希望

846  海南島には鉄鉱石の山があった


明治44年(1911)生まれの95歳になられる方を、近くの老人ホームに訪れました。

足腰は弱くなられたそうですが、以前お会いした時と変わらず、ゆっくりと言葉を選んで話される知的な方でした。小さ
な個室の机の上には、工作途中の作品が道具と一緒においてあり、また絵の具もそばの棚の上に置かれていて毎日
精進されておられる様子です。
皮を加工してつくる花のブローチを今はつくっておられ、帰る際にお土産に下さいました。

若い頃ベトナムにほど近い海南島で、鉄鉱石を掘り出し新しく敷設した鉄道で港まで運び、船で日本へ持ち帰る仕事を
されたそうですが、鉄鉱石運搬船は1度だけやってきただけで、他の船は途中で沈められたそうです。
やがて海南島で兵隊に招集され広東まで行軍を続けましたが、出発に際して支給されたものは、靴下にいっぱい入れ
た米と塩、それに乾燥味噌だけでした。
行軍隊の武器は何人かに一丁の銃だけで他は竹やりを手に持ち、軍服もままならず調達したチャイナ服を着たそうで
す。昼間は、食料調達で中国人の家を荒らし、夜の弁当を用意したり休息に使い、夜行軍しました。
敗戦で捕虜になり、数年中国で収容所生活を送ってのち日本に帰りました。'服の支給あり'の広告に惹かれて刑務所
の監視員になられ、北海道の網走刑務所を含む方々で勤務されました。
歩まれた道のりを振り返ってみると、偶然が重なり合って今に至ったと話されました。
多くの示唆に富んだ教訓を淡々と語る人生の先輩に、心から敬意を払って帰りました。

赤ん坊や幼児が一言でもしゃべると、親や周りの者が関心を払いますが、老人が話すと誰も相手にせず、話を聞こうと
もしない風潮です。人生の荒波を乗り越えて航海してこられた方々の話こそ、未来への希望のメッセージが隠されてい
ると思います。





847  ヨーロッパ三大がっかり


誰が言ったのでしょうか?

ブルッセルのグランプラス近くにある小便小僧の像、コペンハーゲンの波打ち際に座す人魚姫の像、そしてライン川の
ローレライの岩がそうだと言う。
何れも世界的に有名な話を背景にして生まれ、小便小僧と人魚姫の像は人が彫ったものであり、ローレライの岩は自
然の侵食作用がつくったものです。

ベルギーは、各民族、国家の侵略の的になって苦労した歴史の上に成立したことは誰もが認めています。いつも準戦
時体制下におかれ、町の人は壁で囲まれた市壁の中で、食料も衛生状況も精神状態も劣悪な環境の生活をしてきま
した。そんな中、一人の少年が壁の上に立ち、町の外に向かって放尿したとすれば、それを目にした誰もがさぞ気持ち
を楽にしたことでしょう。緊張が解けて笑みがこぼれたことでしょう。
意図して計算ずくでしか動けなくなる大人には出来ない、子供の自然の抑えられない行動だったからこそ意義があり、
感動を起こさせ語り継がれてきたのでしょう。

デンマークの人魚姫の話も、環境の全く違う所に住む男性を好きになり、忘れられず追いかけてしまった結果、元に戻
れるチャンスが与えられていたにも関わらず、自ら犠牲になって男性を生かすという自己犠牲の美しさを述べていま
す。

ゆったりと流れる大河ラインですが、ローレライの岩あたりだけは急に川幅が狭まり、流れが速くなり川底の岩も突起し
ていて,昔から船頭の舵取りを困難にし、多くの命や物資が失われてしまいました。
損失は甚大で、船人たちに交通の難所という注意を喚起する為にも、古の神々の物語に託して語られてきたのでしょ
う。

安心しきった想像力の欠けた多くの現代人が、安易に飛行機やバス、列車や船でやってきて、わずかな時間で見て回
る中からは、がっかりの印象しか持てないことでしょう。

むしろ、そういう私たちのせっかちなリズムやイマジネーションの乏しさに,がっかりする方が正解のようです。





848  8月の半ばパリのサン・ジェルマン・ブルバール通りに腰掛けて


コンコルド広場までメトロでやってきて、チュルリー公園を横切りセーヌ川にかかる木橋を渡ると、オルセー美術館があ
ります。

開館して間がない10時を少し回った時間の為か、入場待ちの列もなくすんなりと中に皆さんが入られました。私は入る
のを止め、7区のこのあたりを歩いて見ました。
教育省の建物のそばに区役所があったので、中庭へ入ってみると壁の掲示板に、7区に住む結婚を願う人たちの申請
用紙が幾つも張り出されていました。以前、スイスのチューリッヒにある役所でも同様のものを見たのを思い出し、人々
が集団で互いに仲間として生きてきた歴史、伝統が今も続いて行われているのが分かります。
土曜日だったせいか、あるいは夏休みだからなのか、通りから区役所の中庭に通じる事務所に1人だけ守衛がいるの
が見えただけでした。ヨーロッパでは役所が市民に開けれた場所になっていて、誰でも気軽に出入りできて、多くの役
所は魅力ある建物や中庭を持っています。自立、自冶を願った市民の思いを役所の建物は象徴しているようです。

外に出て、サン・ジェルマン・ブルバール(聖ジェルマン大通り)の一角にある長いすを見つけたので、しばらく座って水
でも飲みながら周りを見てみました。
ブルバールという名前の通りは、パリの町が過去6回に亘り町の周りを取り囲んでいた壁を取り壊して外へと広がって
いった場所につけられたと言います。壁があった頃は、壁の外は野原か掘などがあり、視界が広がっていたことでしょ
う。
通りには、バールやブラッセリー、喫茶店(サロン・デュ・テ)の文字が目に入ってきます。公衆便所が少ないパリでは、
こういう休憩所を上手に使って、トイレの用を済ますようにガイドが言っていました。その他には、香水専門店(Perfum
eries)が多いのにも気付かされました。過っては貴族と言えどもオマルで用を足し、夫人などはコルセットで体を締め
付けた簡単には脱げない服で、我慢しながらの生活をしていました。
衛生環境は悪く臭い悪臭が漂う中、風呂も殆ど入らない所にこそ、香水が必需品として持て囃されたことでしょう。浴槽
にゆっくり浸かり、憩う習慣は現代ヨーロッパ人もないように見えます。

多くの店が8月の末までバカンスで閉じている張り紙がしてある大通りを、地図を手にして、リュックを背負った世界から
の御のぼりさん達が行き交っていました。





849  人を見ているのが楽しい


お盆休みで混み合う成田空港のロビーで、桁外れの人に出会いました。

これから北欧へと飛び、とある港町から観光船に乗ってアイルランドとグリーンランドへ行かれるという老日本人女性で
す。世界中殆どくまなく見て回ったそうで、私が30年余りの添乗で行った場所を口にしてみると、大概行ったことがある
という返事が返ってきました。
中近東は特に好きだそうで、中国は20回、インドへも3回、中南米からアフリカ全域に及んでいて、中央アフリカのセネ
ガル、象牙海岸、トンブクトゥなど何があるのですか?と聞くと、トンブクトゥは土だけだったが、何よりも人を見ているの
が楽しいと突き抜けた答えが返ってきました。
僅かに地中海のキプロス島やクレタ島、サルジニア島などと、大西洋上のカナリア諸島ぐらいしか行ったことがない様
子でした。

'アイスランドはグリーンランドで、グリーンランドこそアイスランドでしたよ'と15年も前に1度だけしか行ったことがない所
を謎かけ言葉で包んで別れました。





850  優勝トロフィの起源は?


コンテストでは、文化スポーツ団体個人の如何を問わず、よく優勝チームや優勝者にはトロフィが与えられます。

ヨーロッパで公園を歩いても、博物館の中でも、宮殿の飾りデザインとしても石や金属、セラミックなどでできたトロフィ
や絵やタペストリーに描かれたものをよく目にします。
さらに、先史人の骨壷や食料、飲料を蓄える入れ物もトロフィに似ているなと思っていました。
そこで、パリの町を1日案内してくれた経験豊かな公認ガイド氏に尋ねると、言下にトロフィの語源はトロッフェといい、'
鹿の角'という意味だと言います。
昔は、よく王侯貴族は森に狩りに行き、射止めた鹿の角に水や酒を入れて祝杯したのだそうです。そう云われてみる
と、映画で鹿の角で飲み交わしているシーンを見たようにも思えてきました。また、上流階級のパーティで、センターテ
ーブルにカルテルの入ったどっしりとしたトロフィがあり、柄杓で取り出してはグラスに注いで飲んでいる場面もあったよ
うに思います。トロフィ自体に口をつけて中に入っているワインなどを飲んで祝う姿も見たように思います。
肉食を主に生きてきた人たちが、狩りの成功を祝い喜びを分かち合った中からトロフィの形が生まれたのでしょうか?

大相撲では、優勝力士が優勝トロフィは横において、大盃になみなみと酒を注いでもらい、後援者に囲まれて飲む姿が
恒例になっています。
やはり、この国は肉食系ではない印のようです。








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