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851 ロマニー語を話す人たち
2006年の春英国に行った時、チェスターの町外れのショッピング・センターでは、警備員が総出で出入り口の周りをガ
ードしてしていて,異様な緊張状態を醸し出していました。
見ると、広い駐車場の周囲の緑地の中でキャンピング・カーが何台か止めてあり、何日か前からやってきた人たちが
許可なしに居座り生活をしている様子です。その子供たち(10代前半の男の子3〜4人)が、ショッピングセンター近くの 駐車場を我がもの顔に歩いたり走ったりしています。彼らは少し変った服装をし英語ではない言葉を話していて、周囲 の目が凝視する中、気にもかけていない態度でした。ただそれだけの風景に出くわしたのですが、彼らこそがロマ民族 だったようです。
ロマ人(単数はロム)達はロマニー語を話しますが、他の民族からは軽蔑の意味を含んだジプシーとかジタノス、ジギュ
ナー、ツィガニ、シガニーなどと呼ばれてきました。
学者の中には、言語や文化、血統などを探り出し、彼らは約千年ほど前に北インドあたりで闘争があった際、身の置き
所を失い追い出された兵隊にくっついて一緒に彷徨い出た、芸能や職人として優れた才能を持った人たちではなかろ うかと考える人もいるようです。
いずれにしても、紀元後1300年ごろには、ペルシャやトルコを通りヨーロッパにやってきていました。
ヨーロッパでは、二つの異なった評価がロマ人に対して行われてきました。
ひとつは小説や映画でつくられたイメージによる、人をもてなすのに長けた呑気な放浪の民で、歌や踊りを通して喜び
や悲しみを自由奔放に表現してみせる人たち。別の見方は、彼らは秘密に満ちていて、信用も油断もできない社会か ら孤立して生きているそぐわない人たちだと思ってきました。
何故、こんなに評価が違うのでしょうか?
中世のヨーロッパ社会は、村や町が世界そのものでした。そこに浅黒い肌をして、黒い瞳に黒い髪、違った服装や違う
言葉を話す人達がやってくるとすると、好奇心がやがて不信へと変っていくのに、さして時間はかからなかったことでし ょう。
ロマ人は元々、彼らだけで固まる傾向があったようです。恐らくインドの階級身分社会(カースト制度)の名残りもあった
のかも知れません。結果としては、村や町のはずれでキャンプをする生活を余儀なくされ、食料や水得る為に村に入る のを禁じられる事もありました。子供を盗むとか、盗んだ子供を食べてしまうなどという噂が流され、所によっては食事 の支度は誰もが見える家の外でするよう強制され、何を食べているか鍋をひっくり返して調べられることもありました。 勿論、生きるために村や町の人の食料を盗むロマ人もいたようですが。
差別から身を守る手段として、より一層家族や一族の絆や援助が強くなり、歓迎されざる民は移動し続け、放浪生活の
中からさまざまな技術、才能を磨くことになりました。
金属細工や交易、芸能などで一家の生計を立てたり、女性の中には霊能力を使って占いを商売にする人たちも生まれ
ました。
偏見が迫害へと発展したこともあります。ヒトラーは40万人ものロマ人を殺しました。
土地を追われたり奴隷にされたりした生活は、1860年代になりやっと奴隷制の廃止法の成立で終わりましたが、多くの
人は離散民となって西ヨーロッパやアメリカ大陸に移住していきました。そして、行った先でも言葉や習慣、磨き上げた 才能は保ち続けました。
スペインでは、土地の文化と交じり合ってフラメンコ音楽や舞踊が生まれましたし、東ヨーロッパでもロマ民族独特のス
タイルを加味した郷土音楽がつくられました。
クラッシック音楽の名だたる作曲家達(ベートーベン、ブラームス、ドボルザーク、ハイドン、リスト、モーツアルト、ロッシ
ーニなど)にも情熱の旋律は影響を与えました。
現代では、世界中に200万人とも500万人とも言われるロマ人の血を引く人達がいるそうですが、多くはヨーロッパに住
んでいます。移動する生活を止めた人の中には、財を蓄えた人もいます。しかし、多くは未だ貧乏で不利な境遇に留め 置かれ、惨めな生活状態にあります。
チャーリー・チャップリンやユル・ブリンナー、リタ・ヘイワーズ、パブロ・ピカソなどの超有名人がロマ人の血を引く人た
ちだということも知っておくべきでしょう。
理由のない偏見こそが歪んだ社会をつくる最大の原因となっています。
852 運命を左右するリンゴとそうでないリンゴ
ヨーロッパ文明の底辺には、古代ギリシャ人の文明観とヘブライ人の文明観の二つが流れていると言われてきました。
円運動に似た、同様の事件がくり返し起こり永遠に続くと考えるギリシャ型と、2度と同じ事象は起ることはなく、一度し
かない命をどう生きるかが人の運命を制すると考え、絶対神に従う直線に似たヘブライ型の人生観です。
ホメロス(紀元前9世紀末の人)の書いたイリアードの中では、結婚式に招かれなかったのを恨んだ女神が、'一番美し
い方へ'と書かれた黄金のリンゴを式場に投げ入れたのがきっかけとなって、誰がその人かをめぐるトロイ戦争が始ま りました。
聖書の一大展開はアダムとイブが神の言いつけを破って、リンゴ(知恵の実)を食べたのが原因で楽園追放になりまし
た。それ以降の人類の希望は,いつの日か神の目に適う成長した人間となって罪を許されて、再び永遠の命を得ること になりました。
中世の時代にできた白雪姫童話では、実の母が毒リンゴを白雪姫に与えて殺しましたが、通りかかった王子が死んだ
白雪姫に恋をして、棺に入った白雪姫を伴って旅をします。ある時、棺の中の白雪姫を起こして頬を殴った(あるいは 体を揺すった)ところ、食べたリンゴが飛び出して白雪姫は生きかえったことになっているそうです。
コロンブスと共に中南米から持ち帰られたトマトは、ポーム・ドーロ(黄金のリンゴ)と呼ばれ、長い間毒気を持った観賞
用の植物としてしかヨーロッパ人は価値を見ていなかったそうです。19世紀の南イタリアのナポリっ子が、パスタにトマト ソースをかけて食べるポームドーロ・ピツッアやスパゲティを広めてから抜群な人気者にトマトはやっとなったようです。
それに比べるとわが国では、北国でとれたリンゴが汽車に乗せられて町の市場へと旅をして、店先に並べられるという
ような童謡ができたぐらい、可愛いリンゴの独り言で終わっています。
853 ラオコーンの損な役回り
膠着したトロイ戦争で奇策を考えたギリシャ連合軍は、大きな木馬の中に兵を入れ頑丈な壁で囲まれたトロイの町の
外に残しました。
トロイ(アジアの一大商業都市)の神官ラオコーンは、ギリシャ人の狡猾な性格を見抜き木馬を町の中に入れることに
反対する神託をしました。ところが突如海から2匹の大蛇が飛び出してきて、ラオコーンと2人の息子を絞め殺してしまう 話に神話はなっています。
それを見て、祟りを恐れたトロイ軍は門を開いて木馬を町の中に入れ、ギリシャ軍は引き上げてしまったと思い込み、
その夜は祝い酒に酔い寝入ってしまいますが、木馬の中から出てきたギリシャ兵は内側から城門を開けて、島陰に隠 れて待機していたギリシャ船団に連絡して、10年に及んだ戦争は一夜にして終止符が打たれました。
2匹の大蛇が巻きつく中,苦痛に顔を歪め、手足体をよじらせるラオコーンと2人の息子の大理石像は、ヘレニズム期
(紀元前4〜紀元前1世紀)の傑作ですが、ローマのバチカン博物館の中庭の一角にあります。
854 世界は回る世界は狭い
とあるタイの町の古着屋では、全ての商品が5バーツ(15円)で売られていました。
その中には、日本の古着屋(千葉にある西海岸という店)で売れ残ったものもありました。西海岸のタッグがつけられた
まま売られていたそうです。
ニュージーランドで町を歩いていると、近くで'右に回ります'という日本語の録音テープの声が近づいてきました。何と小
型トラックが通り過ぎていく際、発していたそうで、日本で使われなくなった車をそのままアジア諸国に売っているのが分 ります。
過ってパキスタンのペシャワール(アフガニスタンとの国境近くのオアシス町)で、ガイド氏が日本で使わなくなった中古
タイヤはパキスタンではまだまだ使えるそうで、溝を新たにタイヤに刻んで使い、いよいよ磨り減ってどうにもならなくな ると、小さく切り刻んでゴム草履として利用していることを話していたのを思い出します。
物を大切にして使うことを誇りに思い生きてきた日本人ですが、今はちょっとでも古くなったものは修繕することなく、簡
単に打ち捨ててしまう時代になりました。
今の日本人は物を作った人に感謝して大切に使う心は、失ってしまったようです。
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全てが変るのは永遠に変わらない真理'なのですね。
855 パリのインド人街
パリ国鉄北駅近くのドゥ・フォーブルグ・サンドゥニ通りには、インド人の経営するレストランや散髪屋、雑貨商や食料品
店、衣服商などが集まって、小さなインド人街をつくっています。
昼時、何軒かあるレストランの中でポンディチェリーという懐かしい名前の看板を目にしたので、引かれて中に入りまし
た。フランスは、18,19世紀の頃インドにおいて英国と覇権を競いましたが、やがて力を弱くしていきました。そんな中、 南インドのベンガル湾沿いの町ポンディチェリーだけは長くフランス領として留まったと何かの本で読んだことがありま す。その本の作家は、町の名前がいかにもフランスを思わせるのに心を引かれたとも記していたように思います。
入り口そばに揚げ物が並べてあり、気軽に通行人が立ち寄って1〜2品広告紙に包んでもらって買っていく安レストラ
ンでした。曜日ごとに決めたお勧めランチが、セットメニューの中では一番安く、それを給仕人の若者に注文すると、南 インドらしいパラパラしたご飯が載った皿とカレーを入れた皿をやがて持ってきてくれました。
深みのある独特のカレー味で、久し振りにインドへ帰った思いがしました。
食後、食料品店に行き、ビン詰めになったマンゴやライム、ミントの葉の入った香辛料漬の漬物を買いましたが、その
店では一角を仕切り音楽コーナーを設けていて、インドでヒットしている映画のCDやレコードをおいていて、賑やかな音 楽が流れていました。
インド美人の写真が掛かる大通りに面した衣服店では、白やピンク、黄色や赤、緑といったアイキャチングな原色系に
染めたサリーや、金糸銀糸などの織り込まれた渋い中間色で幾何学文様の図柄のサリーなどがショーウィンドーに飾 ってありました。
久し振りにインドの懐かしい匂いを嗅ぎ、雰囲気に浸りました。
大都会には、世界の国々の縮小された文化が息づいています。そんな文化に出会える楽しみも旅の魅力の一つです。
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