希望

866  白ゴマペーストの無味の深味


朝食にご飯と味噌汁、それに少々のおかずを長い間食べていたのを止め、パンにバターやジャムをたっぷりつけてコ
ーヒーや紅茶を友にするリズムに変えていたのですが、ここ3ヶ月はコーンフレイクにミルクをかけて軽く済ますようにな
りました。

何気なく開けた冷蔵庫の中の上の棚に、小さなビンに入った白ゴマを潰してペーストにした貰い物を見つけました。そ
の日の朝は、パンにこのゴマペーストを塗りジャムもたっぷりつけて、コーヒーとともにいただきました。そして、白ゴマ
ペーストをプレゼントしてくれたギリシャ人の老人のことを、本当に久し振りに思い出していました。
もう1年が経ってしまいました。
妻と三女と私の3人でアデレードからバスに乗り7時間あまり揺られて、オーストラリアの内陸の町・ブロークンヒルに行
ったのは…。娘の知り合いを尋ねて3晩泊りましたが、最後の晩の夕食は、スーパーマーケットで買出ししたオリエンタ
ル食材で巻き寿司や日本風のサラダ、煮しめや鮭を入れたちらし寿司などをつくり、10人近くの人を家(家の持ち主は
旅行の為に留守にしていて、自由に使わせて貰う)に招待しました。
10代後半の太ったオージーの金髪娘から元鉱山夫、新婚ホヤホヤの若者たちや元漁師などバラエティに富んだ背景
のひとたちでしたが、みんな珍しい日本食もどきの即席料理をお替りしてくださるほど食べていただきました。
宴も終わりに近づくころ、ギリシャから昔々移民してきたという男性老人が、とても楽しい食事を有難うと言われ、是非
プレゼントしたいものがあるので自宅に帰って取ってくるから待っていてくださいと言い残して席を立ちました。15分後
に再び玄関口に現れた時に手渡されたのが、自家製の白ゴマペーストの入った小瓶でした。健康にとても良いのだそ
うで、毎朝パンにつけて食べているそうです。

たった1度の出会いをこんなに喜んで下さり、健康の秘密兵器をわざわざ自宅に帰り持ってきて下さった思いやりに感
動したのを思い出しました。
白ゴマペースト自体は何の味もありませんでしたが、友情のしみ込んだプレゼントの味は深い味わいのあるものでし
た。





867  有名でないアグアス・カリエンテスの町に住みに行く人


インカ帝国の都クスコから列車に乗ってウルバンバ川に沿って行くと、アグアス・カリエンテス(暖かい水)の町に着きま
す。

その温泉町からバスで4百米ほどジグザグ道を登ると、有名なマチャピチュの遺跡があります。普通、写真で見てロマ
ン、神秘を感じ夢をかきたてさせる町や遺跡は実際に行ってみると、がっかりするものですが、このインカ帝国の神々
の霊場だったかもしれないマチャピチュは、写真以上に感動を与えてくれる数少ない例外の遺跡でした。
ウルバンバ川の増水した水と周辺の山間から滝のように轟々と音を立てて流れ落ちる水が合流する地点にあるのが、
坂にそってできたアグアス・カリエンテスの温泉も湧き出ている町でした。通常は、ホテルでは火事の際の脱出方法が
壁に掛かっているものですが、この町の泊ったホテルでは、鉄砲水の際の避難方法が掛っていました。この町の名
は、マチャピチュのお陰で多くの人に知られています。

娘の友人がやってきて、半年後に結婚してメキシコのアグアス・カリエンテスという人口20〜30万人の町で、日本企業
が多く進出していて5〜6千人の日本人が住む所へ行くといいます。彼女自身も結婚を決めて初めて町の名を知った
そうで、周りの人に聞いても誰も知っている人はいなかったそうです。
老婆心から、過ってメキシコに何度か行った経験談をしてみました。
日本企業で働く日本人は、年に1〜2度は2千米近い高度の町(メキシコシティなど)では、酸素が少ない上に盆地にあ
るので空気が淀んでいて悪いので、新鮮な空気を吸いに海岸のリゾートの町(アカプルコなど)に下りて休養する休暇
があるとか、日本人移民1号は4百年前、支倉常長一行で新スペイン帝国(ノバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコ)に渡
った人達が、日本ではキリスト教徒迫害や海外在住の日本人の帰国を認めない政策が始まった情報を聞き、メキシコ
に留まったのが最初である。
メキシコを始めとして南北アメリカ大陸に広く分布して住む先住民族は、アジア大陸からやって来た蒙古斑点が赤ちゃ
んの時にお尻に出る私たちと先祖を共にする人たちであり、素晴らしい文明を持っていた人たちで是非積極的に交わ
ってみるべきだとか、貧富の差が大いにあり、むしろ金持ち(日系人の中で事業で成功した人の家に行った事がある
が、3米もあるコンクリートの塀の中で生活していて、広い庭には用心の為に2匹のシェパード犬が放し飼いになってい
て、塀の上には弱電流の流れる金網が巡らしてあった)の方が、固まって世間から隔離された牢獄にいるような印象だ
ったこと、小学校が2部授業になっていて、午前中に教室で学んでいた子が、午後私たちの泊るホテルそばで靴磨きを
していて声を掛けてきて、聞くと親の家計の手助けをしていると語っていた。
空中を舞いながら下りてくる勇壮な踊りを広場で見たことや民族歴史博物館の素晴らしかったこと、マリアッチ奏者の
陽気でセンチメンタルで時にはメランコリックな演奏にメキシコを感じたなどと語りました。

若い人たちに幸多かれと思い、つい多弁になってしまいました。





868  強制収容所よりはチョコレート製の牢屋で死んだ方がまし


キリスト教徒が神の独り子と崇めるユダヤ人青年、ナザレのイエスを杭に架けて殺したのが、ユダヤ教徒にとりその後
の苦渋、棘(いばら)道を歩まざるを得なくなった最大の原因だろうと考えられます。

シェークスピアの'ベニスの商人'でも、ユダヤ人シャイロックは悪徳金貸し商人として描かれ、真っ当に生きるキリスト教
徒のアントニオをいじめる内容になっています。
18世紀にあっても、ユダヤ人は名前をはばかって生きていた例として、フランクフルトの旧市街に生まれたマイヤー・ア
シュエルは商売の目印として、店の入り口に赤い板(ドイツ語でローテン・シルデ)を立てかけましたが、それが名字とな
り英語名のロスチャイルド(Rothschild)が世に知られるようになりました。ナポレオンの台頭を利用して金融業で財を成
し、5人の息子たちがそれぞれフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリへと家業を拡張して行きました。

ヒトラーの登場は一段とユダヤ人を脅かすことになりました。
1933年から1939年の間に3万人の文化人が亡命しましたが、その8割がユダヤ人でした。言論の統制が始まると、
1933年5月にはハイネやマルクス、フロイドやツバイクなどの本を公然と焼いたり、10月になると思想の異なる書籍を買
うだけで反逆罪の罪に問われるようになりました。
アムステルダムの一角に隠れ住んでいた少女、アンネ・フランクの残した日記などを思ってみるだけで、本当に大変な
時代であったことが分ります。ユダヤ系文化人の中には自由と希望を求めて、ルーズベルト大統領夫妻を理想のリー
ダーと信じて、アメリカへ移住した人たちもいました。しかし、言葉が違い文化レベルが異なり、共産主義思想を敵視す
るアメリカでの現実の生活は、時の経過と共に重荷になったようです。

元々、文化人や思想家、宗教家や職人などの外からの移民を進んで受け入れることで少しずつ発展してきたスイスで
は、ユダヤ人も信用高い個人経営のスイス銀行に財産を預けたりして、身の保全を図ってきました。第2次大戦後、ア
メリカを去った文化人の中には、スイスを永住の地と定め、タイトルにあるような言葉を残した人もいます。

そういえば、チャップリンもハリウッドを去った後、レマン湖畔で余生を送っていますし、アンネ・フランクに共感を寄せた
大女優オードリーヘップバーンも確かスイスで亡くなったと思います。





869  コーヒーの不思議な旅


野生のコーヒーの木は、アフリカのエチオピア高地帯で生えていたようです。

その子孫に当るコーヒー・アラビカ種が現在、世界の2/3のコーヒーを生産しています。
15世紀になると、アラビア半島で栽培されるようになりました。中近東では、貴重な飲み物(眠気を覚ます効用から、イ
スラム教のお祈りに欠かせないものとなる)として用いられたそうですが、1616年にオランダは秘密裏にコーヒーの木
か種を手に入れることに成功します。
早速、インド洋に浮かぶスリランカとインドネシアのジャワ島でプランテーションを始めました。
1706年になると、ジャワ島で育てたコーヒーの苗木をアムステルダムの植物園に寄贈しています。この植物園で育っ
たコーヒーの子孫は、南米大陸のオランダ領ギニア(スリナム)やカリブ海諸島へと送られています。
1714年には、アムステルダム市長がフランス王ルイ14世に植物園で成長したコーヒーの木をプレゼントしますが、パ
リの王立植物園に移し植えられました。フランスはコーヒー貿易に熱心にそれ以後、取り組むことになりました。アフリ
カの東海岸沖のレ・ユニオン島やカリブ海諸島で試みましたが、試行錯誤を繰り返していました。
そんな折、休暇を利用してパリに帰っていたフランス人海軍将校、ガブリエル・マシュー・デュ・クリーは、マルティニック
島(西インド諸島に連なるウィンドワード諸島のひとつ)でコーヒーを育てるのを自分の使命と決め、1723年5月にパリ
王立植物園のコーヒーの苗木1本を貰い船に乗り込みました。苗木用の鉢は陶器とガラスを組み合わせたもので、航
海中太陽の光を充分に吸収できて、曇っていても保温が保てるように考えられたものでした。航海中には様々の事件
が起こりました。
鉢ごとコーヒーの木をひったくろうとした一人の乗客がいました。コーヒーの栽培が成功するのを妬んだ人の行動でした
が失敗します。
チュニジアの海賊に船が襲われたこともありました。
最大の危機は飲料水の不足による制限が行われた時でした。ドルドラム(赤道付近の無風状態)が1ヶ月以上も続き、
一向に船が進まない中、配給される僅かな水をクリー氏はコーヒーの木と分け合って過ごしました。献身的な努力は報
われ、健康で無事にマルティニック島に到着後は、このコーヒーの苗木は熱帯の風土にマッチして、大いに成長して広
まった結果、その後の中南米でのコーヒー栽培の元苗木として評価されることになりました。

またブラジルでのコーヒー栽培の繁栄は、1727年スリナムと仏領ギアナの国境紛争の仲裁を取り持ったお礼に、仏
領ギアナの総督夫人がブーケの中にコーヒーの種と小さな苗木を入れ、ブラジルの代表者に送ったのがきっかけだそ
うです。
1800年代になると、ハワイ島のコナでもコーヒーは栽培されるようになりましたが、元を辿れば、1706年にジャワ島
からアムステルダムへと運ばれたコーヒーの木が世界へと広まっていったとヨーロッパ人は考える見方のようです。

5〜6年前、ケニアのナイロビ郊外の高地帯(海抜2千米)でコーヒーのプランテーションを見学したことがありますが、
様々な種類の苗木が接木などで作り出されていて、微量に違った味わいのコーヒーを試飲しましたが、苦い舌触りの印
象を思い出しました。





870  共に22年の歳月をかけて


英国人歴史学者エドワード・ギボンが初めてローマにやってきたのは、1764年で25歳でした。

10月15日にカンピドリオの丘に登っていますが、そこで一人の修道士が裸足になり神への夕べの祈りの歌を、半崩
れになったジュピター神殿の中で歌っている姿を目にしました。その瞬間、彼は何時の日かローマ帝国の崩壊と滅亡
の物語を書こうと考えたそうです。
そして、ギボンは1776年から1788年まで22年に及ぶ歳月をかけて、栄光のローマが滅びるに至った道筋を、鋭利な
筆で浮かびあがらせました。
丁度その頃は、イギリスを中心にしたグランド・ツアーと呼ばれる文化人の旅が、イタリアやギリシャに向けて行われ始
めていました。
月明かりの中で見るコロッセオの,過っては美しい大理石やトラベルティーノの石灰岩が全体を覆い、神々や皇帝の彫
刻が至るところに飾られていたであろう姿は、今はぼろぼろに服を千切られた人のように立つ何百種類の植物が生い
茂る所と化していて、その様変わりに底はかとないインパクトを訪れる人に与えたことでしょう。

一方、インドのムガール王朝(モンゴルの血を引き、回教を奉じる中央アジアからやってきた一族がつくった)5代、シャ
ー・ジャハン帝(17世紀前半)は、王妃ムンム・タジの願いを聞き入れ、世界一美しい霊廟と讃えられるタジマハールを
ジャムナ川のほとり、王都アグラに建設しました。
若い頃は、共に戦乱の中で苦労を分かち合った妻への愛の印として、当時知りうる限りの情報と技術力(インフォーメ
ーションとテクノロジー)と駆使して、遠くイタリアやペルシャのブレインを招いて,ふんだんに大理石を化粧版に使い、
様々な模様は準宝石を散りばめて埋め込んでつくりました。墓を取り巻く庭園も見事なもので、パラダイスやかくあらん
と感じさせる設計になっています。
こちらも22年の月日が完成までにかかりました。
シャー・ジャハン帝の晩年は、息子のオーランジーブ帝によりアグラ城に軟禁されましたが、その一室から妻の眠るタジ
マハールを遠く望みながらの生活だったと言われています。







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