![]()
901 顔に矢の刺青のある埴輪
産経新聞(2006・12・2)は表紙面で,写真入りの埴輪記事を載せていました。
和歌山県の紀元後6世紀前半(後期古墳時代)ごろの前方後円古墳から見つかった埴輪には、頭に顔が前と後ろにあ
り、一方は温和で目じりが少し下がっていて、他方は顔に矢の刺青のある目の少し吊り上ったものだったそうです。
専門家は、'この世'と'あの世'を表しているとか、人の内面と外面と写したのではないだろかなどと推論しているそうで
す。
埋葬された権力者よりも副葬品の埴輪が関心を掻き立てています。
まず頭の前と後に異なった顔がある像(絵や彫刻,焼き物)そのものが例を見ないのではないでしょうか?
更に顔に矢の刺青がある人格(個性)を感じさせる埴輪だったことです。
常世へと先立った権力者を守り、また友人として故人の話し相手になってあげる実在した武人の姿ではなかったか?
戦いのないあの世では、自然に顔も穏やかになり目じりも下がったことでしょう。
それにしても、素朴な焼き物の埴輪人形ですが、そこには友情や永遠への願いが見てとれ、私たちの先祖の息づかい
を感じました。
今は、今を築いた長い昨日と長い明日へと続く橋渡しでしかないのかも知れません。
個の目ざめをこの埴輪は見せているように思います。
902 二人の母
私の母は3年半前に86歳で亡くなりましたが、晩年の3年ほどは痴呆がありました。
体はひときわ小さな人でしたが、気持ちは大きく太い気丈な性格でした。私が小学生の低学年のころ、いじめられて泣
きながら帰宅した私を連れて直ぐに小学校へと行き、校門を出てきた悪ガキの少年を捕まえて,何故いじめたかと直 接とっちめてしまい、悪ガキ君をして、'おばちゃん、もういじめんけー 勘弁して!'と言わせたほどでした。
後で、このちびのガキ大将は、'おまえんとこの おばちゃんは 怖いのー'と首を竦めて言いました。
そんな母は料理も裁縫もコーラスも刺繍もこなし、キリスト教の教会へも日曜日には欠かさず行き、1ヶ月に1度は東京
に行き女学校時代の友人に会うのを楽しみにして生きてきましたが、亡くなる5年ぐらい前から体の衰えを察知していた のでしょう。少しずつ自分から望んで上記の楽しみごとを減らして行きました。そばで見ていて、本当に思い切りの良い 見事な店じまい風景でした。
やがて胃がんの転移などでボケが進行していきましたが、時には人の役に立つ事が出来なくなった自分に我慢がなら
なくなるのでしょう。日のあたる縁側に椅子を出して座らせ、風の音や木々の葉のすれる音、小鳥のさえずりや庭の花 を愛でるのを勧めるのですが、2,3分もすると不安そうな目つきで立ち上がり、やってきて自分が家にいるのが邪魔だ ったら病院に入れてくれと言うこともありました。
長い間、知らず知らずの内に人の役に立つことだけが生きる価値があるように思ってしまったのでしょう。ゆっくりぼっ
ーとしているのを悪いことのように思うようになってしまったようです。これは母だけに限らず大なり小なり日本人に共通 して見られる、忙しくしているのは良い事のように思い込むクセかと思います。
入院してからは痴呆が更に進んでしまいましたが、回りの世話をして下さる人(医者や看護婦、介護の方々)に常に有
難うと言っていたのを思い出します。
もう一人の母は妻の母ですが、80歳になったばかりですが進行性のアルツハイマー症に似た病気に罹っています。夫
が死別して40年近く経ち、2人の娘を育て上げ小学校の教員も長く勤め、孫やひ孫に自分をおばあちゃんと呼ばせず 学校のお母さんと呼ばせる、こちらも気丈の人生を歩んだ人です。
今は一緒に住んでいますが、この母もじっとしておれず足元のふらつく力のない歩行ですが、何かしていないと不安に
駈られる毎日です。
長い間生きてきて充分に人様の役に立ってきたのだから、今度は堂々と世話をしてもらえば良いと言うのですが,デー
ケアー・施設に行く朝などは何時間も前から起きだして,持って行く物を袋から出したり引っ込めたりしています。私が 週に2度専門学校の講師をしているのを聞いて知っているので出かけようとすると、'遅刻をしないように!'と忠告してく れます。
日本の母は人の気配を気遣って、滅私で生きてきたのがよく分かります。
903 ゆずの実もならず椿の花も咲かず
毎年、秋から冬にかけて黄色の大きな果実をたわわにつけるゆずの木も、赤や白、ピンク色の花を咲かす椿もただ緑
の葉を茂らせているだけの、モノカラーな初冬の我が家の庭の景色です。
食卓のアクセントにもなるゆずの実を本家に貰いに行くと、60年近く土一筋で生きてきた叔母さんが鋸のような鉄の刃
物で切られるのを、植物は嫌うという言い伝えが昔からあると教えて下さいました。
言われてみると、6月ごろ上へ上へと勢い良く伸びるゆずの木の幹を地上4米あたりでばっさり切り落としたことや、椿
の枝もかなり刈り込んだのが実のならない花の咲かない原因だったんだと遅ればせながら気付かされました。
非常事態に陥った庭の植物は、生命維持だけが精一杯で養分を取られ、果実や花を咲かすだけの余裕がなかったの
だろうと同情し反省しました。
人の勝手な思惑で突然にばっさりと切られた植物の声にならない悲鳴の表れだったのです。
赤やダイダイ、ピンクや白の色のない庭を見ながらの冬を迎えます。
904 英主アクバル帝の狩りと宮殿での風景
'恐怖や残忍、衝動に任せた指導者よりは正義と公平な態度で政治に臨む方が、同意や裏切りの世界にあっては長く
続く評価を得る。'と語った人がインドにおけるムガール帝国の始祖バーブル(1483〜1530)でした。
彼の孫に当たる人がアクバル(1542〜1605)皇帝です。宗教に寛容な態度で臨み、イスラム教のスーフィー派やヒ
ンズー教、ジャイナ教やゾロアスター、ユダヤ、キリスト教などの賢者の話や討論に耳を傾けたり、ラジプート族(ヒンズ ー教)と同盟を結び、その王の娘と結婚しています。ハーレムには、300人の妻や遠くチベットからやってきた女性を含 む500人もの女性がいました。決断と行動力に長け領土を拡大しました。文字は書いたり読んだりは出来ませんでした が、建築や文化面で優れた功績を残していてムガール王朝の磐石を築き、バーブル帝と並んで高い評価を得ました。
そんな彼が1567年に行った狩りは、まず5万人を動員して大きく周囲100キロに及ぶサークルをつくり、少しずつ獲
物を追い出し1ヶ月後に7キロの枠の中に囲い込むものでした。狩りは平和時における戦争の訓練を兼ねて世界の至 る所で行われてきたものです。
アクバル帝は自ら矢や剣、槍や投げ縄、鉄砲を使って野獣に立ち向かっています。また、チータ(ヒョウに似た獣)を馴
らして猟犬のように狩りで使ったそうです。王としての胆力が問われる衆目の集まる中での勇壮でした。
また宮殿での生活は、夜明け前に楽士たちが奏でる音楽で宮廷が目ざめ、日の出と共に皇帝は一般参賀の人が見上
げて待つ中、バルコニーに現れました。そうすることで、帝国が安寧であることを示しました。もっとも、その後2時間ほ ど寝所に戻り寝たそうですが。
正午には再びバルコニーに行き、城壁の外や掘を利用して行う象のパレードや象の闘いを見ました。4時頃から一般
謁見の広間で市民の代表の集う中で、陳情を聞いたり外国からの使節団を謁見したりして過ごしてから、宮殿の奥に ある私室に移動して側近や高官たちと会議を行いました。
願い事をする陳情者は、それ相当の土産物を用意して関係者に配って初めて取り上げて貰えたそうで、昔から今に至
るまで変らぬリズムの中に人はいることが分ります。
905 海でも空でも生き残りの闘い
母タコは海底で生んだ卵を手塩にかけて守り育てますが、やがて孵化した赤ちゃんタコは海面へと上昇します。
この小さな動物プランクトンは、海面近くで待つ他の海の生きものの絶好のエサになってしまいます。僅かに生き残っ
たタコだけが再び海の底に戻り成人しますが、彼らとて3年で世代交代となり死んでいきます。
タコはかなりの頭脳派で,変装(カモフラージュ)したり墨を吐いたり、意表をついて後ろへ逃げます。また吸盤を上手に
使って生きています。
軍艦鳥(フリゲート)は羽を繕う為のオイルの出が少ない為、海に潜れません。
しかし、空を飛ぶのは一際長けています。そこで、カツオ鳥(ブービー)の獲った魚を空中で襲って奪いとるそうです。
旅行専門学校での授業で、東南アジアの国々から日本へやってきて勉強している学生たちに、知恵を出してチャレン
ジして欲しいと思い、他の生きものを例にとり話をしました。 ![]() |