希望

891  盟友


バブーン(ヒヒ)は良く見える目でインパーラは良く嗅ぎ分ける鼻で行動を共にして、オストリッチ(ダチョウ)は目を使い
ゼブラ(シマウマ)は良く聞き取れる耳を使って一緒に動いて、共通の敵に備えてアラームシステムを作動させながら互
いに助け合い、双方が得をする共生(シンバイオーシス)の知恵を見出しています。

人の消化器に住むバクテリアは、異物をやっつけ消化を助けビタミンをつくり人を援助してくれるのと引き換えに、人の
体内を棲家にして安心して生活します。反芻動物(牛、羊、シカなど)も胃の中にバクテリアや菌類、原生動物を飼い、
植物繊維を発酵させながら栄養分に変えています。
1キロの土の中には5千億のバクテリア、10億の菌類、5億の複数細胞を持つ生物(昆虫や蛆、みみずなど)が住んで
いるそうで、葉や動物の屍骸、生ゴミなどを溶かし窒素をつくり土を肥やして植物の成長を助けます。
珊瑚はポリプ(固定型の動物)と藻からできていて、ポリプは住まいをつくり藻は光合成を行い住まいに色を添えてポリ
プに栄養を提供します。
蟻とアカシア、蟻と油虫、蟻と蝶の幼虫も、丁度人と乳牛の共生に似て、蜜の分泌を受ける蟻が敵から守ってあげるこ
とで取引は成立しています。

フクロウの一種(スクリーチ・オウル)は巣にヘビを飼い住むそうですが、ヘビは巣を掃除する役目を担当して蟻やハ
エ、虫の幼虫やさなぎを食べてくれます。観察した結果では、フクロウの雛は早く成長するそうです。南イタリアのアル
ベロベッロの人たちは、コーン型に石灰岩の石を屋根に積み上げて生活してきました。時に屋根を濡らす貴重品の雨
水を樋に受けて床下の貯水槽に貯めていますが、いたって近々までヘビを貯水槽に入れて虫や菌類、カビなどを食べ
てもらい清潔な飲料水を確保していたそうです。
牛やキリンやカモシカなどの傍には小さな白サギがいるのを目にしますが、大きな動物にくっつく虱やダニを食べてくれ
たり、汚れた皮膚や蛆だどを掃除してくれ、そして危険も知らせてくれるアラームの役目もしてくれるそうです。

真に盟友という言葉がピッタリの関係ですが、果たして人間同士に盟友があるとすれば悪徳関係が母体となっているよ
うに感じるのは、私の思い過ごしでしょうか?




892  外壁と内壁の間を空洞にしてキューポラ(円屋根)をつくるテクニック



イタリアのフィレンツェの大聖堂は15世紀前半、そしてローマのサンピエトロ大聖堂は16世紀に半円形で美しく空にそび
えるキューポラ教会としてつくられました。

イスラム世界では、モスクや聖人や権力者の霊廟に真ん中が膨らんだ玉ねぎ型のキューポラ屋根が多く見られます。
インドのデリーの地に人目を引く内壁と外壁から成る2層構造のキューポラ屋根のフマユーン廟がハジ・ベガム(ムガー
ル朝2代皇帝フマユーンの妻)によってつくられたのは1564年から1573年にかけてでした。読書好きだったフマユー
ンが図書用の建物の最上階から階段を転げ落ちる不慮の死(1556)の後、ベガムはメッカ巡礼に行き帰国後、建設
現場に寝起きしながらミラク・ミルザ・ジャスの設計プランでつくったものです。設計者ジャスはペルシャ人だったと考え
られています。
16世紀のペルシャはサファービ朝の支配の下、王都イスファハンは大いに繁栄し巨大な建造物が建てられていまし
た。サマルカンドに残るチムール廟(15世紀)もペルシャの影響を受けてつくられたキューポラの美しい屋根に色タイル
の張られたものですが、彼の子孫のフマユーン廟も空に高くそびえつつ、廟内は程よい高さの安らぎの空間設計となっ
ています。
イランとインドの伝統美は、フマユーン廟の完成から60年後、タジマハールとなって結晶しました。タジマハールのキュ
ーポラは白い大理石に数々の準宝石がはめ込まれた花鳥や唐草そして幾何学文様ののデザインで出来ていて、月夜
の明かりで見るのが最高だといいます。




892  外壁と内壁の間を空洞にしてキューポラ(円屋根)をつくるテクニック



イタリアのフィレンツェの大聖堂は15世紀前半、そしてローマのサンピエトロ大聖堂は16世紀に半円形で美しく空にそび
えるキューポラ教会としてつくられました。

イスラム世界では、モスクや聖人や権力者の霊廟に真ん中が膨らんだ玉ねぎ型のキューポラ屋根が多く見られます。
インドのデリーの地に人目を引く内壁と外壁から成る2層構造のキューポラ屋根のフマユーン廟がハジ・ベガム(ムガー
ル朝2代皇帝フマユーンの妻)によってつくられたのは1564年から1573年にかけてでした。読書好きだったフマユー
ンが図書用の建物の最上階から階段を転げ落ちる不慮の死(1556)の後、ベガムはメッカ巡礼に行き帰国後、建設
現場に寝起きしながらミラク・ミルザ・ジャスの設計プランでつくったものです。設計者ジャスはペルシャ人だったと考え
られています。
16世紀のペルシャはサファービ朝の支配の下、王都イスファハンは大いに繁栄し巨大な建造物が建てられていまし
た。サマルカンドに残るチムール廟(15世紀)もペルシャの影響を受けてつくられたキューポラの美しい屋根に色タイル
の張られたものですが、彼の子孫のフマユーン廟も空に高くそびえつつ、廟内は程よい高さの安らぎの空間設計となっ
ています。
イランとインドの伝統美は、フマユーン廟の完成から60年後、タジマハールとなって結晶しました。タジマハールのキュ
ーポラは白い大理石に数々の準宝石がはめ込まれた花鳥
や唐草そして幾何学文様ののデザインで出来ていて、月夜の明かりで見るのが最高だといいます。
  892  外壁と内壁の間を空洞にしてキューポラ(円屋根)をつくるテクニック

イタリアのフィレンツェの大聖堂は15世紀前半、そしてローマのサンピエトロ大聖堂は16世紀に半円形で美しく空にそび
えるキューポラ教会としてつくられました。

イスラム世界では、モスクや聖人や権力者の霊廟に真ん中が膨らんだ玉ねぎ型のキューポラ屋根が多く見られます。
インドのデリーの地に人目を引く内壁と外壁から成る2層構造のキューポラ屋根のフマユーン廟がハジ・ベガム(ムガー
ル朝2代皇帝フマユーンの妻)によってつくられたのは1564年から1573年にかけてでした。読書好きだったフマユー
ンが図書用の建物の最上階から階段を転げ落ちる不慮の死(1556)の後、ベガムはメッカ巡礼に行き帰国後、建設
現場に寝起きしながらミラク・ミルザ・ジャスの設計プランでつくったものです。設計者ジャスはペルシャ人だったと考え
られています。
16世紀のペルシャはサファービ朝の支配の下、王都イスファハンは大いに繁栄し巨大な建造物が建てられていまし
た。サマルカンドに残るチムール廟(15世紀)もペルシャの影響を受けてつくられたキューポラの美しい屋根に色タイル
の張られたものですが、彼の子孫のフマユーン廟も空に高くそびえつつ、廟内は程よい高さの安らぎの空間設計となっ
ています。
イランとインドの伝統美は、フマユーン廟の完成から60年後、タジマハールとなって結晶しました。タジマハールのキュ
ーポラは白い大理石に数々の準宝石がはめ込まれた花鳥
や唐草そして幾何学文様ののデザインで出来ていて、月夜の明かりで見るのが最高だといいます。




893  懐かしさは何処にでも

30年前はインドに良く行ったものでした。

ジャムナ川に沿って残るアグラ城の城壁は赤砂岩でできていて、アクバル皇帝時代(16世紀後半)のものですが、城壁
傍の宮殿の多くは白大理石でできていて孫のシャ・ジャハン帝(17世紀前半)が砂岩の宮殿を取り壊してつくったもので
す。
アグラからジャイプールへと西に向かうと、'置き去られた時への誘い'の言葉がぴったりのファテプリ・シクリの宮殿コン
プレックスがあります。
約4百年前(1571〜1585)アクバル帝がインド様式で地元で採れる砂岩を使いつくらせたものです。14年間という短
い首都でしたが、皇帝がこの地を去ってからは乾燥した風土にある為、当時の建造物の骨組みや装飾がそのまま今
に至るまで残っています。

男子3人の誕生を予言してくれ、その通り成就した奇跡の予言者シェイク・サリム・チシュティを讃えて、彼の住む村シク
リに引っ越してきたのが宮殿建設の始まりでした。
興味深いのは砂岩という素材を使って建物や飾りデザインに至るまでつくりましたが、狙いは木を素材としたたおやめ
でリラックスした生活空間の演出だったことです。
日中のうだる様な暑さ、日が沈んでからのしのぎ易さを考慮した風通しの良い細い柱を配したエレガントなつくりになっ
ています。飾り彫刻も手が込んでいて、まるで木に細工したのでは?と見間違うほどです。
この宮殿のデザインの元は、1528年に祖父バーブルがグワリアーの地にあるマン・シンの宮殿でインド芸術の見事な
砂岩の建造物や彫刻飾りに魅せられ触発されたことにあったと云われています。
しかし考えてみると、過って行ったアジャンタやエローラの石窟の中で、木の天井や木の柱をイメージして約2千年前に
砂岩を彫った僧侶の生活空間があったのを思い出します。
そこには壁画に宮殿で生活する女性や出家前の王子時代のブッダの華やかな生活風景が描かれていて、服装に身に
着けている装飾品の素晴らしさに驚いて目を見張ったものでした。
あるいは、地中海に浮かぶクレタ島で知ったミノア人の文明では3千5百年前にはクノッソス宮殿があり、そのつくりは
ファテプリ・シクリの宮殿に似ていました。

火事や水害、戦争に備えて耐久性の高い木から石へと建築素材が移っていく中、木の時代の建築スタイルや彫刻飾り
が残ってしまったのでしょうか?



894  一人の女性が体験した食文化様々



オーストラリアに住んでいた頃、デザートに用意したジャローの中にジェリービーンズ(レーガン大統領が大好きで執務
室の机の上に置いてあり、訪ね来る人毎に勧めたと言う甘い菓子)を入れてつくり出した所、オーストラリア人はその取
り合わせにびっくりしてしまい不評だったそうです。

逆に、オーストラリア人がクランチー(歯音がいい)が魅力のポテトチップスをサンドイッチに入れて食べるのには、この
日本女性は驚いたそうです。
日本に帰ってからも、知り合いになった日本に住むフィリピン女性から、ご飯にココアパウダーをかけ更に牛乳をかけ
て食べたり、ご飯にアイスクリームをのせて食べる人、ご飯に砂糖をかけて食べたりすると聞いて信じられない思いだ
ったそうです。
別の機会には、日本にやって来たニュージーランド女性が夕食を作ってくれたそうですが、パスタにかけるミートソース
の中に米が入っていたそうです。
日本人とは違った米への思い(おかずの一種?)を持っていてこそ、初めて可能な取り合わせが生まれたのだろうと思
ったそうです。

一方、この人たちにお汁粉ぜんざいやおはぎを食べさせるとすれば、拒否反応を起こすだろうと容易に想像できると言
います。理由は、ビーンズ(大豆)を甘くして食べるのは考えられず、そうすることは許せない人たちだからだそうです。




895  ハワイが一番!



50歳の頃、初めてインドとスリランカへ旅行に行き、その後グアムや中国、台湾、ハワイにも行かれましたが、今は80
歳になられデーケアー・センターに通う老いた女性が語りました。

海外旅行した中で一番の思い出はハワイだったと!
明るくて健康的な雰囲気の印象を強く持たれたそうです。マウイ島のラハイナ近くのコンドミニアム(長期滞在者向けの
台所つき貸しアパート)では、部屋が広く2層になっていて緩やかな階段を利用して登っていけるようになっていました。
何時も心地良い風がベランダ側の窓から吹き込んでいて快適でした。
富士山と余り高さが変わらないハレアカラの山の上に自動車で行ったことや、ラハイナのショッピング・センターでフラダ
ンスを見たり、海辺に建つ浄土真宗・本願寺に行き戦前日本から移民した人たちの写真や墓地(海辺に残る墓石や室
内のアパート型のボックスに収められた骨壷などある)で同じく年老いた日系2世の方と話をしたり、笑顔で丸々温かく
抱きしめて下さったハワイの友人たちのお陰でガード(緊張)も溶け、楽しく過ごせた夢のようなひと時だったそうです。
デーケアー・センターに通う前の晩は、次の日のことが気になってしまい良く眠れず、また夕方施設に家族の迎えが少
しでも遅れると心配で不安になってしまう今の状況ですが、3年前に家族で行ったハワイの話をされている時の表情
は、久し振りにガードが下りてリラックスされていました。








トップへ
トップへ
戻る
戻る