希望

836  アメリカへの忠誠心の表明文章の内容とは?


大勢の日系アメリカ移民1世、2世が太平洋戦争中(1941〜1945),強制収容所に入れられて辛い体験をしました。

93歳になった老人は、当時を回顧して次のように語りました。
生まれたのはハワイですが、育ったのは日本で20代の始め親や兄弟の住むハワイへ行き、本願寺ミッション・スクール
で日本語教師として働きました。
真珠湾にあるアメリカ海軍基地への突然の攻撃で太平洋戦争は始まりましたが、近くのカリヒの町に住んでいたこの方
は、日曜日の朝という時間帯でもあり、家の屋根の上に登って、その見事な日本海軍の戦いぶりを一部始終見たそう
です。決して民間の地域には火の手はあがりませんでした。
やがて、アメリカの西海岸や近くの内陸の砂漠には、日本軍の風船爆弾が落されたり、パナマ運河(大西洋と太平洋を
結ぶ最短の水の道)を日本が狙っているのではないかといった心配、それに合衆国のみならずカナダ、メキシコ、ペル
ーなど太平洋沿岸の国々へ移民していった日系の人達が日本のスパイになって働いているのでは?アメリカの中から
造反サボタージュが起きるのではないか?など心配したアメリカ政府は、疑わしい人物を強制的に連行、身柄を拘束し
て取調べを行いました。

ホノルル空港近くのサンド・アイランドにある軍施設に連行されたこの老人は、連日取調べを受けました。
アメリカへの忠誠心の証として,20数か条から成る文章に署名を求められたことがあるそうです。最後の2か条は、天
皇に対して鉄砲を向けれるか?日本に住む親や兄弟、友人を敵として戦えるかといったことが書いてあったそうです。
日本を敵として戦うことは断ったそうですが、喜んでヨーロッパ戦線には行って、アメリカの為に戦う意思を述べたそうで
す。結局は、米本土の砂漠の中につくられた収容所に連れて行かれました。
周囲には金網の柵が張り巡らされ、監視塔からの見張りの下での生活が始まりました。
3年あまりの収容所生活でしたが、その間には家族や友人との再会もあり,望めば生活も共にすることが許されるよう
になり、それなりの自由があったそうです。カルフォルニア州の北、オレゴン州に程近い砂漠にできたトゥーレイク収容
所には、約1万6千人の日系アメリカ人が生活していました。中には日中堂々と日の丸の入った手ぬぐいを額に巻き、
行進するなどの、反米感情をむき出しにする態度をとる若者も多くいたそうです。日本から流れてくる短波放送に耳を
傾けて一喜一憂している人もいました。
 
やがて戦争が終わり,引き揚げ船でオレゴン州のポートランド港から日本に帰ったのは、その内の5千人だけだったそ
うです。戦争前の広島の田舎で教師体験を持つこの人は、久里浜港(三浦半島の一角にある)に上陸した際、あまりの
日本人の変わりように驚き、帰国したのを悔やんだと言います。
引き揚げ船で返ってきた元日本兵に浴びせかける港での日本人の罵声(あんたたちが意気地がないから戦争に負け
た!)や郷里へ向かう列車での規律の無さに情けない思いでいっぱいだったそうです。この老人の頭には、日本人の
自らを律して生きるイメージが強くあったそうです。
収容所で長男が生まれ、仲間みんなに心から祝福されたのが今も瞼に残っていて、忘れられないと言います。

不安で明日が見えない時こそ、明るく希望を抱いて生きることの大切さを教えて下さいました。





837  北の門と南の門の違い


サグラダ・ファミリア教会の北の門(生誕)と南の門(受難)のデザインの違いは、誰の目にも明らかです。

1926年に事故で急死したガウディでしたが、北の門は既に完成していました。
伝統の中世ロマネスク・ゴチックのデザインを多く取り入れています。一方、南の門は全く新しい20世紀の大胆な解釈
によってイメージがつくられていて、ガウディの死後できました。
バルセロナの公認ガイド女史によると、19世紀に再び経済の活況を取り戻した際、産業資本家や市民の心の拠りどこ
ろとしていたのは、この地域が中世の時代に地中海の貿易を中心に栄えたころ盛んにつくられた、ロマネスク・ゴチック
様式の建物であった所からガウディのパトロン達はやはりゴチック様式の教会が建つのを望んだそうです。
そうすることで、建築資金も集まり易かったのでは?と考えていると語りました。
果たしてガウディの真意は北の門にあったのか、または死後ガウディの残した資料に基づいてつくられた南の門にあっ
たのかは、ガウディのみぞ知る所です。

2026年がガウディ没後百年に当るので、最近の急ピッチでの工事進行振りから見て、後20年もすれば完成するのでは
ないだろうか?という憶測が生まれているようです。
ただ東側〔海側〕の入り口付近は、アパートや道路が今もあり使っているので、立ち退きや地下へ道路を配線し直さな
ければならず難しいかも知れません。

バルセロナの産業資本家を中心とした新興のパトロンたちが、ガウディを始めとするモデルニズモ(新芸術運動)の芸
術家たちに、'金は出すが口は出さない'大人の対応をしていたと思い込んでいた私の考えは間違っていたのかと考えさ
せるガイドの一言でした。
皆さんはどう思われますか?





838  長子ではなくて次子や末子を祝福



基本的には世界の趨勢は、長子相続にあるようです。

聖書もそのような意図で書かれているようです。
しかし、時として異なる設定が挿入されています。旧約の中でアブラハムの長子はイシマエルですが、次子のイサクが
後継者になっていますし、イサクの長子はエサウですが次子のヤコブが祝福されています。またヤコブの11番目の息
子ヨセフは、他の兄弟たちを越えて認められましたし、ヨセフの次子エフライムは長子マナセよりも祝福されています。
マルティン・ルターによると、ダビデの話はギリシャ悲劇に勝るそうですが、ダビデに至っては末子でした。

神のめがねに適う人物は、人間界の常識を超えた所にあるようです。





839   十字軍運動の流れ



11世紀末から13世紀末まで、サラセンの勢力下にあったイエス・キリストの聖墓と聖地エルサレムを取り戻そうと、西ヨ
ーロッパのキリスト教の国々が行った軍事行動が十字軍です。

参加した兵士は皆、十字の印の入った服を着ました。サラセンの名の由来は、ギリシャ語'サラケノス'からきていて、イ
スラム教を奉じる東の人と言う意味です。
十字軍の崇高な目的は、参加者の容赦のない残忍な行為や欲、自己肥大により遠征が始まると間もなく失われまし
た。公平に見て、野蛮な敵と見なしたサラセン軍よりは十字軍の方が、多くの場合遥かに残虐な行為をしました。

キリスト教徒にとっては、エルサレムはイエスの墓やオリーブ山、ゴルゴダの丘などキリスト教の事象の豊かな所であ
り、神の聖なる癒しと許しを得られると考えていました。
1071年に小アジアのセイジュク・トルコ軍が聖地エルサレムを、同じイスラム教のカイロを都としたファティマ朝の手から
奪ったという情報が、キリスト教巡礼者によりヨーロッパにもたらされました。
セイジュク朝がエルサレムに巡礼したキリスト教徒を受け入れず、追い返したり迫害したかどうかは、歴史は沈黙して
います。しかし、エルサレムの支配者交替という情報は、ヨーロッパのキリスト教徒を不安にさせました。
1095年にローマ法王ウルバヌス2世は、フランスのクレモントで会議を招集し、異教徒のサラセンの手に落ちた聖地エ
ルサレムを取り戻す軍事行動の提案を行いました。

サラセン騎兵は、十字軍騎士同様鎖帷子を身に纏っていましたが軽いものでしたし、動きは遥かに敏捷で、弓と短い
槍を併用して戦法もヒット・アンド・ラン(機を見て突撃してきて逃げ去る)で、待ち伏せを得意にしていました。接近戦で
四つに組んでの戦では、重装備のヨーロッパ軍に分がありましたが、中々アラブ馬の逃げ足にはついていけませんでし
た。
第1回十字軍(1097〜)では、1097年10月にアンティオキア(シリアの都市)のセイジュク・トルコ軍にを包囲しますが、
食料を充分に貯蔵したセイジュク軍は籠城を続け、9ヶ月も持ちこたえました。やがて冬がきて、取り囲んだ十字軍の中
に飢饉や病気、疲弊や前線泥棒などが起りました。サラセン人の肉を食べたり,7万頭もいた馬が2千頭に減ってしまう
ほどでした。長雨と強雨の為、キャンプ地が泥沼化して寒々とした風景の墓が累々と連なる所と化してしまいました。
最終的には、やっとサラセン側に裏切りがでて、1098年6月3日町に入る門が内側から開けられ、町に入りました。住民
を手当たり次第見つけ次第虐殺を繰り返したそうです。
シタデル(軍人が立てこもる要塞)以外の町を制圧する間もなく、モスル(イラクにある)からやってきた援軍のサラセン
軍に逆に包囲されてしまいます。
悪病が流行り、空腹で全滅間近かと観念した時に、奇跡がおこりました。アンティオキアのピ−ター・バルトロメオのいう
1神父に神のお告げがあり、ゴルゴダの丘で杭に架けられた時、イエス・キリストの横腹を突き刺した剣がこの地の聖
ペテロ教会に埋めてあるので、それを掘り出して聖剣を手にして戦えば、必ずこの苦難に勝利するであろうというもの
でした。
掘ってみると、お告げ通り錆びた剣が出てきました。皆狂喜して、この奇跡を受け入れ、一心不乱にセイジュク軍に対
して戦いました。結果は大勝利となり,士気の萎えたサラセン軍は戦場を去って行きました。シタデルの中にいたサラ
セン軍も降伏しましたが、誰がアンティオキアの支配者になるのかを巡り、半年も議論が紛糾しました。十字軍遠征隊
は思惑の異なったリーダーたちの混成で出来ていました。
ゴッドフリートに率いられた2万5千人の十字軍は、1099年6月7日エルサレムの包囲を開始し、7月15日に2つの物見
の塔を陥落させて町になだれ込みました。
血に飢えた十字軍兵士は住民を虐殺して回り、やっと裸足で兜を脱いでキリストの聖なる棺の前に跪きました。兵士た
ちはゴットフリートをエルサレムの王に選びましたが、言い伝えによると、ゴットフリートは次のように言って申し出を上
手に断ったそうです。
'主イエスが頭に棘の冠を被った町で、私は黄金の王冠を被るわけにはいかない'と。

ボールドイン1世王の支配(1100〜1118)中、エルサレム王国の領土は広がりましたが、エジプト遠征中に亡くなりま
した。その後、ボールドイン2世王が13年間在位しましたが、剣で更に支配圏を広げました。そんな状況下、エルサレム
王国の永続的な防衛の必要から、二つの騎士団が生まれました。
ひとつはホスピタル騎士団(聖ヨハネ騎士団ともいう)で、赤いチューニック(軍人の着た上着)に白十字が描かれてい
ました。キリスト教巡礼者を手助けする目的でできた信仰心に燃える兵士や僧侶たちの集団がきっかけとなり、エルサ
レム周辺を守備する軍事集団として1118年発足しました。
もうひとつはテンプル騎士団(神殿騎士団)で、1123年に聖地巡礼にやってくる人たちが通る道を守備して安全な旅を
確保する目的で、ボールドイン2世王によってソロモン神殿近くに宿舎が与えられました。彼らは白いチューニックの中
に赤十字が入った上着を着ていました。
こうしてヨーロッパ中から両騎士団への入隊希望者が集まり、寄付や遺産も多く集まりました。
1190年には、ドイツの上流階層で構成されたチュートン騎士団ができました。
当初は、キリスト教の防衛と聖地での病人の看護をしましたが、13世紀に入ると地元ドイツで、キリスト教に服さない異
教徒や南バルト海沿いの地域(プロシャやポーランド、バルト3国あたり)まで出かけ剣で改宗させ領土を拡大しまし
た。北方十字軍運動と呼ばれます。彼らは白いチューニックに黒十字の模様が描かれている上着を着ました。

第二回十字軍(1147〜1149)は、1144年セイジュク・トルコ軍にオデッサの町が奪われたのに触発されて起りまし
た。ドイツ王コンラッド3世やフランス王ルイ7世が、1147年に聖地エルサレムを守る目的で出発しましたが、失意のう
ちに1149年にヨーロッパに帰還しました。

1169年には、2百年に及んだ十字軍運動で、サラセン側のリーダーで最も名声を博したサラディンがエジプトのスルタ
ンになり、イスラム教徒に聖戦(ジハード)を鼓舞し、エルサレムの町をキリスト教徒の手から取り戻す為に立ち上がり
ました。

第3回十字軍(1189〜1192)は、サラディンが1187年エルサレムをイスラム教徒の手に取り戻した事件を契機に
起りました。ヨーロッパで最も力のあった3人の王たちが自ら十字の印をつけて参加しました。
ドイツのフリードリッヒ1世、フランスのフィリップ・オーガスト、そしてイングランドのリチャード1世(獅子王と呼ばれた)で
す。
フリードリッヒ1世王は顔に赤髭をたくわえていたことからバルバロッサ(赤ひげ王)と愛称され,戦場では有能な指揮官
としてイスラム軍を相手に活躍しましたが、老いも手伝ってか小アジアで川を渡る際に、溺れて死んでしまいました。
リチャード王とフィリップ王は力を合わせてパレスチナのアッコーでの戦いに勝利しましたが、仲たがいが元でフィリップ
王はフランスに帰ってしまいました。
リチャード獅子王は傑出した勇者でしたが、サラディンに対して傲慢で冷淡な態度で臨んだと同様の態度を同盟軍にも
取り、魯鈍としか見えない人でした。獅子王の他を圧倒する身体能力の高さ、勇気、戦場での指揮の際立って優秀で
あるのは誰もが認めましたが、陰謀を好み野蛮な性格を持つ人でした。
イギリス王として在位した(1189〜1199)間の僅か半年だけしかイギリスにいなかったという王で、臣民にとっては軍
事拡大のために重税を課しただけの人でした。
アッコー(北イスラエルの地中海沿岸の町)での攻防戦は、リチャード獅子王とサラディンのリーダーとしての資質や騎
士道精神の差をあわらにしました。
サラディンを完璧の人とすれば、獅子王はあまりにも不完全で劣っていました。
聖地エルサレムで行った捕虜の処遇は、サラディンが騎士道に沿ったものであったのに対して、キリスト教軍のそれは
目を覆いたくなるような残虐行為に満ちています。
獅子王は、1192年9月2日にサラディンとの間に停戦条約を結びます。キリスト教徒の安全な聖地巡礼の旅を認めさ
せ、タイヤからジェファまでの(アッコーの要塞を含む)地中海沿岸沿いの道を確保しました。'3年以内に聖地を再び取
り戻すであろう'と言い残してパレスチナを後にしましたが、彼は帰ってくることはありませんでした。

第4回十字軍(1200〜1204)では、聖地にやってくることはなくベネチア共和国の利益のために、同盟側のビザンチ
ン帝国の都コンスタンチノープルを襲った、愚そのもののミッションでした。

第5回十字軍(1218〜1221)は、エジプトへ侵入しています。
ダミエッタの町を落しましたが、十字軍の内輪もめが原因で最終的には奪い返されています。

第6回十字軍(1228〜1229)は、好奇心をそそる奇妙な遠征でした。
ドイツ王でありシシリー王でもあったフリードリッヒ2世は、ローマ法王から破門され,この為にドイツ軍とチュートン騎士団
だけから成るものでした。しかし、戦争を一度もせずにスルタン・アル・カミルと条約を結んでいます。15年に及ぶ聖地エ
ルサレムの支配者として君臨しました。

第7回十字軍(1248〜1254)と第8回十字軍(1270〜1272)は、いづれもフランスのルイ9世によって行われまし
た。
エジプトへと進軍しますが、1250年のカイロの戦いで負け捕虜になりました。巨額の賠償金を支払って1254年にフラン
スに王はやっと帰還します。そして、再度試みた遠征(十字軍最後の8回目の軍事運動)では、ルイ王はチュニジアで熱
病に冒されて死んでしまいました。ルイ9世は聖ルイと呼ばれ, 聖人に加えられました。イギリスのエドワード皇太子も,8
回目の遠征に行きましたが、1272年にサラセンとの間に休戦協定を結んで、国に帰りエドワード1世王となりました。

1291年にアッコーの要塞がエジプトのスルタンの手にかかり陥落しましたが、丁度その年はリチャード獅子王とフィリッ
プ・オーガスト王がイスラムの手からアッコーを奪って百年目に当っていました。

西ヨーロッパはサラセンとの2百年に及ぶ戦争を通して数多くのことを学びました。
要塞としての築城術は、その後の城塞建築に大いに生かされました。
ノルマン公国の都ルーアンの町をフランスのフィリップ・オーガスト王の攻撃から守る為に、セーヌ河が見下ろせるゲイ
ロンの地の丘の上に難攻不落の城・ゲイラードをリチャード獅子王はわずか2年(1196〜1198)でつくりました。岩の
上の美しい要塞と自ら讃えて呼んだそうです。
あるいは、エドワード1世王(1272〜1307在位)もウェールズの地に8つの名城をつくらせています。





840  メッセでフリーマーケットは何処と尋ねた青年


夏休みのとある土曜日は、朝早くから幕張メッセの駐車場は多くの自動車で賑わっていました。

一方、昨日まで高校球児たちが汗と涙で熱戦を繰り広げた千葉ロッテ球場は、静まり返っています。過ってこの辺りが
海であったころ、アサリ取りにやってきた思い出を持つ人もいて、あまりの風景の変わりように驚いたという話を聞いた
こともあります。
この日は、メッセ会場では恐竜博や家具電化製品ショー、エホバの証人の地域大会とフリーマーケットが行われていま
した。
アルバイト生がメガホンを使い、道に立って誘導、宣伝するNHKの関わっている恐竜博だけが開かれている印象を与
えていました。
正しくは知りませんが、フリーマーケットは登録さえすれば誰でも出品して自由に売買していい、バザールのようなもの
なのでしょうか?手押し車に商品(がらくた?)を満載し、さらに肩に荷を担いで持ち込んでいる人の姿を大きな通路で
目にしました。
エホバの証人の人たちは胸に共通のバッジをつけて、きちんとした服装で晴れ晴れとした表情の何千人という規模の
集まりのようです。
電車駅の方から歩いてやってくる人たちも大勢いました。
こちら側にもハンド・スピーカー(奇声を時々発する質の悪い)を手にした恐竜博の誘導員がいて、親切の押し売りをし
ている感じで浮いて見えます。'宣伝して知らせなければ存在しないのと同じ'という商売の鉄則は分りますが、度を過ぎ
た品性に欠けるのはどうもいただけません。

時間が経ち、髪はボサボサでジーンズをはき、柄模様のシャツといったいでたちの若者が、フリーマーケットは何処で
やっているのかと、エホバの証人の大会会場入り口ホールで尋ねていました。
元々ヨーロッパでは中世以来、安息日(日曜日)は必ず教会に集い神を讃え、感謝するミサを行ってきました。ミサが
終わると、教会そばの広場(マルクト・プラッツ市場広場)で市が開かれるようになり、人々が持ち寄った物を交換したり
商人や両替商も加わった物産展(メッセ)へと発展していきました。
メッセとはミサ(神を讃えて集い祈る行為)から生まれた言葉だと聴いています。
正にこの青年は幕張メッセにやってきて、ミサには参加せず入り口付近で談笑している信者に市場広場(フリーマーケ
ット)はどこでしょう?と聞いたのは的を射ていたといえそうですし、時代と場所(日本)の違いが引き起こしたアイロニー
な一こまを見た思いでした。

ドイツなどでは、今でもマルクト広場では日曜市が立っているのを目にします。








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