希望

856  小さなホテル・レストラン経営者の悩み


ドイツの有名なロマンチック街道沿いの町、ローテンブルグでホテルとレストランを兼ねた経営者と話をする機会があり
ました。

きっかけは、バスの故障で1時に昼食に立ち寄るはずが、夕方の4時半近くにずれ込んでしまい迷惑をかけてしまった
ので、遅れたお詫びと待ってくれたお礼を言ったのが始まりでした。前にも何度かこのホテルに泊ったことがあり、オー
ナー自身調理服を着て頭にはシェフ帽を被り、厨房で料理に腕を振るっているのは知っていました。
数名のスタッフが彼のもとで働いていて、夜10時以降はホテル関係者はそれぞれの家に帰ってしまうので、玄関の出
入りはゲストの部屋用の鍵に加えて別個玄関用の鍵を貰う、こじんまりした経営をしています。

彼の悩みは、働き手が見つけにくいことにあるそうで、実際に今は東ヨーロッパからのアルバイター(外国人労働者)に
頼っています。ドイツ人は、日曜日や夜の労働は好まず、今日の私たちのように遅れてやってくる客を待つのも嫌がる
そうで、更に賃金も多く払えない実情があるそうです。
彼曰く、'働かない(失業保険を貰っている)ドイツ人が、働くドイツ人よりいい生活をしている'そうで、政治は緑、赤、黒
(革新、社会、保守)に関係なく信頼できないそうです。連邦政府の首相が、過っての東ドイツ出身の女性がなったの
で、期待が持てるかと訊ねたことに対して、政治家は皆同じで私利の為にだけ動いているに過ぎないと言います。

アウトバーン(高速自動車道)でのバスのエンジントラブルで遅れた私たちに、暖かいもてなしをしてくれました。





857  飛行機内で出会ったイスラム青年やイスラエルの実業家


サダム・フセイン氏が元気旺盛で隣国クウェートを侵略して、アメリカの反発をかっていた1990年代の頃でした。

隣に座っていたアラブ青年が話しかけてきて、フセイン・イラク大統領の行為はイスラム教義に照らしてみて、正当性が
あると言います。人口の少ない富める国(石油で)クウェートが、大多数の貧しいイスラム諸国に援助の手(兄弟愛)を
差しのべないのは間違っていることを、皆に代わってフセイン氏は行動で表わしてくれたので感謝している。
イスラム教徒の最も大切にしている五行(5つの行い)の中に、ザガート(喜捨)があり、恵まれない人への兄弟愛の実
践の大切さが述べられていて、食物を始めとする物質援助から精神的援助に至るまで、互いに喜びや苦しみを分かち
合うとなっています。
他国の主権(クウェート)を侵害したことを制裁するとして介入したアメリカの主張の裏には、石油の利権(クウェートで
の)が見え隠れしていたのを、多くの人は感じていました。

一方、第二次世界戦争のあとパレスチナの地に生まれたイスラエルの周辺では、今に至るまで戦争の火種がくすぶっ
ていて、毎日のように犠牲者が出ています。
ドイツから日本へと向かうルフトハンザ機(2006年9月)の中で、隣に座った短髪の端正な顔立ちで細身の男性に話しか
けると、意外にも日本語が返ってきました。少年期に日本で過ごしたそうです。興味を感じ話し始めると、予想外にイス
ラエルのテルアビブ郊外に住み、母親をユダヤ人に持つ人でした。彼自身は、ユダヤ教を信仰実践はしていないそうで
す。
聖書の記述では、モーゼがシナイ山で神から十戒の石版を貰いカナンの地(現在のパレスチナ)を約束されましたが、
カナンの代わりにカナダの地をねだってくれていれば、今のような問題にはならなかったのにと、過ってイスラエルを観
光した時に笑い話してくれたガイド氏の例を引いて話してみると、承知しているようでジョーク好きなユダヤ人には知れ
渡っているようでした。
たとえアブラハム・イサク・ヤコブの神がカナンの地をユダヤの子孫に約束したとしても、現実には他民族の人々が住
んで生活しているのを追い出してまで割り込むには、無理があると思うがと言うと、同感だとの返事でした。
何故、ユダヤ人はキリスト教徒に憎まれ、嫌われ、差別されてきたのかと問うと、ユダヤ人がイエス・キリストを殺したこ
とが主要因だと思うとの返事でした。

アブラハムの2人の息子(イシマエルとイサク)から分れてのち、生まれたイスラム教及びキリスト教であり、教義では互
いに神を敬い愛し隣人愛を説いていますが、実践となると、同じ土壌、経済、政治、歴史が複雑に絡み合って、元のす
っきりした姿に戻すのは至難の業のようです。





858  禁治産王こそ今はバイエルンの宝


南ドイツのルードウィッヒ2世(1845〜1886)は、19歳で父王マクシミリアン2世の跡を継いでバイエルン王となりまし
た。

20代の初め、1867年に憧れのフランスに旅をして、太陽王ルイ14世の住まいしたベルサイユ宮殿を訪れています。
神に祝福され特別に認められた人が王位に就く資格を有する(王権神授説)と信じ、生きた17世紀後半の専制王のス
タイルやバロック・ロココ芸術に大いに感動したようです。
フランスから帰ると、早速アマルガウ・アルプスの谷にリンダホフ城(1869〜1879)の建設に着手しました。緑豊かな
牧草地や森の中に、邸宅と庭園、噴水、人工洞窟などを配したもので、王の手がけた城としては、唯一存命中に完成
しました。
邸宅の内装は、フランス旅行の影響を強く受けていて、エレガントな出来上がりとなっています。
また、同時進行でノイシュバンシュタイン城(新白鳥城1869〜1886)を父のつくったホーエンシュバウガウ城(白鳥城
1832〜1836)を見下ろせる山の中腹につくり始めています。少年期を家族水入らずで過ごした白鳥城にはとりわけ
思い入れがあったことでしょう。バイエルンで最も有名になった新白鳥城は、未完成に終わっていますが、完成した外
装や内装はロマネスク・ゴチック・ビザンチン様式といった中世の時代の芸術がふんだんに取り入れられていて、リンダ
ーホフ城とは異なったつくりになっています。
玉座の間のデザインは、天井を神の座す宇宙として星を万遍に配して、壁にはイエス・キリストの弟子12使徒と共に聖
人となったヨーロッパ出身の王達が描かれていて、また王達の活躍する場面もあります。
そして、4つ目の城として構想を膨らましていたと思われる建物も、同じ広間の壁絵の中の高い峰の頂上に描かれてい
ます。
他の部屋では、作曲家リハルト・ワグナー(1810〜1870)の作品の数々の名場面が壁という壁に描かれていて、中
世に生きた理想の王や騎士、女性を見ることになります。
そして、バイエルン地方で一番大きなキームゼー湖の中にあるヘレニゼル島にもヘレンキムゼー城(1878〜1886)
を建設中でした。

一方、時代の動きは王の考えとは裏腹に、一般庶民に至るまで現実の厳しい競争の中にあって、無駄な出費を抑え明
日の見えない不安な社会状況を打破してくれる強いリーダーを求めていました。王権神授説に似たロマンに浸るルード
ウィッヒ2世王は見捨てられていく運命にありました。新白鳥城の寝室で、禁治産者の宣告をされ翌日に謎の死を遂げ
ています。

歴史の皮肉でしょうか?
今はこの王が手がけた城がドイツを代表する観光名所となっていて、世界中から一目見んものと観光客が押しかけて
います。
9月の半ば、日曜日の昼時ノイシュバンシュタイン城に通じる登り道の両側は、大勢の人だかりがしていました。やがて
待つうちに、3ヶ月余りアルプスの山麓で夏草を存分に食べ筋肉質に太った牛の群れが大挙して,幾つかのグループに
分かれ牧童に連れられて下ってきました。これからは、厩舎で過ごすことになるそうです。
先頭の牛たちの頭や首の周りは花や布で美しく飾ってあります。
夏が終わり短い秋の後、長い冬へと向かう昔ながらの生活のリズムが今も生きているようでした。

ドイツの子供たちは、月曜日から新学年が始まるそうです。。





859  サイドブレーキはかけない


周囲が約36キロの自動車専用の環状線(ペリフェリック)の内側に、およそ2百万人の人が生活していて、車が百万
台、飼われている犬が30万頭もいる町が、花の都パリだという。

散歩で落す犬の糞だけで毎日何十トン、更に運悪く糞を踏んでひっくり返り怪我をする人も何人もいるといいます。車の
路上駐車は当たり前で、互いに接近して停めているので、車のバンパーを軽くぶつけながら出し入れする為、サイドブ
レーキはかけないで駐車するエチケットだそうです。
20世紀に入りパリの町の交通の主役は、車やメトロ(地下鉄)になりましたが、伝統的には'たゆたえども沈まず'の言葉
に残るように、帆かけ舟が人や物を運ぶ水運(水の道)を使って担ってきました。町の所々に見かけるパリ市の紋章は
帆かけ舟であり、シテ島の対岸(右岸)にルネッサンス様式の白亜の城のようなパリ市庁舎がありますが、元はセーヌ
川の舟業者組合の使った建物でした。

人々の生活の足として歴史を支えた水運の衰退を憂え、疲弊したパリに活気を取り戻そうと、1949年にセーヌ川の観
光船バトームッシュが生まれました。バトーとは舟、ムッシュはフランスの中部の町リヨンのムッシュ地区ファリザットに
あった船着場でした。
リヨンもパリ同様、ローヌ川とソーヌ川の流れを利用して水運で発達した町でした。
観光船バトームッシュに乗ると、上流はサン・ルイ島、下流は自由の女神像の立つミラボー橋あたりまでの間を周遊し
ますが、セーヌ川沿いに残る数々の歴史建造物(モニュマン)に加えて、左岸と右岸を繋ぐ様々なデザインの橋が見え
て、水面から見るパリの魅力を演出してくれます。水の増減を計る計測器は、アルマ橋の橋げたに立つアフリカ兵の石
像がセーヌメーター(ナイル川の水深を測るものをカイロでは確かナイルメーターと言ったと思う)の役割をしています。

夏の頃の黄昏どきや冬の弱い日の光の中で、セーヌの河岸や橋の上では、体を寄せ合う恋人たちの姿は、ミラボーの
詩にあるように昔も今も、そしてこれからも変ることなく続いていくことでしょう。





860  商業車(トラックやバスなど)の運転マナーの良いのは何処から?


ヨーロッパでは、トラックやバスは高速道路は勿論、在来線でも基本的に外側のゆっくり車線を走ります。

たまに追い抜きをしても、直ぐに外側の車線に戻り他の乗用車に道を譲っています。登り道などでも、何度もバスがわ
ざわざ端に寄って停め、後続の急ぐ車を先に行かせるのを目にします。この運転マナーの良さは,一体何処からくるの
でしょう。
トラックやバスは、アクセルを踏み込んでも百キロ以上は出ないように出来ていると聞いています。それにしても、サン
デー・ドライバー(女性やたまにしか運転しない人など)にとってはプレッシャーを感じなくてすむ配慮となり、随分運転が
楽になると思います。
そして、滅多にクラクションが鳴るのを聞きません。街中の商店街への配送のトラックの乗り入れも、通常10時前まで
となっていて、街中の生活者や利用者に優しい配慮がされています。車社会に生きる大人の知恵が出ているようです。

大型トラックの六つある後輪車輪の左右一つづつが、地面から浮いて走っているのを、お客の一人がバスの窓越しに
見つけ、タイヤがよけいに路面と接触するのを避けて、燃料のムダ使いを省いている知恵が出ているのを見抜かれ、
やがて日本もそうなるだろうと言われます。私は、ただスペアタイヤを後部車輪のそばに着けて走っているだけかと思
ったのですが…。

便利と引き換えに、車による交通事故で犠牲になる人や排気ガスによる危険な負の面を少しでも減らそうと努力してい
る手本をヨーロッパは見せていて、私たちに様々なことを教えてくれます。








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