベカに出会いますが、今も多くの家畜の為に水を汲んでやったリベカの井戸があるそうです。

アレキサンダー大王の登場(紀元前4世紀後半)はオリエントとギリシャ(ヘラス)世界を結びつけることになり、ヘレニズム文明が生まれギリシャ語が広く普及しました。
ヘレスポンド(ダーダネルス海峡)を渡ってトルコ(アジア)を通り、パレスチナやエジプト、肥沃な三日月地帯(イラク、シリア、レバノン、イスラエルあたり)そしてイランや中央アジア、インド近くまで巻き込んだ交易や人の交流が盛んになり、思想や宗教も大きな広がりを見せました。

アダムとイブの犯した原罪(神の言いつけを破って善悪の木の実を食べた行為)を償い、神と和解して人類が再びパラダイスへ戻れるチャンスを得られるように願い犠牲になった神の子イエスの死を期にして、弟子たちに拠る伝道福音活動が活発に行われるようになりました。布教の対象はユダヤ人だけにとどまらず、異民族異宗教の間にも浸透していき改宗者が大勢生まれました。使徒ペテロを中心に紀元後33年(イエスの死んだ年とされる)のペンテコステ祭り(初夏の頃の農事の収穫祭)の集いには、早くもトルコの黒海方面(ポンタス)中央アナトリア(ガラティア)東地中海(パンフィリア)からも参集者がありました。
4世紀初めまでは、ローマ帝国下のキリスト教は弾圧されていましたが、タルソス(トルコの東地中海の町)生まれの使徒パウロは3度も地中海世界への宣教の旅をしていて、何れもトルコを通っています。パウロは地中海を吹く季節風を利用しての船旅もしていて、利用したというエデゥレミットの港町はイダ山脈の麓にあります。イダ山麓で羊飼いだった青年がパリスでトロイ戦争の主役の一人ですが、19世紀末にドイツ人シュリーマンが発掘した古代都市国家トロイの遺跡も遠くありません。

12使徒の一人フィリポスは温泉地として有名なパムッカレの近く、ヘレニズム・ローマ時代に栄えたヒエラポリスの町で殉教したそうです。
新約聖書で啓示の書の作者ヨハネは、エーゲ海のパトモス島に幽閉されていた時に暗示に富んだ比喩表現の多い黙示録を天使の導きにより、エーゲ海近くのイオニアに住む七つのキリスト教会衆にあてた手紙形式で書いています。この七つの会衆の在った所は発掘が行われて見学できるようになっています。それらは、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、フィラデルフィア、サイアティラ、ラオディセブ、サルディスでありローマ時代繁栄した町でした。
また、イエスの母マリアもエフェソスの山中で生活していたと言われていて、その場所も見つかっています。

キリスト教徒にとっては逆風の強く吹いた300年でしたが、4世紀初めにはコンスタンチヌス帝が都をローマからトルコのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)へと移しました。ヘレナはコンスタンチヌス帝の母であり敬虔なキリスト教徒でしたので、最初にパレスチナへの聖地巡礼をして礼拝堂を建てたり多くの聖遺物を持ち帰りました。
彼女が行った聖地への旅は、後の人に多大な影響を及ぼしました。
東ローマ帝国時代からビザンチン帝国時代(いずれもキリスト教を中心にした支配ですが、7世紀以降東方オリエント色が強くなっていく傾向をみせる)に入り、西方のローマを中心にしたカトリック・キリスト教と東方のコンスタンチノープルのオーソドックス・キリスト教は少しずつ袂を分かっていきました。

トルコへの7世紀以降のイスラム教の浸透や11世紀には中央アジアからやってきたトルコ民族の支配がアナトリアで始まり、ローマ・オリエント風からイスラム・トルコ民族風の生活に変わっていきました。
十字軍運動(11世紀〜13世紀)などありましたが、現在に至るまでややもすれば西欧ヨーロッパ人やアラブ・イスラム世界の人はトルコを軽視,蔑視する傾向があるように感じるのは私だけでしょうか?
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が本当は切っても切れない関係であり時代に翻弄されてきましたが、16世紀以降20世紀の初めまでヨーロッパ・アジア・アフリカ大陸にまたがって勢力を誇ったオスマン・トルコ帝国の新生児トルコ共和国には見落とした置き忘れた人類の遺産がまだまだあるように思います。
正当な評価はこれから長い時間をかけて行われることでしょう。
不思議な魅力に満ちた大地、それがトルコだと思います。



917  男は富、権力そして美人に弱い


オリンポスの山々に住む神々は退屈をもてあましていました。

そんな中、結婚式にただ一人招待されなかったのを知ったエリス神はやきもちから、一計を案じ女性の神々の中で一番美しい人が手にすると刻まれた金のリンゴを、結婚披露宴の最中に投げ入れました。最高神であるゼウスは、女神たちのプライド競争に巻き込まれるのを避けて、アジアのイダ山中で羊飼いをしている美青年パリスを美人コンテスト審査長に任命しました。
良妻賢母型で貞淑な妻と評判の高いゼウス神の妻ヘラ、戦に長け知恵に富んだアテナイ、そして愛の巧者アフロディテの3人の女神が我こそはと名乗りを上げ、ミス・ユニバースの栄えある称号としての金のリンゴを手に入れようと、パリス青年に裏取引をそれぞれ持ちかけました。
ヘラは使い切れないほどの金(富)を与えると、経済的な保障を約束します。
アテナイは強大な軍事力で戦に勝つことで権力を与えると言います。
アフロディテは地上で最も美しい女性を妻として与える約束をしました。

トロイ国の王子パリス青年が選んだのは、美しい女性を妻にすることでした。当時、スーパー美人と評判の高かった女性ヘレンは残念ながら既にスパルタ国王の人妻であり、略奪婚しか手段はありません。その結果、ギリシャ連合軍はヘレンを取り戻す為に通商交易で栄えたアジアに位置する都市国家トロイに戦争を仕掛けたという設定が、ホーマーの書いた紀元前8世紀の叙事詩イリアッドでした。
天上界の神々は勿論のこと、スーパーマン(神と人間の女性の間に生まれた英雄)も巻き込み、また人間世界の義理や人情が織り込まれた一大スペクタクル劇です。
退屈は神々の理性を狂わせ、裏取引を進んで行なわせましたし、略奪婚は摩擦の元であり、平和の印のプレゼントと思った木馬には仕掛けがあり油断させる常套手段に過ぎなかったことなど数多くの教訓に満ちたエピソードが語られています。
何と言っても、男は金や権力、美人に弱いことが古から変わらないリズムだったようです。

今でも、イダ山あたりをバスで走っていると、羊を連れたパリス少年やパリス爺さんに出会います。



 918  コンヤ平原の死から生へのリズムが


アナトリアの内陸高地帯は冬は白一色の雪に閉ざされ、生あるものは一切の活動を停止してしまい、あたかも死んでしまったかの印象を与えるそうです。

しかし、3〜4月になると雪が溶け始め黒い大地が顔を出す春(復活)が戻ってきます。
人々は、エイプリル・ボウル(4月の椀)と呼ばれる青銅でできた器に最初に降る春の雨を集め、癒しの水(奇跡の水)として大事にしてきました。
12月末のコンヤの朝の町は暖冬のせいか雪はありませんでしたが、霧が低く垂れこめていて冷たい空気は何かを焦がしたような臭いがありました。尋ねると、各家で燃やす暖房用の石炭のせいだとの返事で、大都会では禁止されていますが地方都市では未だ石炭が使われています。
ロンドンの霧は有名でしたが、やはり石炭の臭いの臭気を発していて霧ならぬスモッグだったことや、わが国でも1960年代までは三池炭鉱を始めとする'お月さん、煙たーかろ'の歌に残る風景だったことを思ったりしました。

遠くイランの国からコンヤへとやってきた13世紀の人・メブラーナ・ルーミはイスラム教のスーフィ教団で最高の指導者と讃えられましたが、生きているときを神の為に使い、神と一体化する修行の大切さを教えました。
くるっくるっと体を回転して踊るのが有名ですが、踊り始めは黒のコートを上に着ていますが、やがてそれを脱ぎ捨て白一色の衣装へと変わり、ペッチコートのスカートをひらひらさせながら速いテンポの舞になります。
白装束は死んだ体を表し、土へと帰るのだそうです。
コンヤへ平原の冬から春にかけての自然のリズムに似た、白(雪)を生命の死あるいは休息と見立て、生命の創造者と一体化することで永遠のオアシス(パラダイス)に復活できると信じる積極的な信仰があったのでしょうか?

メブラーナ博物館では、ネイという楽器(木管の横笛)の出す静かな哀愁を帯びた音色が流れていました。博物館入り口近くの公道には、春の訪れを祝って雨を溜めたという青銅製の大きなエイプリル・ボウルが置いてありました。



 919  犠牲祭前日と当日


2006年の12月30日早朝、テレビはサダム・フセイン元イラク大統領の絞首刑による死刑執行の生々しい映像を流しました。

数人の屈強な死刑執行人たちはいずれも顔を頭巾に覆っていて、フセイン氏を誘導して絞首台に連れて行きますが、フセイン氏は静かに覚悟を決めている様で落ち着いていて言われるとおりにしている様子でした。
縄が首に食い込まない配慮から黒いスカーフが首に巻かれ、フセイン氏はアラーを讃えるコーランのお経を口に出して祈っているようにみえました。

イスラム教徒にとって大切な五行の一つメッカへの巡礼(ハッジ)が行われている時に丁度あたっています。第一次世界大戦後、共和国になりイスラム教を国教とするのを止め、自由に宗教を選べるトルコとなっていますが、翌31日から3日間はイスラム教徒にとり大切な犠牲祭(クルバン・バイラムとトルコではいう)が祝われ、遺跡などは閉まるということでした。

CNNテレビは、メッカ巡礼のクライマックスのひとつ、悪魔サタンに向かって石を投げている善男善女を映し、例年大勢の人が将棋倒しになって死傷者を出すそうですが、今年はサウジアラビア政府が大金を投じて大きな長いコンクリートの壁(悪魔に見立てた?)をつくったので、スムーズに進行している様子を伝えていました。アダムとイブが楽園で悪魔の誘いに乗り善悪の判断の木の実を食べた結果、神に見捨てられた人類の苦渋の旅が始まりました。聖地巡礼で、心を新たにして悪の誘惑を断ち切り、清い生活をする誓いの印としての石投げだそうです。
ガイド氏によると、巡礼から帰ってくると周りの友人もそういう目で見るので、聖人君子のような生活をしなければならず、巡礼に行くのなら余程年をとってからした方がいいといいます。

トルコでは、都会の女性の服装やテレビ番組を見ている限りでは、他のヨーロッパ諸国と同様で肌を露出している若い女性やキスシーンもあり、宗教に捉われない自由な生き方をしているのが感じられます。、国民の大半はスンニー派(フセイン氏も同じ)に属していて、モスクからの礼拝呼びかけが盛んに行われています。私たちの40歳前後の男性ガイド氏(都会のイスタンブールで生まれ育った)は宗教には関心がないそうですが、田舎と都会ではかなりの違いがあると言い、例えば15ヶ月に及ぶ徴兵義務に対しても名誉と考える田舎の若者と、出来るだけ避けたい行きたくないとする都会の若者とに別れるそうです。フセイン氏の突然の死にも反応は取り立ててありませんでした。

犠牲祭はメッカ巡礼と連動して祝われます。牛や羊を屠って神アラーに感謝する行為で、イスラムの故事ではアブラハムの長男イシマエル(ユダヤ教、キリスト教では次男のイサクとなる)を犠牲として差し出すよう求められ信仰の強さの証をアブラハムは試されますが、直前に羊でよいとされました。
殺した牛や羊は家族や親戚、隣近所そして恵まれない人々に等分に分けて施すのが習慣になっています。

犠牲祭当日の31日は内陸の温泉地パムッカレをバスで出発してエーゲ海へと向かいましたが、車窓から殺された直後と思われる1頭の牛が道路わきに置かれているのが目にはいりました。そして、エーゲ海沿いのメインデレソの谷にある休憩所の裏庭で羊が殺される現場に出会いました。
既に3頭ほどきれいに解体されていて、頭を残して肉や臓物、毛皮などが分けられてそばに置いてあります。大人2人が羊を押さえ横にして、前足と後ろ足を別々に紐でくくりました。それから羊に向かって開いた本(コーラン?)から祈りの文句を読み上げました。
引導を渡すという言葉通りの行為でした。観念したかに見える羊は喉元を刃渡り20センチほどの先の尖った短剣で突き刺されると、鮮血が噴出しやがて絶命していきました。

エフェソス近くのセイジュクの町で昼食を食べた後、万が一開いていたらという願いを持って、古代ヘレニズム・ローマ時代に最高25万人もの人が生活していたエフェソス遺跡に行ってみました。すると、午前中は閉まっていたそうですが午後は開いているではありませんか!
何事も下駄を履くまでは分らない、最後まで諦めてはいけない教訓をちょっと思いながら、小躍りして皆さんと遺跡の中に入りました。
遺跡を管理する人たちが、午前中に家族や親戚、近所の人たちとの犠牲祭の祝いを済ましたのだろう。1日休日になっているにもかかわらず出勤してきて、世界から訪れる観光客の為にゲートを開けてくれたようだと、ガイド氏はサラリと語っただけでした。



 920  年間を通してコンスタントに仕事があるから日本語ガイドに


湾岸戦争(イラクがクウェートを侵略した1990年頃)までは、経済は順調に成長していて、インフレもそれほど問題ではなかったそうです。

イラクやクウェートの石油をパイプラインに流してトルコの東地中海まで運び、ヨーロッパ諸国に配っていたので、戦争でそれがストップしてからトルコの経済は目に見えておかしくなり、とんでもないインフレが始まったのだそうです。
オスマン・トルコ時代(第一次世界大戦終了前まで)はアクチェと呼ばれる単位のお金で、全てコインだったのが共和国になった1923年以降、紙幣を流通させるようになりリラへと名前も変えました。
紙幣を発行すると、やがて経済はおかしくなるのは何処でも同じようであって、世界で初めて金貨をつくり流通させたのは紀元前のアナトリアにあった国であり、2年ほど前(2004)にゼロを6つとる(百万リラが1リラに)デノミネーションを断行、激しすぎたインフレに歯止めをかけ国内、国外の信用を取り戻そうと必死の努力を始めたのが現在のトルコだと語ったのが、トルコ人ガイドしでした。
トイレ・チップに50万リラ支払ったのが今は0.5リラとなり、インフレ率も年10%台に低下し小康状態を保っていて、以前のような外貨で保有して保全を図る人は減っています。
このガイド氏は、元々はフランス人観光客を案内するフランス語ガイドだったそうです。
多くのフランス人は春から秋にかけてトルコにチャーター機でやってくる人たちであり、年に約半年間ほど仕事をしていたそうです。

そんな折、暇な冬の期間を利用して日本語を教えている学校に入ったのが始まりで、その後日本にも半年ほど語学留学したそうです。そのお陰で、1年中仕事に恵めれ昨年(2006)は40本の日本人ツアーをこなしたそうです。平均で1本あたり6日間トルコに滞在するとしても、240日は家を留守にしてトルコ中を案内していることになります。
後姿など見ていると,がっしりした体つきで肩幅も胸幅も広く、男性的でトルコ式レスリングでもしていたのでは?と思わせる人ですが、バスで移動中など年配者からの突然のトイレストップ要求にも優しく対応して見せてくれる優秀な仕事大好き人間(日本人に似ている?)でした。





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