希望


896  楽園に逃れたけれど


紀元後70年にエルサレムにあったユダヤの神を祭る神殿が壊されて以来、ディアスポラ(パレスチナ以外の地への離
散)生活を送ってきたユダヤ人です。

1930年代に入るとヒトラーの台頭による迫害が始まり、ヨーロッパに住むユダヤ系文化人の多くがアメリカに移り住み
ました。しかし、楽園(自由と民主主義の国アメリカ)での生活は、イスラエル建国に熱情を燃やすシオニスト達との葛
藤や文化摩擦(言葉や習慣)などがあり根無し草の国際主義者(Rootless Cosmopolitan)と見られ苦労しました。
第2次大戦後は共産主義者を敵とみなす赤狩り(マカーシーズム)の為、移民した芸術家や知識人が疑われてアメリカ
を後にしています。60年代に入るとベトナム戦争での反戦運動もありました。
そんな中で生まれたジョークの一つに、方やアメリカへ移住するユダヤ人を乗せた船とアメリカからヨーロッパに帰って
いくユダヤ人を乗せた船が大西洋上ですれ違った際に、甲板に出て互いに'馬鹿じゃないのか'と叫び合ったというのが
あります。

ヨーロッパではスターリンによるユダヤ人いじめが行われていて、帰る家のない国際主義者としてユダヤ人医師を槍玉
に差別が行われました。背景には、優秀な息子の多くが父親の願い通りに医者になるケースが多かったことによりま
す。
ユダヤ系文化人はアメリカでもヨーロッパでも、敵方からやってきた異邦人(enemy alien)の扱いでした。アメリカに移り
住み信念を貫いた物理学者アインシュタインは、自分はジプシーのように異邦人であるので、'地獄に落ちろ'と浴びせら
れる言葉はアメリカ人の自然な態度として受け止めていると語ったほどでした。
また、あるユダヤ人は次のように言ったそうです。
'ドイツ人の父親は高圧的で厳格すぎる。ロシア人の母親は無知だ。アメリカの両親は理想化したこころち良すぎる布で
子供を包み育てようとする'と。

            
アメリカにおける1930年代から1960年代にかけての、ユダヤ移民(ヨーロッパからやってきた芸術家や知識人)をテー
マにした'EXILED in PARADISE'の本を読んでの感想は、ストレスのない許しあえる社会は当分来そうにないなという思
いと、与えられた時間と空間を力いっぱい生きた人々に感動しました。
          



897  煙が空へと舞い上がるのを見て


鳥のように自由に空を飛びたいという願いを、発明家は長い間懐いてきました。

レオナルド。ダ。ヴィンチの鳥の羽の動きの克明なデッサンやヘリコプター原理に似たプロペラのようなデザインを、ミラ
ノの最後の晩餐の絵のある教会近くの科学技術博物館で見たのを思い出します。
煙が空へと立ち上がるのを不思議に思い、何か煙には特別な秘密が隠されているのではと考えた人がいました。そこ
で,紙と布地を材料に大きな袋をつくり、その下から煙を送り込みました。この実験を見にきた村人達が恐れ驚く中、袋
は空へと登って行きました。時は1783年6月、フランス人モントゴルファー兄弟が行ったものでした。

しかし、風に左右され方向が定まらない問題が浮かびあがりました。
浮力と推進力を併せ持つ乗り物の誕生は1852年フランス人アンリ・ジフォードによります。彼の考えた乗り物には上
昇する為には、熱した空気を送り込む替わりに空気よりも軽い水素ガスを使用することを考え、方向コントロール用の
操縦舵もありました。
飛行風船と飛行船の違いは、操縦を可能にする自力で進めるモーターがあるかないかによります。
それから10年経った頃、一人のドイツ陸軍将校がアメリカの南北戦争(1861〜1865)の戦況視察任務を与えられ
ました。この戦争では、北軍も南軍も気球に乗り空から敵軍の偵察をしました。ミシシッピー川上空を初めて気球に乗
り戦況を見たこのドイツ人将校こそ、後に飛行船の生みの親となるツェペルン伯爵でした。
この体験に衝撃を受けたツェペルンは、日夜飛行船の開発に没頭しました。周りの人たちには常軌を逸した狂人のよ
うに見えたそうです。
彼の考えた飛行船の特長は、巨大で形はシガーのようにずん胴で、繊維外壁の周囲をアルミニュームのフレームで囲
い、フレームの下か中に操縦室の部屋がありました。
乗客の乗る部屋は操縦室近くか飛行船の胴体にありました。上昇の為には水素ガスを使用して行い、水素ガス容器は
アルミのフレームを仕切ってつくった幾つかの部屋に保管しました。推進はモーターを使いました。初飛行は1900年7
月ドイツのフリードリッヒシャーフェンでしましたが、コンスタンス湖畔に集まった群衆の見守る中、120米の長さの巨大
なシリンダー型の飛行船は18分間湖上を飛行しました。
一夜にしてツェペルン伯爵は有名になり、ドイツ皇帝は20世紀の最も偉大なドイツ人と讃えたほどでした。
ライト兄弟が初めて飛行機で空を飛んだのが1903年であり、飛行時間が僅か十数秒だったことを思うと、このマンモ
ス飛行船が与えたインパクトは想像を絶するものだったことでしょう。
第一次世界大戦(1914〜1918)では飛行船は、敵軍の動きをスパイするだけに留まらず爆弾投下も行い、ロンドン
市は上空からの攻撃で甚大な被害を受けました。

乗客を乗せて運ぶ航空熱も盛んになり、ドイツでは1909年には世界最初の民間航空会社が設立されました。
1928年には大西洋を渡ってアメリカへツェペルン号が飛んでいます。時のアメリカ大統領クーリッジは上空を飛行す
る巨大な船をホワイトハウスの芝生に出て見たほどでした、
そしてニューヨーク市民は伯爵号操縦クルーのパレードを、高層ビルの窓から色テープを投げて歓迎しました。思え
ば、前年にアメリカ青年チャールズ・リンドバーグがたった一人で双発のプロペラ機(スピリット・オブ・セントルイス号)で
何処にも立ち寄らない大西洋横断飛行に成功したばかりでした。
飛行船の長さはボーイング747型機(ジャンボ・ジェット)の3倍もあり、高さは13階建ての建物に匹敵します。離陸の
際はシートベルトなどはせず、自由に客室やラウンジ、プロムナードを散策しながら窓を開けて外を眺めることもできま
した。
ヒンデンブルグ号の記述によると、スピードよりは快適さを心がけてつくられていて、50人の乗客がダイニングルーム
で、白いテーブルクロスの上に並べられた銀製のナイフやフォーク、スプーンを使い高価な食器で給仕される食事を食
べたそうです。
大西洋横断では、200キロの牛や鶏肉、800個の卵、100キロのバターが電気ストーブやオーブンで加工され製氷
機、冷凍庫も台所でありました。
ラウンジではグランドピアノで客をもてなししました。時速130キロ、高度200メートルの上空を飛び、1936年に43時
間かけて大西洋を飛行した記録が残っています。
1929年には、東回りで21日間かけて世界一周に成功して、ゼッペルン飛行船の絶頂期でした。

しかし、華やかに彩られた飛行船でたが、反面最初から危険と隣合わせのビジネスであり、予測のできない天候との
戦いでもありました。ツェペルン伯爵の所有した初期の24の飛行船の内、8機は天候が原因で失っていますし、同様
に試みたアメリカも英国も悪天候による飛行事故の為、諦めたほどでした。
そして、1937年5月フランクフルト(ドイツ)を飛び立ちニュージャージー(アメリカ)に着陸寸前のヒンデンブルグ号の惨
事が起きました。
船体の後尾近くの外壁に小さなキノコ型の火の手が上がると、間もなく水素ガス室に燃え移り地獄絵さながらの情景を
映し出しました。36人の犠牲者が出ましたが、僅か34秒のドラマはカメラマンが撮影していて、世界に広く報道されま
した。

30年に亘った巨大な飛行船時代は、こうして34秒のドラマで終焉しました。
        



898  一家系の長期支配とは


インドのカルカッタにあるハウラー鉄道駅から何度も列車に乗って、内陸のお釈迦様の聖地巡拝に出かけたものでし
た。

駅の名前は駅近くにある鉄で出来たハウラー橋と連動してつけられたのでしょう。
何時もこの橋は人や車、バス、電車それにリキシャ(3輪自転車のタクシーや2輪の人力車)でごった返していた思い出
があります。ハウラー橋の下を流れているのはフーグリ河で、ガンジス河の支流の一つです。カルカッタの町は喧騒の
巷といった言葉がぴったりの安普請の家がびっしり並び、人や犬や牛などの動物で道も活気にあふれていて、じっとし
ていてもじゅわーと汗が噴出すような湿気の高い所だった印象があります。
しかし、英国統治下時代に出来た道路や公園、広場、建物は整然と整備されていて、そこに行くと視界が広く開けてい
ました。そんな一角にウィリアム要塞がありフーグリ河近くに位置していたと思います。
この英国要塞の中の狭い牢獄内に145人の英国人(内1人は女性)が1756年6月の1晩閉じ込められました。翌日
には生存者は僅か女性1人を含む23人だけだったそうです。
このあたりのインド人太守が英国支配に業を煮やしての要塞を急襲した事件でした。
翌年の6月には、南インドのマドラスに駐屯する英国軍がやってきてプラッシーの地で容易くインド土候軍を破って、復
讐とカルカッタの地の支配に成功しました。

その後は、なし崩しにインド各地にインド人の名目上の支配者を置きますが、実質英国東インド会社の言いなりになる
状況が18世紀末には生まれました。
思い起こせば、1498年にヴァスコ・ダ・ガマの率いるポルトガルが南インドの西海岸のカリカットに上陸して以降、オラ
ンダ、フランス、そして英国といった西欧列強諸国が最初は恐る恐るやってきて軒下を借りて商売をしていたテナントに
似た卑屈な態度で始まった付き合いでしたが、気が付けば母屋を乗っ取り、主に納まるといった植民地化の図式どお
りの展開でした。
1707年にムガール皇帝6代目オーラングゼブが死んで以降、18世紀を通してそれ以前からもあったインド各地の土
候(ナワブ)の台頭や独立自冶化への動きを止める力を失っていきました。そして、1803年には盲目のムガール皇帝
シャー・アラムは正式に英国の庇護の下に置かれ、デリー城の彼の傍には常に英国人がいて監視の目を光らせまし
た。
また1857年には、英国に雇われたインド人傭兵(セポイ)の反乱が起き,それを期に英国はインド支配を直接行い第
2次世界大戦終了後の1948年まで続きました。
最後のムガール皇帝はバハドゥール・シャー2世といい、初期のムガール皇帝たちの特質を感じさせる詩心に富んだ
才能のある穏やかな人でした。

父方にサマルカンドの雄チムール、そして母方にモンゴル族の偉大な統率者チンギス・ハーンの流れを汲むムガール
一族は、初代バーブル(1483〜1530)、2代目フマユーン(1508〜1556)、3代目アクバル(1542〜1605)、4
代目ジャハンギール(1569〜1627)、5代目シャ・ジャハーン(1592〜1666)、6代目オーラングゼブ(1618〜17
07)まで6代の181年に及ぶインド支配は、グレート・ムガールズ(偉大なるムガール一族)の名で呼ばれましたが、そ
の後の11代150年間の支配は名ばかりのものでした。

300年以上も続いた1家系による広域支配は、他には僅かにイタリアのトスカーナ地方を治めたメディチ家に例をみる
だけという稀有なものでした。
     
 


899  20世紀の誇る3人の非暴力主義者


マハタマ・ガンディは英国で弁護士になり、南ア連邦でアパルトヘイト(白人優先、有色人種隔離差別政策)に反対し
て、黒人やインド人と始めとする有色人種の人権保護を訴えて長年に亘り活動しました。

そして、祖国インドへ帰り宗主国英国からの独立を願う運動に加わりました。
彼のとった行動は非暴力主義と呼ばれ、武器を手にして闘うのでなく一見消極的ともとれる、英国の課す税金のかかっ
た商品を買わない運動を提唱し、結果として英国を追い込み、またインド人の心に勇気と力を鼓舞するものでした。
ある日、たった一人で歩き出し、砂漠や村や町を通ってアラビア海の海岸にやってくると、海水を手に掬い上げ天日で
乾かして手の平に僅かに残る塩を共に歩いた仲間たちに見せて。英国の売る塩に頼らない自立した生き方が出来る
ことを証明して見せたエピソードは有名になりました。何度も投獄されましたが不屈の精神とインド社会の最下層階級
の人たちをハリジャン(神の子達)と呼び、カースト制度の金縛りに喘ぐインド人に分け隔てなく接した態度やインド独立
(1948)後は生臭い政治に関わることをせず生きようとした人でした。
大多数を占めるヒンズー教徒からは17世紀後半に活躍したシバジ(Shivaji)のイメージを持たれガンディジ(敬愛するガ
ンディ)と呼ばれました。独立は勝ち得たものの回教国家のパキスタンが別にできたことは、一部のインド人には受け
入れ難いことでした。
300年前にシバジの目指したムガール帝国を打倒して、オーラングゼブ皇帝の主導する回教徒優先政策に一矢報い
た武力によるゲリラ戦法を主にした抵抗がデカン高原や西部では成功したこともあって、長い間インド人ヒンズー教徒
の中には回教徒へのわだかまりがありました。ガンディを回教徒に同情的と見なす狂信的なヒンズー青年の放ったピ
ストルの犠牲になって死にました。

しかし、ガンディジの始めた非暴力による平和実現を願う運動は、後にアメリカの公民権運動(黒人にも白人同様の権
利を与えて欲しい)の主導者マルティン・ルサー・キング牧師に強い影響を与えましたし、30年近くも離れ島の牢獄に
入れられたネルソン・マンデラ南ア連邦大統領にも岩の信念を生みました。
3人の偉大な指導者に共通しているのは、恨みや苦しみ、憎しみを与えた人に復讐するのではなく、惜しみなく愛を示
し許しあう姿勢にあります。

ガンディジの生まれたインドには2500年の昔、慈悲の心,生を与えられた今をいかに生きるかを説いた釈尊がいまし
た。彼は決して因果応報(生まれる前のことや死後のこと)を教えたと思いませんが、彼の死んだ後何時の頃からか釈
尊誕生前の伝説(ジャータカ物語)がつくられました。ある時は亀として生まれたり、魚や鹿,象、小人として生まれます
が、常に強者や弱者に対して進んで自分の体を差し出し犠牲になる供養の話になっていて、そうすることで徳を積んで
やっと釈尊は生を受けて、やがて悟りを得たという話になっています。
ヒンズー教では、ビシュニュー神の化身の一人が釈尊だったと教えられるようになりました。
ガンディジの説いた非暴力の教えは、インド伝統の理想の生き方に根ざしていると言えそうです。
正当な理由のない一部の白人優先主義の横行した20世紀にあって、非暴力博愛自己犠牲の尊さを訴えた一石は、
不可能を可能にする一条の光を私たちに見せてくれました。

日本国憲法第9条は人類史始まって以来の国家による非暴力主義による生存を願う崇高なものですが…。さて?
        




900  傘は力の象徴だった


雨の降った日などは、駅やレストランでは置き忘れ傘がいっぱいでるそうです。

今の日本は何時でも何処でも安い傘が手に入るので、自然傘を大切にしようとする気持ちが薄らいでいます。以前、パ
リで雨に降られて傘を買おうと飛び込んだデパートで、何と言って良いのか迷い英語のアンブレラと言ってみたものの
通じず,窮してパラソル?と発してみた所、理解してもらえ助かったことがあります。
英語のアンブレラも仏語のパラソルも、元々は影とか陰、覆うとか太陽といった言葉と近い関係があったそうです。雨よ
けとは無関係で、むしろ日を遮るものだったそうです。

歴史の幕開け時代に遡ると、傘は古代アッシリアやエジプト、、ペルシャやインドでは社会的に身分の高い地位や名誉
の徴として特別な人だけに使用が許されたものであり、召使いが手に持って主人の頭上を覆い、飾り守ったそうです。
アッシリアでは王だけが用いたそうですし、アジア諸国では一般に権力を象徴する道具でした。傘を幾つ持っているか
が力の大小を決めたこともあり、あるビルマの王様は24の傘を持つ王と呼ばれました。中国の皇帝は4層の傘、シャ
ム(タイ)国王は7層か9層の傘を使用した記録が残っています。
また傘は、宗教とも深い結びつきが見られ、エジプトではヌート女神は自分の体で地球を覆い守ってくれると信じられ、
人々はあやかって傘をさして歩いたそうです。
インドや中国では開いた傘は天空の丸天井をイメージしていると考えていたようです。
仏教ではブッダを人間の姿で表わすのは恐れ多いと思った初期の芸術家たちは、ストゥーパ(饅頭型の記念塔)や足
跡、傘で尊い方の実在を表現しました。
ギリシャも同様に神々の頭上に傘をかざして尊敬の念を表しました。ローマ法王は赤と黄色のストライプに色分けされ
た傘の下に、枢機卿や司教も紫か緑色の傘を使用しています。

英国と言えば英国紳士と傘が一組のイメージですが、実際は男性は傘は男らしくない女々しいものとして軽視していた
そうです。ただ、コーヒーハウスに馬車で乗りつける紳士や淑女を雨に濡れないで店と馬車との間の行き来をする為に
は、店側が率先して傘を利用するように少しずつ変わっていったそうです。また、聖職者たちも雨の降る中、教会傍の
墓場で死者を送るセレモニーをする際、傘の実用性に勝てなかったそうです。
諸外国を旅行して回り雨傘が重宝に使われているのを知った旅行家で慈善家だったジョナス・ハンウェイ氏が英国で
初めて公の場で傘を使ったそうですが、馬車の御者などは故意に泥水を跳ねる意地悪をしたそうです。しかし、彼が亡
くなった1786年頃までには、傘は広く使われるようになっていました。

海外旅行にも今では、折りたたみ傘を1本、雨に備えてスーツケースの中に入れて置くようアドバイスする昨今となりま
した。






トップへ
トップへ
戻る
戻る