希望

871  記憶に残る言葉


'パリを感じるには1日だけで充分だ'と言われたことがあります。

その言葉の背景には、'例え1週間かけても1ヶ月、1年、10年、いや一生かけてもパリの魅力を味わい尽くすことは不
可能だから。そうであれば'という強烈な表現が隠されていました。
ゼミの学生やその卒業生の有志と共に20年近く、ほぼ毎年春休みを利用して、地中海に軸を据えて東はイラン西は
アイルランド北はヨーロッパ諸国南はチュニジアエジプトに亘る、ミニ版グラン・ツール(18世紀に始まった文化人の
旅)をされました。
バスの中では、私語は慎み2席の座席を一人掛けし、自分で感じる旅を大切にするように指導され、ノートにメモをする
人たちで満ちた旅を演出されました。
個々人の想いが違うのを認め暖かく包み、新分野へのチャレンジを後押しするスタンスを貫いてこられました。
旅こそ人生そのものであり、何時何処で何をと詳細なプログラムを(例えば夕日が沈み行くのを、キプロス島でビーナ
スが海の泡から生まれた伝説の海岸が見下ろせる対岸の丘の上から見ながら過ごす)立てて出発しますが、途中で突
発的な事件が起きて予定を変えざるを得なくなっても、それこそ旅(そこには新しい出会いがある)そのものだと言いき
られる人です。
万一、途中で旅が終わることがあっても、それはそれでよいと教えられ、時々生じた不慮の事態にも動じないリーダー
です。
そして、いつも旅の仕上げはパリでした。
パリから個人個人の日程で、短きは3日長きは1〜2週間ほど自由に旅(人生)を始めればよいと考えられているようで
す。

旅の素晴らしさと寂しさ、出会いと別れ、喜びと落胆、勇気としり込み、健康と体調不良、刺激と疲れ、会話と孤独沈
黙、自然と人工、……。

その方は巌谷国士氏です。





872  退屈病に集団感染すると


現代の重大病気の一つにあげる人もあり、アメリカやカナダでは4人に3人が退屈に飽きているという調査結果がでて
います。

マンネリ化した生活の中、テレビや映画、音楽や雑誌、インターネットの流す現実離れした情報に逃避する傾向が強く
なっています。
古代ローマ人は競技場(サーカス)や劇場(テアトロ)、円形闘技場(アンフィテアトロ)で日夜奴隷やピエロ、アフリカから
遠くインドまで生息する動物をかき集めて行われた残忍な戦闘競技に酔いしれました。
信仰の盛んになった中世の時代においても、魔女狩りや異端裁判など異常な熱情で他者がいたぶられ苦しむのを喜
んだり、一般の処刑も広場などで大勢の野次馬の見守る中で行われてきました。
そして、今も世界の何処かで想像を超える非情な行為が行われています。

1930年代は世界中が経済不況になり明日が見通せない時代でしたが、イタリアやドイツではファシスト党やナチス党
の台頭があり、日本でも軍部が政治の実権を握り肥大した国民の不満感情を利用して中国大陸を侵略しました。
アメリカでは、シカゴを中心にして1930年代に初めてラジオでメロドラマが流され、中流階級の女性たちを虜にしたそ
うです。昼間放送される連続通俗劇は、主に化粧品会社の提供によるものだったところからソープオペラとも呼ばれま
した。
1938年の夏の夕食時にラジオから、火星人が地球に攻めてくるというニュースが流れた時は、大混乱になったそうで
す。正常な反応(ラジオ局や警察に真偽を確かめた人)をした人は3人に1人だけでした。勿論、このニュースはオーソ
ン・ウェルズ(有名な俳優)が作為的に仕組んだ作り話でしたが…。
アメリカ社会では当時、ジャズやスィングの音楽が一世を風靡していたそうです。

個々人が孤立して生きている現代社会では、常識では考えられない取るに足らない情報に愚かに反応する危険が、以
前にも増していると思います。





873  新教に属する清教徒の分派がメイフラワー号でアメリカに行く


ローマ・カトリック教(旧教)の教義に対してプロテスト(抗議)して生まれたのがプロテスタント教(新教)です。

プロテスタント教徒の中には、ローマとの別離だけでは不十分でありカトリックの痕跡を消し去ってしまおうと考えた人た
ちは、教会での祈りを清める(ピューリファイ)のを重視したことからピューリタン(清教徒)と呼ばれました。
更にピューリタンの中で、司教も必要でなく、国家の干渉から独立して会衆自身が教会組織を運営していこうと考える
人たち、セパレーティスト(分離主義者、分派)がいました。
この分派の人たちは、イギリス国王(エリザベス1世やジェームズ1世)の命じる司教服の着用や聖職者の階級序列、
国王への忠誠を強制させるやり方に嫌気がさし、宗教の自由があるプロテスタントによる市民国家の成立を目指して
いたオランダへ逃げました。
スクルービーの町の分離会衆のとった行動でしたが、オランダでは各宗派に寛容で甘いモラルコード(道徳律)に溶け
込めませんでした。
そして、やがて1620年9月に分離主義者百名あまり(子供を含む)が信仰の実現を求めて新天地へと船に乗って旅
立ちましたが、後にピルグリムズ(もしくはピルグリム・ファーザーズ)と呼ばれるようになりました。

ピルグリムズの誕生のおよそ百年近く前に遡って見ますと、当時イギリスはローマ・カトリックキリスト教の国であり、国
王ヘンリー8世は信仰の守護者としてローマ法王から権限を与えられていました。王は男子の世継ぎを生めない王妃
キャサリン(スペインのアラゴンからやってきた)を離婚しようとしましたが、法王クレメンテ7世は認めようとしませんでし
た。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革の機運が起こっていました。
当初は、宗教改革者達をイギリスは認めませんでしたが、結婚の無効を承認しないカトリック教会を王は逆に無効とし
ました。1534年のことです。
ヘンリー8世は自らイギリスでのキリスト教の長となる宣言をし国教会をつくり、カトリックの修道院を閉鎖して、その財
産を売り飛ばしました。1547年に王は亡くなりましたが、その頃までにはプロテスタントの国になっていました。息子の
エドワード6世が後を継ぎましたが、ローマ法王庁とは没交渉のままで1553年に死んでしまいました。
次に王位についたのは女性でメアリー女王(アラゴンのキャサリンとヘンリー8世との間に生まれた娘)ですが、ローマ
法王庁の復権を図り反対する3百人もの人を処刑したり、プロテスタントの人達を国外に追放しました。後に彼女はブラ
ディー・メアリー(血なまぐさいメアリー、カクテルの名前になる)と呼ばれましたが、この人も1558年に亡くなりました。
エドワード6世もメアリー女王もいずれも短い統治期間でした。

後を継いだのが英国の第一黄金期を築いたと讃えられたエリザベス1世女王(メアリー女王の異母姉妹)ですが、ロー
マ法王庁の干渉を押さえ父王ヘンリー8世の宗教政策に戻しました。聖職者の国王への忠誠、聖職服の厳格な着用を
義務づけ、聖職者の階級序列の制定を行いましたが、ローマ・カトリック教を真似したやり方に清教徒の反発を買いま
した。

1603年にジェームズ1世が即位しますが、分離主義者達に宗教上のプレッシャーをかけたのがきっかけとなり、オラ
ンダへ逃避(1608)する事件に発展しました。
ジェームズ1世王と後で和解し、アメリカのバージニアに植民する許可を得た清教徒の分派の人たちは、メイフラワー号
に乗って1620年9月にイギリスのプリマス港を出航しますが、2ヶ月もの間大西洋で波に翻弄され、やっと12月21日に
当初目指したバージニアよりは遥か北に位置するマサチューセッツのコッド岬に上陸しました。冬の備えのない彼らの
半数が数ヶ月で死んでしまいますが、先住民族のアメリカインディアンの人たちに助けられながら、翌年の秋(1621)
には神に感謝する収穫祭(Thanksgiving Festival)を行いました。この感謝祭は、今もアメリカで国の祭日として祝われ
ています。
もう一つ有名なものにメイフラワー・コンパクトがありますが、上陸にあたって男性たちが集い新コロニー(プリマスコロ
ニー)建設運営の約束を行いました。その精神が後にアメリカ合衆国建国の基本となり、独立宣言書や憲法に利用さ
れました。

プリマスコロニーへの入植者は15年を経ずして2千人に増えました。
1630年には別の清教徒たちが分派の人たちに習ってプリマスの北に入植してきて、マサチューセッツ・ベイ・コロニー
をつくりました。1640年には、ニューイングランド全体で2万人ものイギリス人移民がいました。1691年には、分派が
つくったプリマスコロニーはマサチューセッツ・ベイコロニーの清教徒に吸収されました。そして、ボストンの町がニュー
イングランドの中心(ハブ)となり清教徒の生活リズムが広まりました。

清教徒(ピューリタン)は材木でつくった集会場(ミーティングハウス)に毎日曜日に集いましたが、冬の集会などは暖房
のない凍りつくような寒気の中で、説教者の話を聞き説教者も僅かに手に手袋をすることで、凍傷から免れたといわれ
ます。
信条は、フランスの宗教改革者ジョン・カルヴィンの流れを継承していて、神が予め救われる者とそうでない者とに分け
ているとする予定説を信じていていました。やがて説教者は悔い改め(リペンタンス)を強調するようになり、地獄の恐
怖を増幅して語り教会の指導する教えに忠実に従い生きさせようとする拘束力が強くなりました。

外からの福音宣教者の中には、追放されたり、絞首台にかけられたり、鞭打ち刑の末罰金を科せられたり、耳をそぎ
落とされた人もいました。
こうした清教徒の不寛容な対応は、マサチューセッツを出て他のコロニーで生きていこうとする人達を生み出しました。
自分たちは神から選ばれたのだと考える清教徒の中には、アメリカインディアンは土地の不法占拠者であり下等な人
種と見なし、人種間の衝突もありました。

労働熱心で勇気があり宗教心に富んでいる清教徒でしたから、今でも'ピューリタン精神'とか'ピューリタンの正直・誠実'
と言われますが、彼らの評判を高め、そして正当化するきっかけが18世紀に入るとやってきます。それは長年のイギ
リス支配に対して独立の気運が高まる中、宗教信条と政治が結びつき革命への流れのはけ口が出来たことでした。

以前コッド岬の付け根近くにあるプリマスコロニー(再現したもの)を訪れたことがありますが、周囲を木の柵で囲んだ
原始生活に近い状態で4百年前生活していた当時を見せていました。木造の家の中では、中央に火が熾っていて当時
の服装の女性に声をかけると、とても私たちの知る英語とは思えない言葉(当時話されていた言葉を再現しているとい
う)が返ってきたのを思い出します。近くの町や村に住む人達がコロニー(入植部落)をボランティアで支えていました。





874  陛下はテームズ川を持って引越し出来ない


17世紀初めころ、イギリス国王ジェームズ1世はロンドンで執り行なう戴冠式の費用2万ポンドを、ロンドン市に課そうと
したことがあります。

ロンドン市長(Lord Mayor)に断られると、国王は'おまえとロンドンの町を打ちのめしてやる。裁判所も宮殿も議会もウ
ィンチェスターかオックスフォードに引っ越してやるから後悔するな!'と脅しました。それに答えて市長は、'ロンドン商人
には、何が起ころうと一つの慰みがあります。それは陛下といえどもテームズ川を持って引越し出来ない。'と言ったそう
です。
失地王と呼ばれたジョン王(1167〜1216)は1215年ウィンザー近くのラニーミードにおいてマグナカルタ(大憲章)
に署名しましたが、その結果イギリスに民主主義が根付きましたが、合わせてロンドン市に自由と港と商人に自由の商
業権を与えていました。

'年老いたテームズお父さん'の愛称で親しまれてきたテームズ川は、イングランドの南西に位置する風光明媚なコッツ
ワルドの丘陵から流れ出る4つの水の流れが一つになり、曲がりくねりながら東に向かって340キロ旅をして北海に注
ぎ出しています。
歴史の中では、紀元前55年と54年にジュリアス・シーザーがイングランドに侵入しましたが、テメシス(シーザーの命
名)が前進を阻みました。テメシスこそテームズ川でした。それから90年過ぎた頃、クラウディウス皇帝が河口から60
キロ遡った潮の干満が激しく湿地帯が広がっていた所に木の橋を架けて、テームズ川の北側に港をつくりロンディニウ
ムと呼んだのがロンドンの始まりでした。
ローマ人はヨーロッパ諸国と貿易を盛んに行い、地中海世界の贅沢品(レバノン杉など)を輸入したり、イギリス国内の
産物がテームズ川を使ってロンドン(ロンディニウム)に集まり発展しました。
やがてローマ帝国が衰退して紀元後410年に最後のローマ軍団がイギリスを離れてからは、ロンドンの町は見捨てら
れテームズ川の交通も減って行きました。
11世紀の頃までは、ロンドンの上流20キロの所にあるキングストンでアングロ・サクソン(ゲルマン民族の一派で5〜
6,7世紀にかけてイギリスにやって来た人たち)の王の戴冠式が行われていました。
そして、1066年にノルマンディ(北フランス)からウィリアム征服王がやってきて、ロンドンのウェストミンスターで戴冠式
を行い、ロンドンの町(ローマ人がつくった周りを壁で囲っていた所)の中にロンドン塔を建設することで、港の確保や商
業が盛んになり3万人の人が生活するほどになりました。
またロンドンの西35キロにあたるチョーク岩山の露出した丘の上に要塞をつくりましたが、後にウィンザー城と呼ばれ
ました。テームズ川を眼下に見下ろせる景勝の地で、そこにはサクソン王族の住居がありましたが、今も王家の城とし
て使われています。
1209年には、30年の歳月をかけてロンドンの町にテームズ川にかかる石橋が出来上がりました。橋の上には店や
住居、礼拝堂などの建物が立ち並び2つの跳ね橋がかかっていて、南側には防衛用の物見の塔がついていました。歌
に歌われたロンドン・ブリッジです。
時が経つにつれて、テームズ川、その支流、運河を利用しての商業や交通は益々盛んになって行きましたが、ロンドン
の道路は舗装されることもなく貧弱なままでした。
ロンドンの町はイタリアの水の都べネチアに似て、川沿いに立派なテラスを持った宮殿風の建物が多く建ち並ぶように
なりました。グリニッチの町でもホワイトホールやウェストミンスターにも、ウィンザーやその上流でも、そしてハンプトン
コートでは王家の宮殿が出来ました。
1717年には、ジョージ・フレデリック・ヘンデル(バロック音楽の巨匠)が水の音楽(ウォーター・ミュージック)を作曲し
ましたが、ジョージ1世王のテームズ川での船遊び(ロイヤル・ウォーター・ピクニック)での演奏曲としてできたそうです。

19世紀になると、ロンドン港は入船、出船,待ち船で大変な混雑振りで、夜の闇に乗じて荷積み荒らしを行うテームズ
川盗賊団が出没するようになりました。問題解決の為に世界で最初の水上警察ができたほどです。
港湾設備を拡張する工事も始まり、四方を囲んだドックがテームズ川の両岸に次々につくられていきました。また、両
岸を繋ぐ地下道が1840年に完成し、世界で最初の500米の地下トンネルでした。1894年には、今も観光客の目を
引くタワーブリッジも出来上がりました。
20世紀に入ると、1921年にジョージ5世王ドックが完成していますが、ロンドンは世界一大きく豊かな港湾設備を持つ
町となりました。

日本の皇太子殿下は、中世のテームズ川における水運をテーマに、オックスフォード大学で研究されました。





875  私から先に撃って!


アメリカ東部のペンシルバニア州の学校で銃の発砲事件が起こり、子供たちが数名犠牲になり犯人もその場で自殺し
たという。

その学校はアーミッシュの集落に在ったそうで、13歳になる年長の女の子が他の子供たちをかばい私から先に撃って
と言って犠牲になったり、葬式の場に許しを請いにやってきた犯人の妻に対して、アーミッシュ集落の大人たちは暖かく
迎えてあげ、彼女を抱きしめてあげたというニュースを聞きました。
聞くところによると、このアーミッシュと呼ばれる人たちは自給自足に近い生活をしていて、一般のアメリカ社会とは一
線をがしているそうです。車や電車、飛行機などの乗り物は勿論、電気やテレビなどに至るまで全く使わず、独特の伝
統服に身を包み集団で生きていて、アメリカに入植して何百年も経っていますが入植当時と変わらない生活をしてい
る、オランダあたりからやってきたプロテスタント教の一派のようです。

暴力(銃を持った乱入者)に対して怯むことなく進んで自己犠牲になる子供や、夫の犯した罪を重く背負う妻を受け入れ
許す大人の社会が実際にあることに新鮮な驚きを感じました。

古くはブッダが博愛を説き'友よ'と静かに語りかけたそうですが、時には戦争の仲裁をされました。またイエス・キリスト
は身をもって愛の実践を示されたかたでした。
20世紀には、有色人種への差別に対して'非暴力主義'で武装して立ち向かったマハタマ・ガンディがいます。ガンディの
スタンスは、アメリカで黒人差別に対する権利回復運動を指導したマルティン・ルター・キング牧師に引き継がれまた。
また白人優先。黒人蔑視政策(アパルトヘイト)を続けた南ア連邦には、ネルソン・マンデラ大統領が登場して和解を呼
びかけ、憎しみを取り去り許しあえる社会の実現に大きく踏み出しました。
日本には国際紛争の解決手段として武器に頼ることを永久に放棄すると定めた憲法があり、世界の政治史上初めて
の試みが始まっています。

果たして右の頬を打たれたら、右手を差し出して握手(和解)を求める姿勢は続けられるものでしょうか?
逆にそれを利用しようとする人が大勢いるように思えるのですが…。







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