希望
816  結婚は考古学者とするに限る



ナイル河の第1カタラクト近くにあるアスワンの町外れに、女性推理作家アガサ・クリスティが泊ったという古いホテルが
あります。

河の傍に建っていて中々風情があり、風格を感じさせます。一度だけ泊ったことがありますが、彼女が好んだというアフ
タヌーン・ティを、高い天井から吊り下げられた扇風機が回るサロンで頂いたらいいだろうなと思ったことがあります。
クリスティさんは若くして、誰からも羨ましがられる結婚をしましたが失敗に終わりました。そして、失意の気持ちを癒す
為にオリエント急行に乗り、ロンドンからイスタンブールに旅しました。
当時(19世紀)は、オリエントの地では古代文明の遺跡発掘が盛んに行われていました。
果たして彼女は、夫となる考古学者と出会い恋に落ち結婚しました。
この結婚は成功に帰しました。'結婚は考古学者とすべし。年をとればとるほど大切にしてくれるから'の名言はこうして
生まれたとか?
オリエント急行殺人事件やナイル河殺人事件の小説の裏には、考古学者の夫と旅した経験が大いに生かされている
ようです。





817  4歳からビールを飲んだ時代


ロンドン中の煙突から黒い煤煙が立ち昇り、町中が霧のロンドンならぬ石炭(コークス)の煙で覆われていた頃は、子
供(孤児が多かったという)が煙突の中に入り、筒の掃除をしていたそうです。

映画メリー・ポピンズの中で歌われたチムチムニ〔小さな煙突〕の風景でした。便所もなくオマルで用を足し、通りへ投
げ捨て、風呂にも殆ど入らず、人が飲めるような水はありませんでした。母乳の時期が終わると、直ぐに幼児がビール
を口にしたといいます。
テームズ河は臭くグレート・スティンクと呼ばれ、ロンドン中悪臭が漂っていて、英国紳士はスニッフ・ボックス(嗅ぎタバ
コの入った入れ物)を持ち歩き、プレゼントに花を持参しましたが、それはキザでするのではなく嗅ぎタバコや花の匂い
を嗅ぐことで、少しでも悪臭を取り去る願いがあったようです。
日曜になると、一斉に郊外へ出かけていったり、金持ちほど田舎志向があるのも頷けます。
シャネルなど高級品を扱うブティックが日曜日に今でも店を閉めているのは、神様の安息日ということもありますが、常
連客が町を空にしていたせいもあるようです。
ロンドンやパリでは、やっと19世紀の半ばになって下水道ができ、今のような町に変容しました。

ロンドンの中心ピカデリー・サーカスから始まる大通りにシャフツベリー通りがあります。
その通りの近くには、劇場や中華街などがあり何時も賑わっています。貴族であったシャフツベリー卿は、いち早く恵ま
れない子供たちの為の慈善事業に情熱を持って取り組んだ人だそうです。そんな理由から通りの名前になったり、ピカ
デリー・サーカス広場には噴水があり、'エロス像'の愛称で呼ばれる慈善の人、シャフツベリー卿を記念してつくられた
慈善の天使像があります。
今は、ロンドンっ子たちの集まる際の目印になっているそうです。





818  セント・ジェームズ宮殿傍にはペルメル通りが


バッキンガム宮殿前は衛兵の交替式を見ようと、黒山の人だかりです。

ウェリントン兵舎から新しく勤務に就く近衛兵の行進を見るために、セント・ジェームズ公園よりの通りに陣を取り待ち構
えていますと、ロンドン警察騎馬官に先導され、鼓笛隊が演奏するマーチ音楽にのって40〜50人の隊列を組んだ兵士
たちが、あっという間に通り過ぎました。私たちは、ビクトリア記念像を横目に見ながらモール通りへと移動して、横切り
グリーンパークの端に入り、ビクトリア記念像を前に見て、バッキンガム宮殿を背景に入れて、しばし撮影ストップしまし
た。
グリンパークからクラレンスハウスやセントジェームズ宮殿へと抜ける近道を通って、セントジェームズ宮殿の前に行
き、しばらく待っていると2人の凛々しい近衛兵が24時間の勤務につく為に行進してやってきました。勤務引継ぎの為の
セレモニーが終わり宮殿前の入り口に不動の姿勢で立ちますと、観光客は替わりばんこに傍により、並んで立ち撮影
タイムとなりました。ジェームズ宮殿こそバッキンガム宮殿に引っ越す前は、キングが在所した所だそうです。
バスはペルメル通りの一角で待ってくれていました。
このペルメル通りこそ、ロンドンでの紳士の集うクラブハウスが多くあるところで、過っては朝から夜まで、英国紳士が
新聞を読んだり、極上のワインを飲みながら会話を楽しんだり、一流のシェフの料理を舌鼓を打ちながら過ごしたそう
です。
そんな雰囲気の中から、80日間世界一周の冒険談も生まれたことでしょう。
ペルメルの名前の由来は、フランスで始まった木球を槌で打つ遊びのことだそうで、その球戯場がこのあたりにあった
所からつけられています。
セント・ジェームズ宮殿界隈こそ、紳士の街で紳士の為のシャツ、靴、ワイン、シガー、旅行用品などの専門店が今も軒
を連ねています。近くには、イアン・フレミングが住んだボンド通りもあり、ジェームズ・ボンドの胸のすくような活躍の構
想も、この地から育っていったようです。





819  運転手の携帯電話はクック・ドゥ・ドゥと鳴った



ロンドンに長く住む名日本人ガイド氏が、魚釣りに行ったときの出来事を楽しく話してくれました。

地元の人に、シーバス(Sea Bass すずき)はこの辺りで釣れるか?と訊ねた所、ポカーンとして返事が返ってこなか
ったそうです。何度かくり返し訊ねる内に、やっとそれは魚のことで、She(彼女のシー)ではないことに,相手が気付い
たそうです。
彼女のシーは強く、魚のシーは柔らかく発音することを教わったそうです。
動物の鳴き声も、犬はワンワンではなくバウワウですし、豚も牛も鶏も日本とは違って耳に聞こえるようです。
私たちを1週間にわたって、安全にエジンバラからロンドンまで運んでくれた、バス運転手の携帯電話もクック・ドゥ・ドゥ
と最初は小さく、やがて大きくバス内に鳴り響くオンドリの時を告げる声でした。





820  産業革命発祥の地・アイアン・ゴージ


シェークスピアの生誕の地ストラトフォード・アポン・エボン(エボン川の辺のストラトフォードという意味)から車で1時間ほ
ど山間に入った所に、アイアン・ゴージ(鉄の渓谷)があり、その一角に有名なアイアン・ブリッジ(鉄で出来た橋)が架か
っていました。

ゴージ(谷間、渓谷)という名の印象を懐いて行って見ると、なだらかな丘の間をセブン川の水が緩やかに流れていまし
た。昔から舟が行き来して、人や物を運んだそうですが、山肌に露出して鉱脈が見えていたそうです。この地に、鉄鉱
石とコークスが見つかったことで、コークスで鉄を溶解し鋳鉄(鋳物いもの)がつくれるようになりました。
石の橋げたの上に、482個の主要な支えとなる鋳鉄と1736個の補助鋳鉄を使って、重さ378トンのアイアンブリッジ
(鉄橋)が、たった3ヶ月で1779年の夏に完成しました。
半円の鉄材に支えられた橋は、中央が少し高くなっていて姿見も中々のものです。
アブラハム・ダービー一家の労作といえます。初代のお祖父さんが鉄を溶かすのにコークスを使うことを始め、2代目の
お父さんが鋳物の製造の先駆けとなり、そして3代目の息子が弱冠29歳でこの橋を作っています。
彼らは熱心なクエーカー教徒(清教徒の一派)であり、自分たちの功績を誇ることもせず、肖像画すら残っていないそう
です。クエーカーの名前の由来は、信仰に集中するあまり熱してくると、体を揺すって(地震のアースクエークを思えば
よい?)祈ったところからつけられたそうです。

観光案内所では、土産用のカーストアイアン(鋳物)の置物が売られていて、知恵の象徴フクロウのそれを持ってみる
と、ずっしりと重く感じます。今もこの辺りで作っているそうです。
世界を震撼させた産業革命が、ここで起り短時間の内に世界へと広がっていき、歴史のリズムを大きく変えてしまいま
した。








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