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          886  蟻(アリ)に化ける蜘蛛(クモ) 
          インドネシアのバリ島で、ビーチに建つ高級ホテルの3階の寝室の中で群れをなすアリを見たこともあれば、巣を張らな いクモがいるのを本で読んだこともあり、様々な種類のアリやクモが世界にはいるようです。 
          アリは6本の足に2本のアンテナを持ち、クモは8本の足を持っています、 
          アリ塚の中でも日中の外での活動でも、クモの中には、アリそっくりに2本の足をアリのアンテナのように使い6本足で 
          のジグザグ歩きや時には痙攣したように立ちどまるなどカモフラージュ生活をしているのがいます。 
          利点は、アリと一緒にいればクモを好物にしているスズメバチやソングバードなどから身を守ることができ、夜になると アリ塚の中で隙を見てこっそりアリを食べたりもするそうです。万一アリ塚がトカゲや鳥に襲われても、その時は本性を 表わしてクモは飛んだり、目も良く効きますからいち早く逃げて難を逃れるそうです。 
          スリルとサスペンスに満ちたスパイ洋画や伊賀や甲賀の忍者に似ているようにも思えるし、ユダヤ人の言う安全は金を 払うものだという信条にも通じる、いいえ私たちの日々の生活そのもののように見える学習でした。 
          生きものの生態の秘密は、まだまだ分らないことが多くあり、辛抱強い観察を続けることで少しずつ真相が明かされて きています。 
          887  弁当箱の中は芋か麦ご飯だけ 
          第2次世界大戦後の食糧事情を知る目安として、3人の人に登場して貰いましょう。 
          最初の人はドイツのリューベック近くで戦争の始まった頃生まれ、10代の末まで過ごした後オーストラリアへ移住して、 今はアデレードの町で自適の老後を送っておられます。 
          小さかった頃、食事の時両親からよく言われたのは、'肉は少しだけにして、パンをたくさん食べなさい'だったそうです。 
          次はイギリスのヨークシャー近くで育った60歳前後の女性ガイドさんです。 
          少女期を思い出して、有名なローストビーフとヨークシャープディングが食卓に出た時は、きまって僅かの肉片と大きな プディング(パンの一種)だったそうで、肉汁がたっぷりとプディングにかかっていて、プディングが主役だったと言ってい ました。 
          日本で戦後、小学校の教師をしていた妻の母の話によると、先生方の弁当箱の中には芋か麦ご飯が詰めてあるだけ で、昼休みになると先生方は校門の直ぐ外にある佃煮やに行き、1種類の安い佃煮を買いそれをおかずにして食べて いたそうです。そうすることで、生徒も安心して弁当箱の蓋を開けて、母親の愛情はこもっているが先生と似たような昼 食を食べたそうです。 
          庶民は戦勝国も敗戦国もさして変わらない厳しい食料事情だったことが分ります。 
          問題を解決する手段として、戦争(互いに大儀名分があります)を古くから今に至るまでしてきましたが、解決には遠く 及ばず憎しみと不幸だけをその都度つくってきました。 
          並の一人の散髪やが戦争に翻弄されて悲しく処刑されていった、'私は貝になりたい'というテレビドラマを思春期の頃見 たのを思い出しています。 
          888  飯だけは腹いっぱい食べれる誘惑 
          黒澤明監督の映画'七人の侍'は強盗山賊野武伏が横行する乱世の頃、百姓が秋の収穫を終わり一息つける時期を 狙ってやってくる山野に潜む強盗団退治に、飯だけは腹いっぱい食べさせてくれるという誘いに惹かれ七人の浪人が 村人に助っ人する話でした。 
          印象に残るのは、黒澤さんはリーダー格の侍に'本当に生きるのを知っているのは、弱いと思われている百姓であって 刀を振り回す侍ではない。その証拠に百姓は充分の米を隠し持っているし、戦で死傷した者の刀や槍、武具まで奪っ てしまう。したたかに生きる知恵者百姓こそ強い奴だ'といった内容のセリフを喋らせています。 
          そして、戦が終わってみると、7人いた侍のうち生き残ったのは2人だけで、村人たちは何事もなかったかのように秋祭 りに興じている場面で終わっていました。 
          別の黒沢作品に'まーだだよ!'という教育者とその生徒たちの暖かい交流を描いたのがあります。本物とは程遠い嘘 で固めた昨今の日本の教育事情(教育委員会、先生、生徒、両親や社会)が手本とすべき本物が、黒澤さんには見え ていたようです。 
          この作品を遺作に世を去ったと聞いたことがあります。’まーだだよ!’の作品は、ヨーロッパヘ向かう飛行機の中で一 度見たことがあります。 
          889  2日半も世界中の人が飲食できる価値のある宝石 
          インドに行くと、多くの女性が鼻先に穴を開けダイヤモンドをつけていたり、手首や足指にゴールドやシルバーなどの輪 をしているのを目にします。 
          チムールの末裔でフェルガーナ(サマルカンドの東)生まれの温厚な人格者バーブル(ムガール帝国初代皇帝)が、15 26年パニパットの戦いで勝利して、デリーと北インド(ヒンダスタン)の支配者になりました。凱旋してアグラ城にやって きましたが、その時アグラで待つ長男フマユーンがプレゼントしたのが後にコヒヌールと呼ばれた宝石でした。 
          こうして、この宝石は世に広く知られることになりましたが、当時は戦の後は宴が盛んに行われましたし、ヨーロッパの ポルトガル人がやってきていて鉄砲や大砲を伝えていて、世界が余程広いという情報は得ていたであろうバーブル皇 帝は、もしこの宝石をお金に変えるとすれば、世界中の人が2日半も飲み食いしても充分足りるであろうという言葉で巨 大な宝石を讃えました。 
          その後のコヒヌールの辿った数奇の運命は次のようになります。 
          2代目皇帝フマユーンからペルシャのシャー・ターマスープの手に、そしてデカン高原の支配者ニザムシャー、17世紀 になるとシャー・ジャハーン皇帝(ムガール帝国5代目)そして1739年にインドを突如襲ったペルシャのナディール・シ ャーの手に渡りました。このナディール・シャーこそがコヒヌールと命名したと言われ、光の山という意味です。 
          ナディールシャーの孫の時代にこの石はカブールの支配者の手に渡ります。その後、パンジャブ地方(西北インドの肥 沃な土地)のシーク族の王ランジット・シンの元に行き、1849年に英国のインドにおけるチーフ・コミッショナー(主席長 官)であったジョン・ローレンスが貰いましたが、何とズボンのポケットに入れたままで忘れられていたというエピソードが 伝わっています。 
          1851年にロンドンで開かれた第一回世界万国博覧会に出品されて後は、ロンドン塔にある宝物館の中に保管され、 今は一般公開されています。 
          一般でも、インドや大陸の人々はいざという時の身を守ってくれる動産の財産として、古来宝石、貴金属を大切にしてき ましたが、コヒヌールは戦利品としてあるいは外交におけるプレゼントとして様々な国や人の手を旅してきたようです。 
          890  道という字の由来 
          中国の周辺は古来、ケモノ偏やムジナ偏のつく民族の縄張りでした。 
          時には越境して、定住して農業する中華の大地にやってきて略奪したり居座って支配者になる民族もありました。 
          そんな中、逆に大草原や砂漠とオアシスの地に遠征した中華の兵士は、負かした敵の兵士の首を見せしめの為、 
          遠征路に並べ、周辺の遊牧民族を牽制しました。 
          道という字の背景には、あっと驚く歴史が隠されているようです。 
          同様に、チンギス・ハーンもチムールも敵の首を集めて漆喰の中に閉じ込め、誰もが見えるように首塚(塔)をつくった そうです。 
          デリーの北、パニパットの地の戦い(1526)でバーブル(チムールの末裔)が勝利して丁度30年後に、同じパニパット で弱冠14歳の孫のアクバル帝(ムガール王朝3代目)がライバルのアフガン勢力に勝利しましたが、その際も勝利の 記念塔を敵兵の首を積み上げてつくりました。見せしめの為、このような非情な処置をしたムガール一族でしたが、反 逆した内輪の者に対しては親や兄弟、妻や子供を含めて穏便な対応を見せています。 
          後に英主と讃えられたアクバル皇帝でしたが、母親(ハミダ14歳)のお腹にいた時から幼少期にかけては、明日をも知 れない逃亡の旅がつづきましたが、母親は父親(フマユーン)に敵対する伯父(カムラン)の手の中にありました。 
          カムランはアクバルやハミダを殺すことはせず、家族の一員として保護しています。 
          それにしても人が行き交う公道や広場に敵の首を晒したり、首塔をつくったり頭蓋骨で盃をつくり酒を飲むなど世界い たるところで蛮行が行われていました。  |