希望

881  チャーム・ポイントは歯の白さ


インドでは、雑貨商の店先で小枝を細い紐で束ねて売っていたのを覚えています。

ニーム(合歓の木の枝と聞いています)の枝切れでしたが、多くのインド人は歯ブラシとして使っていました。歯磨き粉
や歯磨きペーストはありません。男性などは、人や車が行き交う通りで口に枝をくわえ丁寧に時間をかけてゆっくりと枝
を噛んでいたのをよく目にしました。彼らの歯は例外なく真っ白い綺麗な歯並びだった印象があります。
小枝の先を歯で噛んでほぐしてやると、柔らかい自然の歯ブラシが出来上がります。
噛んでいると、やがて歯の間に詰まっていたものがとれ歯茎の血液循環が高まり、唾液が分泌され唾液は口をすすぐ
のと同じ作用を生じます。天然の歯ブラシは、歯や歯ぐき、歯根に巣食うバクテリアや菌類を退治し班やただれの予防
にもなるそうです。
インドの他にも近東やアフリカ、アジアの国々で様々な天然歯ブラシが今も使われています。
中東ではソールトブッシュ(塩潅木)、西アフリカではライムやオレンジの木、東アフリカでは300種もの木や潅木がある
そうです。
ヨーロッパでも300年ほど前までは、小枝が歯ブラシだったそうです。





882  新しい布地と高貴な色が古代女性を夢中にさせた


紀元後1世紀になると中国やインドからシルクが、そして紫色に染めたウールがローマの貴婦人を虜にしたそうです。

シルクは陸や海を旅して、何人もの土地土地の商人の仲介の労を経て、やっとローマに届いています。
陸のシルクロードを例にとると、各オアシスの代表的な物産(玉、馬、絨毯など)と引き替えに、その都度シルクがロー
マへと一歩一歩前進していきました。長安の商人がシルクを持ってオアシスAに行きシルクを売って、その地の名産の
玉を買い長安に持ち帰り玉を売って利益を得ます。オアシスAの商人はシルクを次なるオアシスBへと運び、Bの物産馬
と交換して馬を持ち帰り儲けました。オアシスBの商人はシルクをオアシスCへと運び、その地の名産絨毯と交換して、
絨毯を持ち帰り売って儲けました。オアシスCの商人はシルクをローマまで運び、シルクを売ったお金で宝石を買い付
けCの町に持ち帰り利益を得るといった具合でした。
ローマではシルクと金の重さが等価で計られたそうです。
逆に近東世界から中国や日本にシルクロード経由で伝わった食物には、くるみ(胡桃)やきゅうり(胡瓜)、ごま(胡麻)
やこしょう(胡椒)などがあり、楽しいことに漢字の胡(中央アジア以西の地域を指す)が使われていて出身地が想像で
きます。

もう一つローマの貴婦人が憧れたものにティルス(フェニキアの町で今のレバノンにあたる)で染められたウールがあり
ます。
地中海のティルス近くの海岸で採れる希少なほね貝が出す紫色の排出物を染料に染めたウールは、1/2キロで100
0ディナリ(3年分の労働者の俸給に相当したそうです)もしたそうです。
彼女たちはディリアン紫に染めた、長くゆったりしたストーラ(ウールの布地)に身を包み外出するのが何よりの楽しみ
でした。ファションは一部の特権階級だけに限られた時代でした。





883  故郷を錦で飾った英雄


びっこ足だったチムールは、タムバレーンとヨーロッパ人には呼ばれ恐れられました。

遊牧民であったモンゴル民族の英雄チンギス・ハーンの子孫に当たるのを誇りとして、遠くペルシャや近東、ロシアやヨ
ーロッパに遠征に出かけました。
シルクロードのオアシス都市サマルカンドに彼の都がありましたが、戦利品と共に連れ帰った文化人や職人たちを使っ
て壮麗な町づくりをしました。ペルシャの絵描きや書道家、建築家を始め、ダマスカスの絹織物職人にガラス吹き職
人、トルコからは銀細工職人に加えてモスクやマドラッサでは著名なイスラム学に長けた学者や博学の文化人が真理
の探究に日夜働いていました。

古くはアレキサンダー大王(紀元前4世紀後半)が、そしてチンギス・ハーン(13世紀初め)すらインダス川の前方に不
気味に横たわるインドへは足を踏み入れませんでしたが、チムールは1398年インダス川に舟を繋いで並べ船橋をつ
くり、インドへと進攻しました。一大決戦は12月17日デリー郊外で行われました。1万頭の騎馬兵、4万の歩兵に密集
型で闘う象軍団から構成されたインド軍は、チムール軍に脆く呆気なく1日で敗れ去りました。
インド象部隊は当時最強と恐れられましたが、牙に長い剣をくくりつけ、周りを囲む兵士の武具がガチャガチャと擦れ
合う音と共に前進してくる密集部隊の後方は弓や石弓などのロケット攻撃隊で固められていました。

百戦練磨の定石に捉われないチムール軍は、溝を掘ったり先の尖った鉄屑を地面に撒き、乾燥草やわらをラクダや
水牛の背に括り付けて先進してくる象に向けて走らせ、ここぞと言うタイミングで火をつけて象を怖気づかせ混乱させる
手法をとりました。
こうして戦利品として連れ帰った石工職人はサマルカンドの町の建設に貢献しましたし、象は緑や赤に体を塗られてチ
ムールの住まいのある広大な庭園の入り口をガードしたそうです。
チムールは都を錦で飾りましたが、あくまで遊牧民の伝統を大切にして住居用の宮殿はつくらず、ここでも庭の中にテ
ントを張り生活したそうです。
チムールの末裔ムガールの人たちがインドへ再びやってきたのは、それから百年後のことでしたが、その際はラホー
ルやデリー、アグラなどに今も残る壮大な宮殿をつくり住むようになりました。

20年ほど前に、駆け足で通り貫けたサマルカンドの町でしたが、トルコブルーのタイルが施されたチムール廟(グルア
ミール)の美しいキューポラと白いターバンを頭に巻いた白い髭の老人が、ひとり傍にしゃがんでいたのを今も覚えてい
ます。





884  いずれも階段式の井戸だった


トルコの東、シリアとの国境近くを旅した人の話を聞きました。

聖書の記述に幾らか触れてみようという同志の企画した旅だったそうです。
ノアの箱舟が大洪水の後、再び地上に漂着したと考えられているアララット山近くの場所や、アダムとイブが住んでいた
パラダイス(楽園)ではないかと言われている所や、そしてハランの町近くのリベカの井戸など見たそうです。
バスで傍を通ったチグリス川やユーフラテス川でしたが、このあたりは上流に当たっていて、チグリス川は静かに流れ
ていて川幅も小さく地元の人は女性の川と表現していて、一方ユーフラテス川は波が立っていて川幅も大きく男性の川
と言っていたそうです。

ハランのオアシス町は、ユーフラテス川の下流の町ウルに住んでいたアブラハムが一族を引き連れて出て神に導かれ
て行った所です。後に息子イサクの嫁を見つけるために、下僕が再びハランへ旅しますが、井戸水を汲みにやってき
た娘リベカこそイサクの嫁に相応しい人であると見抜くエピソードが聖書で語られています。
リベカの井戸は今は周りに柵がしてあり、近寄っては見れなくなっていたそうですが、同志の中には以前ここに来た人
もいて聞くと、つるべ式の井戸ではなく階段を使って下まで汲みに行くものだったそうです。聖書では、下僕の連れてい
るラクダなどの家畜に水をやる為に労を惜しまなかった心の優しいリベカですが、階段を何度も上り下りしたのだろうと
思うと改めて大変だったことが分ります
きっと乾燥の激しい高地帯のこのあたりでは、井戸は地下を流れている水脈を見つけて掘ったようです。近東の世界で
昔々から行われてきたカレーと言われる、一定間隔をおいて井戸を掘り水脈を涸らさないように、また流れをコントロー
ルする知恵が働いていました。
地上を流れる水はかなりの蒸発があり、他の生きものとの共存や汚染など不安な面があったことでしょう。

ペルーのナスカの地上絵を見ようとセスナ機で飛んだことがありますが、あの乾燥した砂漠化した地域でも生活用水の
確保の為に、地下水脈を見つけて所々に階段式の井戸を掘り、昔の人は力強く生きていたことを教えられたのを思い
出しました。
またインドの西、パキスタンに程近いラジャスタン州の砂漠に掘られた井戸を覗いたことが30年近く前に一度ありまし
たが、その時の説明ではこの井戸は水を汲む為の井戸ではなくて、非常時に要塞城から逃げる地下道の出口だと言
われたことがありました。何キロも離れた所にオアシス町や要塞があったように思います。
しかし、今にして思えばこのインドの階段式井戸も、本来地下の水脈を捉えた水汲み用の井戸だったものが水脈が涸
れてしまったのを利用して、知恵ある人が城からの逃げ道として使ったのでは?と思えるのですが…。





885  六時の一気飲み


古くはバッカス祭りの陽気なドンちゃん騒ぎや李白の孤独な酒があり、美空ひばりのひとり酒や学生の一気飲みに至る
まで酒は、百薬の長になったり慰め勇気失敗や諸悪の根源になったりと、安定した評価を貰えない人生にとって重要な
バイプレイヤーの役割を演じてきました。

どちらかと言うと、厳しい生活環境を一時的に忘れる為の麻薬に似た飲料としての面が強いようです。麻薬は始めると
止められなくなる怖い薬です。
産業革命期のイギリスや20世紀前半のアメリカ工業化社会においても、機械と時間に追い回される中での逃げ場は
酒でした。また、未知の大陸や島を侵略するのに先住民族へのプレゼントに酒が重要な役割を果たしてきました。

オーストラリアでも19世紀末になると産業が活発になり、長い労働の疲れを癒しリラックスさせてくれるレクレーション
が殆どなかった時代でした。浮世の憂さを酒に紛らわす風潮が流行り大きな社会問題になりました。
'酒に触れた舌では、私の唇には触らせない'などと酒飲み連中から罵倒されながらも堅物の女性達や教会を中心にし
て、禁酒を推し進める社会運動が盛んになりました。
第一次世界大戦(1914〜1918)が始まると、若い兵士達が酒に溺れないようにと禁酒運動は一層盛り上がり、つい
に女性の選挙票を気にする代議士達により酒の販売時間を制限する法律が通りました。パブは6時丁度に閉まりま
した。
そうすれば夫や恋人はしらふで妻や恋人の待つ所へ帰るだろうと考えたのですが、実際は仕事が終わってから6時ま
での短い時間に飲めるだけ飲んでしまおうとする人でパブはいっぱいになり、'6時の一気飲み(がぶ飲み)'がオースト
ラリアのライフスタイルになりました。
1950年代まではこういったパブ風景が続いていたそうですが、やがて観光客がオーストラリアへやってくる頃から6時
で閉まるパブへの不評が観光客からも出始め、少しずつ営業時間は延長されていったそうです。
イギリスのパブでの11時に店を閉める規則のもと、10時半になるとラストオーダーと言いながら鐘を鳴らすバーテンダ
ーやアメリカ、インドなどのドライ・ステート(州により町により酒の販売時間や場所ライセンスの制限があったり全く飲め
ないなど)での経験が懐かしく思い出されます。

結局の所、酒の全面禁止では問題解決は難しいようで、レクレーションなどを入れながら酒を取り込んでいくのが賢明
のようです。







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