希望

831  馬から大砲へ(ヨーロッパ中世の始まりから終焉)



遠くアジアからやってきた, 獰猛かつ残忍な馬上で生活する、丁度ギリシャ神話のケンタウロスに似た馬術の名手フン
族の登場は、ヨーロッパに騎兵を生み出すことになりました。

騎兵が歩兵を制する時代は、約千年間続きました。
百年戦争(14世紀半ば〜15世紀半ば)で、イギリス長弓歩兵隊(350米以上正確に飛ばすことが出来た)がフランス騎
馬隊を負かすまで続きました。
フン族が去って数百年経ったころ、バイキングがフランスに入ってきました。彼らの末裔のノルマン人は、イギリスを占
領しましたが同時に、封建制度や騎士道文化を生み育てました。きらびやかな武具で人も馬も飾り立て、戦場で名誉を
かけて勇敢に戦う騎士たちは、中世の花形となりました。平和な時もトーナメント試合を行い技を磨き、重い剣や槍,鎚
矛(つちほこ)を自在に振り回す腕力を鍛えました。

やがて16世紀になると、イタリアの戦争で大砲が出す凄まじい音が、馬を怖気させる効果が見られるようになり、その
後効果的な火気の使用が戦場の性格を変えることになりました。要塞化された城や武具は大砲や鉄砲の前には役に
立たなくなり、人対人から人対戦争機械の時代に入っていきました。
それと共に、騎士道時代(女性や英雄、神を敬う心を大切にした)は、鉄砲の弾や大砲の爆音の中に煙となって消えて
行きました。





832  ガイドの勧める英国の飲み物


スコットランド人と結婚してグラスゴーに住む日本人女性公認ガイドは、エジンバラまでの1時間ほどの移動のバスの中
で飲み物の話をしてくれました。

まずビールです。
ラガー、ビター、エール、黒ビールの4種類あります。
ラガーは日本で通常飲まれているので語らず、ビターはホップが多めに入っていて冷やさないで飲みます。エール
(Ale)は発酵中のもので、樽を横に寝かし不純物が沈殿してから飲む地酒だそうです。黒ビールが黒い理由は、大麦
を長く炒るからそうなるそうです。
ギネスビールなどが代表ですが、昔から妊婦が貧血になると、医者が鉄分が多い黒ビールを処方しました。
瓶ビールは別にして、樽ものを注文するにはパイント(560cc)とハーフ・パイント(280cc)のジョッキの2通りです。

次はサイダー(リンゴ酒)です。フランスのシードルとは違うものです。

意外に美味しいのがシャンディだとも云いました。
夏の暑い日など特にお奨めだそうです。ラガーやビターをレモネードで割って飲むそうで、トレンディな飲み物になって
います。

さて最も時間をかけて説明したのがスコッチ・ウィスキーでした。
スコッチ・ウィスキーの定義は、スコットランドで蒸留したあと最低3年の熟成期間をスコットランドの地で経たものだけに
限ります。3つの種類があり、ブレンド、シングルモルト、モルトです。
ブレンドはシングルモルトに30〜70種類のグレンウィスキー(コーンなどの穀類からつくる)を混ぜたものです。何年物
と表示する際は、使用したウィスキーの中の1番新らしいもの年を入れます。
モルトはモルト同士を混ぜてつくります。
お奨めの飲み方としては、グラスに別に水を貰い、まず水を少し口に含んだままウィスキーを口に入れて、味と香りが
口の中に広がっていくのを楽しみつつ、鼻から息を出すそうです。氷は勧めないといいます。

ウィスキーのできる過程はと言うと、まず大麦(バーレー)を2晩水に漬けたものを取り出して、20〜30センチの厚さで
床に広げます。やがて発芽が始まります。次は発芽を止める為に乾燥室(キルン)に入れ、下から熱を加えます。かま
どにくべる燃料はピートです。ピートはヒース(紫色の花をつけるエリカと同種類の植物)の堆積してできた泥炭です。キ
ルンの中での乾燥時間によってウィスキーの特長が分かれるようです。
ハイランド、ローランド、アイランドものといった風に呼ばれます。ハイランドとローランドの境界線は、ダンディの町(エジ
ンバラの北、北海に面したテイ湾の中ほどにある)とグリーノックの町(グラスゴーの西、クライド湾の奥にある)を結ぶ
線の北南となります。チャールズ皇太子は、ハイランドもののスペー川の水からつくるラフルイブ・ブランドを好まれるそ
うです。
やがて麦芽ができるので、次は粉砕機にかけてこれを潰します。そうすると、白い粉状のでん粉になります。大きな容
器にお湯とでん粉を入れ、溶かすと麦汁になります。次は、温度を下げてイーストを混ぜてると、2日ほどで発酵が始ま
ります。
オレゴン州から取り寄せたオレゴン・パイン(松)の容器に移し発酵を進めます。
14%のアルコール度まで発酵させます。その後、更に蒸留器に2度入れて出来上がります。品質検査に合格したもの
だけを、シェリー酒用の樽かバーボン・ウィスキー樽に入れて、最低3年間寝かすとシングル・ウィスキーの誕生となりま
す。

余程ウィスキーが好きなのかと思い30代半ばに見えるガイド女史に問うと、そうでもないそうで、視察の手伝いでよくス
コットランド各地の工場へ行くことがあり、自然に覚えたそうです。私たちが午後、エジンバラ近くのウィスキー工場(グ
レンキンチー)を見学することを聞いて、話をしたのだそうです。
実際、午後訪れたグレンキンチーでの工場内見学では、前もって聞いた通りの流れでしたので、大いに助かりました。
ここでは地下水をくみ上げているそうで、大麦にイースト、そして水だけからつくるモルト・ウイスキー(いのちの水)の生
命線は水に尽きることを教えられました。見学が終わると、待望の試飲です。試飲室でまず水を口に含み、モルトを口
に入れ、鼻から息を抜きながら喉に落ちていく高貴な液体を味わいました。

また、品質検査に合格しなかったウィスキーには、高い税金が一切かからないとの説明があったので、相当量のウィス
キー落第生が安く(タダ?)世に出回っていて、温情ある政治が行われているのかな?とも思って見ました。





833  ロゼッタ・ストーンの数奇な運命


ロンドンの大英博物館で必見と言えば、誰もがロゼッタ・ストーンを思い浮かべます。

オスマン・トルコ帝国のエジプトを含む東地中海支配と英国のインド支配に圧力をかけるために、ナポレオンは1798年
にエジプト遠征を行いました
この遠征に勝利したフランス軍はアレキサンドリア近郊のロゼッタ村(又はラシッド村)で、古い壁を壊して要塞の延長
工事をしていた際に、偶然見つかったのがロゼッタ石でした。
このエジプト遠征には、歴史や考古学に造詣の深い学者も同行していました。早速、この石は地中海のほとりのロゼッ
タ村から都のカイロに送られました。石の表面に刻まれた3つの異なった文字(ヒエログリフと呼ばれる神聖文字、草書
体の民衆文字、古代ギリシャ文字)の解読をするために、ヨーロッパ各地にコピーが送られました。

1799年当時、古代ギリシャ文字は広く世に知られていました。
やがて英国の攻撃に備えてアレキサンダー大王ゆかりのアレキサンドリアにロゼッタ・ストーンを移しました。しかし、フ
ランス軍はアレキサンドリア港攻防戦で英国軍に敗れ、1801年にアレキサンドリア協定の結果、石は英国の所有にな
り,翌1802年2月にポーツマス港に送られ、同年7月に大英博物館に寄贈されました。

ロゼッタ・ストーンの文字解読には主に3人の学者が貢献しました。
アローブラッド(1763〜1819)、ヤング(1773〜1829)、そしてシャンポリオン(1790〜1832)です。
アローブラッドはスウェーデンの外交官ですが、石に刻まれた民衆文字の中にプトレマイオスの名を見つけ出しました。
コプト文字(エジプトで初期キリスト教に改宗した人たちをコプト教徒と呼び、彼らが使う文字)は、古代エジプト人の話し
た民衆文字の子孫に当たります。
ヤングは神聖文字と民衆文字は、いづれもアルファベットとそうでないサイン(記号)からできていて、ロゼッタ・ストーン
の両文字は互いに関係があるのを見つけました。神聖文字はギリシャ文字と異なり、表音文字と表意文字が混じって
構成されています。

さて、シャンポリオンはコプト文字に精通していました。バンクスという学者が発表したオベリスクの中に書かれていた
神聖文字とギリシャ文字のコピーから、クレオパトラの名を見つけたことにヒントを得て、ロゼッタ・ストーンの中にクレオ
パトラとプトレマイオスの名に3つの共通する文字P.O.L.を見つけ出すのに成功し、一挙に長い間謎とされた古代神聖
文字(ヒエログリフ)は解読されました。
ロゼッタ石には、プトレマイオス5世統治1年に当たり、紀元前196年3月27日に古都メンフィスに集まった僧侶の総会へ
のメッセージが刻まれていました。





834 チャリティのルーツは?


チャリティボール(慈善舞踏会)、チャリティコンサート(慈善音楽会)、チャリティホスピタル(慈善病院)など数え切れな
いほどチャリティの名のつく社会的行為があります。

チャリティは元々は、慈善、施しなど他者へのキリスト教的愛の発露であり、義なるものとされ、永遠の命を与えられ天
の王国で、イエスキリストの右の座を得るとマタイ伝はいいます。

具体的にどういう行為が大切かと言うと、
飢えている人には食べ物を与え、喉の渇いている人には飲み物を与え、他所からやって来た知らぬ人を泊めてやり、
裸の人には衣を与え、病の人を癒し、罪人への労わりを示し、死者をほおむってあげると書いてあります。
富者が天国へ入るのは、ラクダが針の穴を通るよりは難しく、恵まれない貧しい人ほど幸いであり天国に迎えられると
説くイエスの教えは、中世の時代以降教会を中心に'揺り籠から墓場まで'のチャリティが広く行われました。
生まれて間もない赤子を洗礼して神に認知された人になることや捨て子を育てたり、最後は死者を墓にほおむるなどし
ました。
背景には、新約聖書の中でイエスの説く、神への愛と隣人への愛(敵をも含む)の大切さを社会的行為として表わすこ
とに因があったようです。
勿論、イスラム教にも仏教にもその他の宗教にも同様の社会的行為があります。





835  右が上か左が上か?

公を大切に権威、秩序を重んじる古の皇帝と言えども、不老不死の薬を求める私(プライベート)の願いを強く懐いてい
ました。

現代人であれば、定年退職を機に公から私へと生き方を変える運命が待ち受けています。
中国では、二つの流れがあったようです。
一つは馬の文化(軍事力秩序)で思想面では儒教(孔子や孟子が説く)があり、他は舟の文化(たゆたう舟の如く自由)
で思想面では道教(老子や荘子が説く)です。
戦場にあっても、忠孝の馬の文化と束縛されない舟の文化が、一人の人物の中に同居していたことでしょう。
道とは根本の原理をさし、生を全うすることであって、シャーマン(祈祷師呪い師)や薬の手助けを得ても生きようとする
面があります。この道教も紀元前4〜5世紀には、儒教と同じように体制内に取り込まれていく流れでした。
秩序は条理を重んじますが、ともすれば形骸化しやすい面を持っていて、人間のつくったものは何時かは滅びる運命
にあります。その対極には、混沌があり秩序では捉えられない割り切れないもの(不条理)で、これこそ命の営みで、命
の流れは滅びないで続くと考えました。丁度水がそうであるように。
老子は、道は万物の母と説き、女性が根幹に置かれ、赤い色や太陽も女性として捉え、数字の3、5、7などの奇数や
柔(しなやかさ)を大切にしました。
一方、孔子は天地は万物の父母と説き、赤も太陽も男性として捉え、2の倍数である偶数こそ理に適っている数であ
り、剛や右が上であると言いました。

平和時の定年は、いろいろと愚考を育む機会を与えてくれますね。








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