希望

911  唐人お吉こそ牛乳の価値を見つけた最初の日本人


1853年に前触れもなく江戸湾に入ってきたアメリカのペリー提督は、翌年には日米和親条約を結び帰国しました。

そして、1856年にタウンセンド・ハリスが領事として日本にやってきます。お吉は16歳でしたが、れっきとした芸者とし
て3年のキャリアがあり、銭湯帰りの姿を見初められたようです。下田奉行の後押しで,翌1857年にハリスの下に行
きました。
互いにラム酒を飲むのが好きで、才があり情にも厚く気風の良いお吉をハリスは気に入り、打ち解けて身振り手振りで
語り合い、ハリスが言う日本の置かれている国際状況も彼女は理解したようです。
1858年にようやく日米通商条約が締結すると、ハリス総領事は日本を離れアメリカへと帰っていきました。お吉は夜
叉面とか唐人とか呼ばれ、酷い誤解を知らぬ人から受けました。

ハリスは牛乳は牛の子だけが飲むものではなくて、何処の国でも人間が飲んでいて栄養の高いものであるから、人が
飲めるよう沢山の牝牛を飼育して肉も食べれるよう酪農の必要を話して聞かせました。当時の日本は牛乳は禁制でし
たので、お吉は遠くまで出かけていき、金品や衣服などを与えて売り渋る百姓を説得して、病の床に伏すハリスに飲ま
せたそうです。穏便な日米関係を望んだ日本でしたが、お吉の果たした役割は重要でした。

その後は、アメリカでも市民戦争(1861〜1865)がありましたが、日本も明治維新(1868)までのペリー来航(185
3)から数えて15年間は天地を揺るがすほどの激動の時代でした。やがて明治時代になると、北海道にハリスが望ん
だような酪農を主に教える札幌農学校が出来たり、東北や関東地方でも酪農が始まりました。

作家・芥川龍之介は牛乳をいっぱい飲んで育ったそうですが、実家は東京の麻布(今は高級住宅の並ぶ一等地)辺り
で手広く酪農をしていたそうです。
あるいは、ろくな物を食べていないと言われるイギリス人は、概して体格が良い理由は牛乳を沢山飲んでいるからだと
聞いたことこともありますし、私自身も小学校での昼食に脱脂粉乳(お湯で溶かした不味い味)を飲んでいたのを懐かし
く思い出します。
        


912  7年でモスクを完成させる理由


イスタンブールの町には600前後のモスクがあるそうです。

1300万人の人々が住む大都会です。有名なスレイマニ・モスクは16世紀の人スレイマニ大帝によってつくられました。
4本のミナレットはスルタンのモスクを表し、10コあるバルコニーはオスマン朝の10番目に当たるスルタンを意味して
いるそうです。
堂内は荘厳な雰囲気に包まれていて、飾りやデザインを排除してシンプルにつくられていますが、オスマン朝最盛期に
相応しい質実剛健な時代を象徴しています。モスクを出ると広い庭の一角にトイレがありました。0.75リラ(約50円)
ほど入り口で支払って使いましたが、出てくると金を取ったその人がオレンジの香りのする香水を手の平に注いでくれ、
合わせて拭き取る為の紙のティシューを一切れくれました。

次に行ったブルーモスクは17世紀のスルタンであるアフメット3世がつくらせたものですが、堂内の2階の壁をぐるりと巡
らすトルコブルーに彩られた美しい絨毯模様の2万枚のタイルを見たヨーロッパ人が感動してブルーモスクを呼んだの
が始まりで、そのまま通り名になりました。
すぐ近くに4世紀始めにコンスタンチヌス帝が最初に手がけ、そして6世紀にユスチニアヌス帝が大きく立て直したアヤ・
ソフィアがあります。
このキリスト教寺院だった建物を見本として、1453年のイスラムによる東ローマ帝国征服(コンスタンチノープルからイ
スタンブールへと名前も変更される)以降、多くのモスクができました。
ブルーモスクを出てアヤソフィア博物館の方角へ歩いていると、頭上に胡麻のかかったパンを山盛りにした籠を載せた
売り子や伝統の水売り衣装の人が私たちに近づいてきます。
アラビアンナイト(千夜一夜物語)では、40人の盗賊が岩穴に盗んだ財宝を隠し持っていますが、扉はアブラカタブラ(英
語ではオープン・セサメ)と言って始めて開きました。
日本語では'ひらけ胡麻'でした。胡麻の種は昔から生活の大切な食物であり、明かり用の油だったのでしょう。
 
そして、スレイマニ・モスクもブルーモスクもその他の多くのモスクが7年という短い期間でつくられている背景には、イス
ラム教ではパラダイス(天国)が7つに分かれているそうで、いつの日か天国へと行き永遠の幸せ、命を得たいと願う表
れだというガイドの説明でした。キリスト教では7は完全、パーフェクトを意味する数字で神の領域に属すると聞いたこと
があるので、同様の解釈をきっとしているのでしょう。
         




 913  セラムとハレム


セラムは表の場を表し、男の活躍する所でした。

一方、ハレムはスルタンと取り巻く女性とその子供、あるいは男であっても宦官たち(アフリカの黒人が多かったそうで
す)だけが出入りできる裏(大奥)であり、女の仕切る所でした。
16〜17世紀はヨーロッパ諸国と対立軸であったのがオスマントルコ帝国でしたが、その都イスタンブールのトプパピ
宮殿内のハレムを見学しました。
ハレムには800人もの人が生活していて、ピラミッド型の権力構造ができていました。
まず、スルタンの母、次はスルタンの世継ぎ(息子)を産んだ女性でした。隙あらば権力の階段を駆け上ろうとする輩も
大勢いたと考えられ、嬰児殺しも行われたことでしょう。
ただ、表の場の記録は残っていますが、裏の記録は残念ながら殆どなく、想像する意外にありません。
スルタンその人が使ったハマム(風呂)の一角は丈夫な金色の鉄柵で囲われていて、鍵が掛るようになっています。柵
の中で石鹸を使い頭や顔を洗う際、一時的にも目が見えなくなる洗い場の為、スルタンとて油断する訳にはいかなかっ
たようです。
台所はハレムの中にはなく外から運び込んでいたことや、その夜の夜伽の女性が使ったハマミ(風呂),各部屋の暖房
は石炭か木を使ったことや部屋を繋ぐ通路は迷路のようになっていたのが分りました。スルタンの書斎は蛇口の間と
呼ばれていて、壁につくられた階段式のテラスタイルの幾つかの蛇口から水が流れ出し、水の音楽を奏でていました。
ハレムの中で一番広い部屋(インペリアル・ホール)の床にはヘレケの絨毯が敷かれていて、色々な祝い事やゲーム、
歌や踊りが行われました。
部屋の隅に立派な時計が置かれていますが、時刻は9時5分を指しています。これはアタチュルク(トルコの父という意
味)大統領が1938年11月10日午前9時5分に亡くなったことを記念して、トルコ中の博物館の時計はセットしてある
のだそうです。貴国の歴史の中で3人尊敬されている人物を挙げて欲しいとトルコ人に聞くと、誰もがアタチュルク大統
領をその一人に入れるほど人気のある人です。
スルタンの息子たちは10歳まではハレムで育ちますが、それ以降はセラムに出されたそうです。子供たちの勉強した
部屋を出ると大きなテラスがあり、正面には美しい金角湾やガラタ地区が望め、美女たちが泳いだ大プールも傍につく
られていました。反対側には女性たちのアパートが何層にもなっていて、寂しく眺めたであろう窓が兵隊の行進する姿
のように没個性的に並んでいました。ガイド氏の言葉を借りると、そこは高級牢獄だったそうです。日本で徳川大奥が
テレビや映画で評判になっていますが、オスマン家の大奥物語の一端にちょっと触れた思いでした。
        



914  金角湾沿いの風景


イスタンブールの旧市街にある有名な天井付きのグランドバザールは、15世紀末にできました。

オスマントルコ帝国の長年の宿願だったビザンチン帝国の都コンスタンチノープルを15世紀の半ばに陥落させ、左程
時を経ていない頃のことでした。そして今日も歩いていると、立派な口ひげを蓄えた紳士然とした男性売り子から片言
の日本語で話しかけられ、今も変わらず大勢の人で賑わっていました。
西ヨーロッパでは19世紀に入り、やっと天井付きの小規模のショッピング・アーケードができたのを思えば、トルコ帝国
の凄さを想像する参考になります。
また、オリエント急行列車の出入りした駅近くに、ミスル(エジプト)バザールがあります。こちらは香辛料の売買を主に
商いする為に16世紀末にできました。
きっと顔をベールで隠した女性客で賑わっていたことでしょう。バザール正面入り口前の広場を挟んで、その当時のス
ルタンの母がつくったモスクがあります。また、ガラタ橋へも広場から地下道を通って行けますが、暖かい空気がこもっ
ている地下道では壁に沿って雑貨商が店を出していて、期せずして即席バザールになっていました。12月末の夕暮れ
時、頭や首筋を襟巻きなどで防寒した人たちが、地下道から湧き上がりガラタ橋へと向かったり、反対にエジプトバザ
ール方向への流れもありました。
カモメが金閣湾の上を舞い、西日が水面に反射していてガラタ地区の傾斜した丘にぎっしりと並んで立つ建物(中には
有名なガラタ塔もみえる)をピンク色に染めています。
旧市街の金角湾に面して、過ってタバコ工場だったという立派な石造りの建物がありました。今は大学の校舎として使
われていて、スペインのセビリアでも元タバコ工場(カルメンが働いていた?)、そして今は大学という同じ回り逢わせの
建物があるのを思い出しました。
コロンブスがアメリカ航海でもたらした金のなる葉(タバコ)を加工した所が、今は奇しくも地中海の西と東で優秀な大学
生を育てています。
      


915  アジアとヨーロッパにまたがった半島の国トルコ

国の広さは日本のおよそ2倍ありますが、97%はアジア側にありアナトリアと呼ばれ、南北を地中海と黒海に挟まれ西
は狭いチャナカレ海峡(旧名はダーダネルス)やマルマラ海、ボスファラス海峡に面した半島になっていて、東だけが地
続きで他のアジア諸国に繋がっています。

また残りの3%の大地はヨーロッパ側にあって、バルカン半島の一部を形成しています。
更に興味深いのは、4世紀以降20世紀の初めまでの1600年間もの長い期間に亘り、世界を代表する帝国の都(コ
ンスタンチノープルそしてイスタンブール)として人々を魅了し続けた現在のイスタンブールの町そのものがマルマラ海
と金角湾に2方を囲まれた半島になっています。
人口は7千万人ですが、農業に従事する人たちは45%に達していて、各地の気候風土に会った農産物をつくっていま
す。トルコ民族は元々は中央アジアの草原で遊牧・放牧などの移動生活をしていましたが、約千年ほど前にアナトリア
の大地にやってきて農業に活路を見つけ、定住生活に移行しました。トルコ人が大好きなアイランというヨーグルトは水
と塩を入れてつくるそうですが、遊牧生活をしていた頃の香りを今に残すものと言えましょう。過去900年のトルコ人の主
都としてはアナトリアの中央のコンヤの町を皮切りに、ブルサそしてヨーロッパ側のエディルネ、イスタンブール、第一次
世界大戦以後の共和国になってからは再びアナトリアに帰り、アンカラの町が選ばれました。

東トルコは平均海抜1700米もあり、国境をアルメニアやイラン、イラク、シリアなどの国々と接していて、これからの開
発が期待される地域のようですが、聖書に登場するアダムとイブが住んでいた地上の楽園エデンとされる場所や大洪
水の後ノア一家8人と各生き物の夫婦を乗せた箱船が流れ着いたとされる所、アブラハム一族がメソポタミアの古都ウ
ルを神の導きで出て行ったハランの町、その息子イサクの花嫁となったリベカの井戸とされる場所などあり魅力の宝庫
です。何よりもメソポタミア文明を育てたチグリス・ユーフラテス川の上流にあたっていて、ヴァン湖の傍には片方が緑
色で他方が青色の目をした世界でも珍しい猫がいると聞いています。

中央アナトリアは穀倉地帯で大麦や小麦、砂糖大根などつくっていて、12月の末の頃バスで走ると僅かに収穫した砂
糖大根を満載したトラックが走るのに出会いますが、砂糖精製工場に運んで行くのだそうで、工場の煙突からはもくもく
と煙が立ち上がっているのを目にします。この頃の大地はすっかり枯れていて、唯一活気を感じさせてくれた所でした。
大きな塩湖もあり、自然にできる塩を工業用に使っていて、ここでもトラックが活躍していました。
地中海、エーゲ海沿岸ではオリーブや果物、野菜などを主につくっていますが、オリーブは地中海世界で四大生産国
の一つに数えられていて、丁度冬に熟した実を収穫するので傍を通るだけで香りが漂ってきます。葡萄やイチジクなど
の果物は乾燥させて商品価値を高めて販売していて、中国シルクロードの有名な町敦煌郊外の農村でも干し葡萄をつ
くる農家は、そうでない農家と比べると利益が上がるので裕福な生活をしている話を過って聞いたのを懐かしく思い出
していました。
また、タバコや綿も生産していて、イズミール近くにはアメリカのタバコ会社マールボロやキャメルブランドの工場がある
そうです。トルコのタバコの葉は強い癖のある香りの為、単独では商品化しにくく、他の国のものとブレンドしてつくって
いるそうです。しかし、
Tekel2000というタバコだけは純国産の葉だけでつくる珍しいものなので、土産に勧めるとのタバコ好きなトルコ人ガイ
ド氏の話でした。
綿は水を多く必要とする植物だそうで、9〜10月に収穫しますが手で摘み取るそうです。
エーゲ海沿いには多くのリゾートがあり、夏になると大勢の人で賑わいます。

黒海沿いのアナトリア地方は雨が多く降るので、ヘーゼルナッツや茶の栽培が盛んだそうです。
そして、マルマラ海の周辺では電気電子製品や自動車がつくられていて、中近東方面に盛んに輸出されています。
一方、ヨーロッパ側のトルコはトラキアと呼ばれ、トウモロコシや油をとる為のヒマワリが植えられています。トラキアと聞
けば、以前ヨーロッパ側トルコの北隣りブルガリアの地でトラキア民族(紀元前、活躍した遊牧騎馬民族のひとつ)の墓
を覗いたことがあり、懐かしくトラキアの名前を口の中で言ってみました。

ベルリン/ベオグラード/バグダードという3Bを結ぶ鉄道がトルコのアナトリアを横断してできましたが、多分にドイツの
戦略意図の下に敷設された20世紀初めのことでした。アジア側のイスタンブル駅(ハイダルパシャ)から首都アンカラ
まで、その広軌鉄道線路の上を急行寝台列車に乗り、のんびりトコトコ走り翌朝1930年代に出来た直線の線の美し
いアンカラ駅に着きました。バスに乗るために正面広場に出て行くと、2006年はアナトリアに鉄道が敷かれて丁度百
年の節目の年であり、アンカラで特別展が開かれていることを知らせる巨大な垂れ幕が駅の屋上から下がっていまし
た。
5月にきた際には逆方向で旅をして、アンカラからハイダルパシャ駅に朝到着、そして駅傍の桟橋からフェリーに乗って
古都イスタンブールへと乗り込みましたが、正面に浮かび上がる7つの丘の町を見ながらのアプローチは最上の喜び
でした。
伝説によると、ギリシャのアテネ近くに住んでいたメガラ部落の人たちは、何処を移住の地に選んだらよいのか、デル
フィの地まで行き有名なアポロンの神託にお願いしました。
すると、Vめくらの人たちの住む場所の反対側に住むべし'との神託があったそうです。
東へと旅をして二方を水が洗う岬へとやってくると、丁度マルマラ海とボスファラス海峡を渡ったアジア側のウシュクダラ
あたり(ハイダルパシャ駅も含まれる)には、既に人々が住んでいたそうです。そこから海を挟んで見える反対側の丘に
は誰も人が住んでおらず、これこそ神託通りの理想の地であり、ウシュクダラの人たちは眼は開いているが、めくらと
同じに違いないと悟り入植したのが始まりで、イスタンブールが誕生しました。
元々はビュザンチオンと呼ばれたそうですが、メガラの住民を率いていたリーダー・ビュザスの名前に由来していて、後
にはビザンチン帝国というキリスト教時代を象徴する名前にも使われました。別の説では、ギリシャ人による入植前か
らフリギア人の部落が既にあったとし、その名前をギリシャ風に呼び変えてビュザンチオンと言ったそうです。ロマンを
感じさせてくれる神託派です。私は…。


ヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがって支配した歴史を持つトルコは、21世紀には平和な手段で再び大いに躍進す
る潜在能力を見せていて、一つには日本と違って若者の人口構成に占める割合が遥かに高いのも注目に価します。








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