希望

876  虫歯とあめ玉

小学校の1〜2年生だった頃、虫歯治療の為よく母に連れられて歯医者院へ通ったものです。

カマキリの長い手のような、銀色の冷たく光る折りたたみ式の器械の先が無常に口の中に突入して、舌でそっと触った
だけでも痛く、そっとしておいて貰いたいその歯をキリキリ音を立てながら削っているのだろうと想像するだけでも涙が
こみ上げてくるし、喉は呼吸を乱した下からの空気の押上で詰まってくることになり、嫌な嫌な怖いところでした。
こんなヤンチャ坊主を相手にして、治療しなければならないベテランの先生は治療が終わると、いつもあめ玉を一つ私
の手の平に載せてくれ、よく頑張ったと褒めてくれたものでした。

動作がゆっくりして少しボケてきている年老いた母が、いくつも丸薬を丁寧に取り出してテーブルの上に並べ、水と一緒
に飲み込んでいるのを見て、おいしいの?と聞いてやると、
キリッとして'良薬口に苦し'と返事しました。
60歳を越えた私は懐かしく子供の頃虫歯治療に通ったのを思い出して、いえいえ'良薬は口に甘いものよ'と口の中でい
って飲み込みました。





877  状況からつくられた私達(Creatures of circumstance)


History(歴史)はHistora(ギリシャ語)から生まれた言葉だそうで、知るという意味です。

広く深く知れば、過去や現在をより深く理解できるようになり、おそらく未来までもと考えたいのですが、少なくとも過去
から未来へと繋がった見通しが可能になるかも知れません。しかし、歴史を学ぶ方法を見つけ出せないなら、未来はよ
り暗くなることでしょう。
私達は状況によってつくられた被造物に違いありません。
チャンス(機会)とミスチャンス(機会を逸してしまう)、アクション(行動)とリアクション(反応)、賢明な判断とそうでないも
のがぶつかり合い絡み合って歩んできました。

オーストラリアを例にとれば、1526年以来繰り返されたヨーロッパ人によるミスチャンスとインディシジャン(不決断)の
くり返しがありました。
ポルトガル人、オランダ人、スペイン人、フランス人そして英国人がオーストラリアの近くを通ったり大陸に触れたりしま
したが、所有する最後の決断はしませんでした。1768年にはフランス人ルイ・アントン・デュ・ブーゲンビルは、ほんの
少し舵を南に向けるだけで英国旗ではなくゆりの紋章のついたフランス国旗をオーストラリアに立てていたことでしょう。
このような計算違い(ミスカルキュレーション)が英国人クック船長に上陸の機会を与えることになりました。偶然に手に
入れた新天地を英国はどうしていいか分りませんでした。

一方、アメリカではミスジャッジメント(誤った判断)やミスチャンスが重なり、英国に対する独立戦争が起こってしまいま
した。それまでは、囚人の流刑地であったアメリカに替わりオーストラリアに白羽の矢(?)が当たり、紆余曲折の末に
シドニー湾に最初の入植者がやってきましたが、囚人により構成されていました。
その後のオーストラリアの歴史もチャンスとミスチャンスが見られ、突発的なものや綿密に計算されたものが重なり合っ
て、ターニングポイント(転換点)となって少しずつオーストラリア人が出来ていきました。

アブラハム・リンカーンは、'我々は歴史から逃れることはできない'といいましたが、それは私達自身による数々の失敗
や成功が未来の審判から逃れられないという事でした。
同様に過去の影響を私達は避けることは出来ません。
日常の何気ない行為(自動車のアクセルやブレーキを踏むような)は過去から長い間積み上げた反射行為によりま
す。一方、万一あの事態が少しでも違っていたらと想像したくなる事件もありました。第一次世界大戦でヒットラー伍長
が鉄砲の玉に当たって死んでいたら? '人生は運のいい奴が勝ちさ!'と絶頂期にあったケネディ大統領が残した言
葉だそうですが、リー・オズワルドに撃たれて瞬時に運を失ってしまいました。

歴史は機会(偶然)が演出する60億人の雑多な集成でつくられ、我々一人一人は状況(環境)によりつくられたもので
す。偶然に男が女に会い、やがて新しい生命がそこから生まれると考えれば、子供はそれに何も注文つけられないし
親を選ぶことも出来ません。
運、機会、気まぐれな外的要因だけが、子供が健康で有能に育つかそうならないかの唯一の答えとなります。遺伝によ
るチャンスやミスチャンスの他には、成長過程の中で再びチャンスやターニングポイントにより結婚したり離婚したり仕
事についたり仕事を変えない決断があったりと常に状況に影響されています。
個人の生活が偶然や仕組まれた、あるいはそうでないことに導かれてターニングポイントを迎えるとすれば、その集合
体がつくるもの(歴史)も同様だと考えられます。
こうした見方は、消極的否定的(ネガティブ)に見えるかも知れませんが、逆に気が楽になるようにも思います。私達
は、私達と同様の資質をもった人類という巨大な河の一部であり、人類もまた私たちに似た感情や情熱、希望や恐怖
を持ち、勝利したり傷ついたりしながら手探りで未来に向かっていることでしょう。

その時代に生きた人々は、その時代に重要だと考えた石のように硬く確実な遺産を残しますが、それもやがて短命な
蝶が舞って消えるように現実の中で溶けてしまいます。
後に影響を与える知恵もあれば、愚かさだけを印象付けるものもあり、次から次へと登場しては去っていきます。
先人を突き動かした感性や熱情の思考錯誤を学ぶべきですが、私達は学ぶのが遅すぎる傾向があります。

私達は歴史に学ぶことができないことを歴史は教えてくれているのかも知れません。


   'Turning Points' 副題'オーストラリアをつくった人達'
       マイケル・ページとロバート・イングペン作の前文を読んでの感想





878  大事件はヨーロッパにいた時に


5千人の人命を瞬時に奪った神戸地震は、イタリアのウンブリア地方にあるアペニン山中の町に滞在していた時に起
きました。

1月の寒い頃でした。文部省主催の全国から選ばれた先生方と一緒に、その町の教育委員会や学校を訪れて視察を
していました。日本人は七転八起のダルマのように何時も困難に負けないで立ち上がる勇気のある人達であり、何か
お手伝い出来ることがあれば遠慮なく言ってくださいと訪問先で挨拶されたのを覚えています。
最初は、情報が混乱していて京都や奈良の古都が全壊したとか、大坂の町が不能になっているとか聞いていました。

西暦2千年の節目を迎える12/31日から翌日の1/1日に変わる瞬間に、コンピューターに誤作動が生じて、交通機関
やコミュニケーション器械が変調をきたす可能性があるので、真夜中まで起きていて事件が発生するかどうか確認した
上で、ファックスで東京に連絡を入れるように指示された旅行でした。
その夜は、スペインのセビリアでのフラメンコ・ショーを観賞して郊外にあるホテルに帰ったのは11時近くでした。結局何
事もなくターニングポイントを通過したことを、ロビーのレセプションに行き打電したのを思い出します。テレビは世界各
地の新年を賑やかに祝っている風景を流していました。

そして、ニューヨークのマッハッタン島で起きた2001年9月11日世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込んだ
事件です。
丁度その時はイタリアのベネチアにあるホテルの部屋でテレビを見ていました。偶然にチャンネルを回すと、CNNで進
行中の場面が映し出されました。時刻は夕方でしたが、この時期は陽は未だ高く外は日差しが強く照っていました。し
ばらくは状況が掴めず、映画の一場面かと思ったほどでしたが、メガネをかけた中年の男性アナウンサーが冷静に低
い落ち着いた声で、静かに語っていたのが印象に残っています。





879  憧れの世界の裏側が見える年になった


子供の頃、住んでいた広島だったか呉だったかで馬に乗って街中を行進する本物のカーボーイを見たことがあります。

アメリカからやってきた有名な映画俳優だと聞いたように思います。映画でしか見たことのないかっこいい西部劇のカ
ーボーイが、目抜き通りをパレードしているのです。その頃からだったでしょうか?少しずつプロレスが白黒テレビで見
れるようになり、やがて度外れたパワーを誇るメジャーリーグ野球の凄さやバスケットボールなども1992年のバルセ
ロナ・オリンピック頃までは不敗神話に近いほど天下無敵を信じていました。

20世紀の初め頃は、ヨーロッパにおいてもアメリカ大西部を舞台にした幌馬車を襲うインディアンとヒーローの手に汗を
握るワイルド・ウェストショーが興行され、人気を博していたそうです。
そして今は、ロスアンゼルスやオーランドの、近くは大坂に行けばユニバーサル・スタジオでガンマン同士の決闘が見
れたり、キングコングと一緒に記念撮影が出来、また地下鉄のプラットホームが地震や水の浸入で壊れ、そこに電車
が突っ込んでくる擬似体験まで出来ます。
憧れのアメリカの化粧した顔の裏には金と欲がうごめく、何処とも変わらない世界があるのが、やっと分ってきました。

チルチルとミチルの旅は、自分の家の中に青い鳥がいたことを教えていました。





880  八千キロの舗装道路をつくった古代ローマ人


ナザレの人・イエスを神の子として世に広めていく布教活動で、新約聖書の中で最大の立役者だった使途パウロは、ア
ジアから西へと向かう際はローマ道を使い、ローマから東に向かう時は、夏はいつも風が西から東に地中海では吹くの
を利用して船で旅をしています。

ローマ道がキリスト教を始めとするもろもろの宗教伝播に役立ったのは勿論ですが、その他物産や軍事、思想や芸術
など多岐の分野でも大いに貢献しました。
テベレ川の下流にあった唯一の浅瀬の地は、古くから各地から延びている道が交わる所でしたので,町(ローマ)がつく
られました。
ローマ人は道路建設に当たっては、地中海世界にあって先輩都市国家でもありライバルになっていったカルタゴに学ん
だようですが、身近にエトルスク人の使っていた羊など家畜の移動に使い、乾燥期は埃が立ち雨が降ると泥んこ道に
変わる人も良く行き交った踏み慣らされた道が既にあったようです。
ローマ人は綿密な計画を立て、がっしりして役に立ち、しかも見た目に美しく出来る限り最短距離で目的地へと繋ぐ道
の建設を心がけました。多くの道が直線で,山や丘では日の当たる側に道をつくり天候の悪影響を避けるようにしまし
た。建設には、その地に駐屯しているローマ兵、労働者、奴隷などが力を結集して作業しました。
狭い道でも幅2.4米、通常は4米ありましたし、カーブしている所では道幅を広くとりました。中には両側の歩道を入れる
と、10米に及ぶものもありました。
作業は先ず地盤が固くなっている所まで掘り、掘り起して出来た窪み空間に下のほうから順に大き目の石や粗石、そ
の上に小石か平らな石を重ねセメントでくっ付け、更に上を砂利や小さく砕いた石を圧縮して敷きました。

当時から驚かれ賞賛されたのは舗装された道であり、表層が大きな石や岩の厚い平板で出来ていて、意図して中央が
少し盛り上げてあり雨水が両側の溝に流れ落ちるようになっていました。今日までその姿を残しているものもあるほど
です。
川や山などの自然の障害にも橋を架けたりトンネルを掘ったりして対応していて、当時の土木工学の英知をだして乗り
越えました。
ローマ人の道は、兵士や説教者,商人や旅人、芸人や剣闘士など様々な人が通っていきました。1日に25キロから30
キロ平均歩いたそうです。石で出来た円筒形のマイル・ポスト(里程標石)が道の所々に立っていて、そこは休憩所にな
っていて、食事したり馬を乗り換えたり泊れる施設のあるのもありました。1ローマ・マイルは現在の1480米でした。
帝政ローマ初代皇帝アウグストゥスは、ローマの中心広場(フォロロマーノ)に金色にメッキされた文字がはめ込まれた
マイルポストを設置して帝国の中心としましたが、後に'全ての道はローマに通じる'という格言が生まれました。

ローマに旅すると、今でもアッピア旧街道の石畳道が残っていて1960年のローマ・オリンピックでエチオピアのアベベ選
手が裸足でこの道を走ったことや、迫害を逃れようとこの街道を南へと歩いていた使徒ペテロの前に主イエスが現れた
エピソードが残る'主よいずこへ(クオバデス)'教会が建っています。ローマ道の女王と讃えられたアッピア街道は、東方
への玄関口であった港町ブルンディジウムとローマを結んでいましたが、紀元前312年に造られ始めました。
その他、サラリア(塩)街道とフラミニア街道はアドリア海を渡りバルカン半島に上陸してドナウ川やライン川へと延びる
道でしたし、アウレリア街道は北のゴール(フランス)やイベリア半島へ、オスティエンシス街道はテベレ川の河口につく
られた港町オスティアに続いていましたがアフリカとの交易に主に使われました。

ヨーロッパ、中近東、アフリカへと支配地域を拡大した帝国の道は、全長八千キロ、現在の30の国に及んでいました。



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