希望

841  腑に落ちることがある


世の中は腑に落ちないことだらけですが、時として腑に落ちると感じることがあります。

それは滅多にありませんし、長続きするものでもありません。向こうから勝手にやってきて、こちらの気持ちにお構いな
しに入り込み、勝手にいつの間にか消えていなくなっています。後で思い返しても納得のいく説明のしようがありませ
ん。
何故あんなに嬉しかったのだろう?悔しかったのだろう?悲しかったのだろう?
例えば、サッカーの好きな人は自分の贔屓にしている選手が、チームが試合をすると聞いただけで、胸が高鳴ってくる
かも知れません。パチンコの好きな人ですと、あの騒々しい臨戦態勢(出陣間近かの勇気と不安が入り混じった興奮
状態)を思わせるパチンコ・パーラー内の雰囲気に酔って浸っている何とも表現しにくいのと似ているのでしょうか?

'知るを楽しむ'というNHK教育番組でたまたま知った江戸川乱歩やモーツアルトを知る喜びを語る人たちに、なるほど
譜に落ちるなー、楽しいなーと共感した時は、至福の世界に一瞬入ったように感じました。
旅も同様で滅多にはありませんが、気ぜわしげにロンドンの下町を行き交うサリー姿の中年のインド人女性に、冬のパ
リの駅構内で順番待ちをしてクレープを買い急いで帰宅電車の待つプラットホームに向かうサラリーマンに、タイのスコ
タイ王朝の都だった遺跡の中をなで肩のガイド氏がリラックスして歩く後姿に無上の平安を感じてしまいます。

滅多にはない、腑に落ちる時間との出会いのひと時は、本当にいいものですね!





842  コーニーとバローニー


考えようによっては、世界中何処でも移民した人や難民がつくった歴史だと云えるかも知れません。

唯一例外があるとすれば、人類発祥の地とされるアフリカで、今も直系の子孫が生きているということでしょうか?
日本語では移民と言いますが、英語ではImmigrantとEmigrantとあって、前者は外からやってくる移民で後者は外へと
移住していく人たち、あるいは出稼ぎの人を指しています。
出入りの激しい大陸ならではの使い分けがしっかりあるということでしょう。
アメリカは外からやってきた人達がつくっていった、新しい国の代表といえましょう。

人間は、生きものの世界の長として君臨していますが、他の生きものと同様になわばりを持っていて、'先にいたもの
や、先に来たものが優先権をもつ'鉄則規則に似た世界にいます。そんな中にあって、日系移民もユダヤ系移民もゼロ
から出発してアメリカ市民として認知されるまで、苦労しながら階段を登っていきました。
言葉や文化生活習慣、宗教、育った環境背景の違い、理由のはっきりしない差別などに悩まされながらの歩みでした。
自由と民主主義の旗印に憧れ憧れに似た思いを懐かせがちなアメリカですが、決して外からやって来た人達を快く受
け入れた歴史だったとはいえません。

1930年代にドイツを中心にしてアメリカへとやってきた移民(芸術家やインテリが多かった)の多くは、ナチスに追われ
たユダヤ系の人たちでした。ヨーロッパでの差別されながらの生活から、やっとつてを得てヨーロッパ在住の米国移民
局の審査官に会えますが、彼らの冷たい態度は書類不備や職業、収入、身元などの入念なチェックに表れていたそう
です。その結果、やっとたどり着いたアメリカでは、先に来て生活地盤を持っている同じユダヤ人たちの冷ややかな対
応に遭ったりしました。むしろインテリであるが故のアメリカ社会の軽薄さに惑い、慣れない英語にたじろぎ、生活収入
面の心配などありましたが、一番の落差は重厚なヨーロッパの歴史がつくり上げたインテリ層の中に流れている機知に
富んだ言葉表現やベルリン、ミュンヘン、フランクフルト、パリなどの町が醸すインテリにとって空気のように大切な自由
な蒸れた怠惰な土壌は、新天地アメリカにはありませんでした。

一方、アメリカが彼ら移民により蒙った恩恵は数知れず、芸術面(映画、ラジオ、脚本、舞台、絵画、音楽など)経済理
論、政治、化学、物理など多岐に亘っています。後に共産主義者とかスパイの疑いをかけられアメリカを去った人も大
勢いました。

アメリカでコーニーと言うと、元々はトウモロコシを指し、垢抜けしない、田舎じみたというニュアンスで、都会的センスに
欠ける人に対して使うようです。
バローニーも俗語ですが、馬鹿げたくだらないといった時に使います。ボローニャ(イタリアの中部にある歴史ある町)で
できるソーセージが粗悪品であることから生まれた言葉だそうです。
こういった新しい言葉に慣れていく苦労を移民者は体験していって何時かは同化するか、異邦人として何時までも生き
るか、あるいは元いた国へ戻ったりしました。






843  百年戦争のきっかけからその終わりまで


百年戦争(1337〜1453)は、イギリスとフランスとの間で約120年に及んだ戦いでした。

その期間には、戦ったり休戦したり平和なひと時もあり、戦場は何時もフランスでありイギリスが勝利しました。何故戦
争が起ったのでしょうか?
ひとつは、'実子がなければ家は絶えるのみ'の格言がありますが、長く続いたカペー家は987年以来フランス王でした
が、シャルル4世王の死によるフランス王家の後継者争いが起きました。シャルル王には直系の男子がありませんでし
た。イギリス王エドワード3世は、生母イザベラが先のフランス国王フィリップ4世の娘であったのを理由に、フランス国王
になる権利を主張しました。結果的には、カペー家の傍系のヴァロア家の当主がフランス国王となりヴァロア王朝が始
まりました。
二つ目には、イギリス王家はフランスの地にフランス王家より封土された(形式的にはフランス国王の臣下となる)大き
な領土を所有していたので、それを巡る思惑が両国には常にありました。
三つ目には、英国内のイングランドとスコットランドの争いにフランスが干渉して、スコットランドに味方したことでした。
四つ目には、イギリス商人とフランドル(オランダやベルギー)諸都市との間で行われていた利益性の高い羊毛取引に
対するフランスの干渉でした。

大きな戦いを幾つか見てみると、
1340年6月、フランドルの港(Sluys)をめぐる海戦があります。イギリス軍の長弓部隊の大活躍があり、船を互いにぶ
つけ合っての接近戦でもフランス側が一方的に負け、敗戦を誰もフランス王フィリップ6世に報告する勇気がありません
でした。道化が'フランス兵士のように海に飛び込む勇気がイギリスにはなかった'と茶化して国王に言ったことで、やっ
と真相が伝わったといいます。
1346年夏ノルマンディにおけるクリッシーの戦いでも、6万人のフランス軍が1万人ちょっとのイギリス軍に負けてしまい
ました。天(雨が降った)もイギリスに味方したのでしょうか?
油断からフランスの傭兵ジェノバ隊の誇る石弓の弦を雨で濡らした為、弦が緩んでしまい役に立たなくなったり、命令
系統の欠如が誇り高い騎士騎馬隊と歩兵のいがみ合いという内輪もめがフランス軍にはありました。
イギリスの歩兵長弓隊は、無敵と思われたフランス騎士騎馬隊を破る快挙があり、それまでの戦場での騎馬有利説を
覆しました。

当時は、戦争は兵士にとって稼ぎ時という考えが一般化していました。
戦場での強奪は勿論、貴族や金持ちを捕虜にすれば多額の身代金をせしめることができました。
1日当りの兵士の支給額は、分遺隊の隊長(ベテランクラスの騎士)で4シリング、騎士が2シリング、完全武装の兵が1
シリング、馬上での弓の射手6ペンス、地上の弓の射手3ペンス、歩兵2ペンスでした。
他の業種と比較すると、熟練大工が1日働いて3ペンス、麦など農作物の刈り取りをする人で2ペンス、1年農地(1エ
ーカー)を借りると4ペンスでした。1シリング(銀貨)は12ペンスです。
ペストの流行(1347〜1354)は休戦を余儀なくさせましたし、ヨーロッパの人口の1/3が死んだそうです。
1356年9月17日にはポアチエの戦いで、再び大軍のフランスは人数の少ないイギリス軍に負け、クリッシー戦の二
の舞いをきっしました。
1415年8月アニンコーの戦いでも、フランス重騎兵はぬかるんだ大地に足を取られてしまい、イギリスが勝利しまし
た。
戦うと負けるフランスのリズムは、救世主ジャンヌ・ダルクの登場まで続きました。
フランス東部の村娘(ドムレミ村)はオルレアンの町を、取り囲んでいたイギリス軍から解放するようにとの神のお告げ
を信じて行動を開始しました。1429年5月にオルレアンの町を取り返して、6月16日にシャルル7世のフランス王位戴
冠式をランスの大聖堂(6世紀始めのメロビング朝の王クロービスの戴冠式を行ったところ)で行いました。
しかし、1年後の1430年5月に捕まり、1431年5月30日ルーアンで魔女として火あぶりの刑で亡くなりました。
オルレアンの少女の活躍は短い期間でしたが、フランス人に愛国心を芽生えさせることになり、1453年7月カスティオ
ンを1453年10月にはボルドーの町をフランス軍はイギリス軍から奪い返し、百年戦争は幕引きとなりました。





844  食い倒れは杭倒れから



江戸時代は大名は参勤交代の為に多額の出費が必要とされ、徳川幕府に反旗を翻すだけの資金が不足しました。

また、'出女に入り鉄砲'の言葉に残るように大名の妻は江戸に留め置かれたり、大型船の建造や飛び道具(鉄砲や大
砲)の製造は禁止されました。日本と同様に、同時期にパリ郊外のベルサイユ宮殿でも、ルイ14世により始められた貴
族に対する参勤交代に似た制度やその他の締め付けが行われていました。
宮殿の中は、太陽(ルイ14世は太陽王と呼ばれた)を中心にして回る諸惑星の名前(ギリシャ神話のヒーローでもある)
がつけられた部屋を通って、有名な70米も続く鏡の間へと続いています。太陽王の目ざめから就寝までの1日の動き
が儀式化されていて、誰も皆その窮屈なしきたりに従いました。背の低かった王はかかとの高い靴を履き、盛り上がっ
たボリューム感のあるヘアーピースを被ったそうで、相手に威圧感を与えました。
女性は、コルセットで体を締め付け、傘を広げたようなドレスに身を包み、宮殿にはトイレもなく苦しみに耐える生活だ
ったそうで、やっと浣腸をして難を逃れる人もいました。

日本でも奈良や平安時代には正式の衣装とされた衣冠束帯で飾った絵には、非常の際の尿意を手助けする為の尿瓶
を手に持った姿で描かれていて、何処も同様の苦労をしていたのが忍ばれます。
鏡の間そばの部屋には、太陽(ギリシャ神話ではアポロン、音楽の神)王のカツラ300個が置かれていて、1日に3回も
衣装やカツラを取り替えたそうです。また、このアデランスの間?こそ、後に1781年アメリカの独立支援の為、軍事援助
の決定をした所だそうです。
軍事資金調達の為に増税したことや天候不順から農作物の凶作など重なり、やがてフランス革命が起きました。

大坂の町は食事が美味しく安いので、レストランがしのぎをけずる競争をする所から、別名'食いだおれの町'と言いま
すが、言葉の元々の起こりは、商取引で豊かになる大商人たちを戒める為に、幕府が水の町大坂の地盤を支える
杭を抜いたり倒したりして定期的に水の被害を起こさせた政治的意図を背景に持つ,杭でたおれるからきているそうで
す。

権力者の考えることは、古今東西を問わず似たような発想をするようですね。





845  登山家ウィンパーに魅せられて


もうじき80歳に達しようかという老人が、奥さんと息子の嫁と孫2人(高校生と中学生)を連れて、夏休みに10日間のド
イツ・スイス・パリを巡るツアーに参加されました。

雄弁で背筋もシャキっとされたこの男性は、孫の為にルーブル美術館の手作りの見取り図も用意しておられました。ヨ
ーロッパに向かう飛行機の席が隣合わせでしたので、いろいろお話をお聞きしました。
子供の頃、お父さんの本棚にあったマッターホルンの初登頂に成功したウィンパーのことが書かれた本に魅せられた
そうです。本には、同行した登山家が落下して死んだ謎に満ちた話が載っていました。
定年後、何度かツェルマットにこられたそうで、3千米の山の上にあるゴルナグラートの展望ホテルや絶景の地につくら
れたリッフェルベルグ・ホテル(5つ星)に泊られたそうです。そこはマッターホルンの全貌が見渡せる絶好の場所です。
偶然に目にした父親の書籍の一冊の本が、この方を捉え続け、そして今回は可愛い孫にも山の魅力を、自分のマッタ
ーホルンへの思いを伝えたかったようです。
奇しくも私たちは、ウィンパーが定宿として使ったローザホテルのそばにある宿に泊りました。1865年7月にツェルマット
側からマッターホルンを目指して仲間の登山家たちと共にウィンパーはローザホテルを出発したと書かれた青銅製の
記念板を、通りに面したローザホテルの外壁に見つけました。

ゴルナグラートでもツェルマットでも、生憎と裾野だけしか姿を見せないマッターホルンでしたが、夕食後泊ったホテル
(ツェルマッターホフ)のバーラウンジで、イタリア生まれのホテル専属のピアニストが、私たちのためにコンサートをして
くれました。お孫さんを伴ってどかっとソファーに腰掛けられたこの方は、頃合を見てピアニストに好みのドリンクを差し
上げるなど、それとなく将来を担う孫たちへのマナー教育をしておられました。








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