希望

791  バスは最高の待遇を受けていた


トルコの人々は、日本人に対して特別な友情を感じているとガイド氏は言います。

同じアジア人であり、言葉も遠い親戚にあたるアルタイ語系に共に属していて、日露戦争(1904〜1905)では、ロシ
アに日本がお灸をすえてくれた礼もあるようです。
また、19世紀末にトルコ船(エレトロコ号)が串本沖で座礁した折、熱い援助の手を日本にさしのべてもらったり、イラ
ン・イラク戦争では、イランに住む日本人3百人をトルコの飛行機に乗せ、無事脱出させたエピソードもあります。何年
か前、トルコを襲った地震でも、いち早く日本の援助隊が駆けつけたそうです。
何よりもトルコの周りの国々や民族との折り合いが、歴史を通して難しく苦労してきたことが、遠く離れた日本を懐かしく
思い、実際に電化製品や自動車、あるいはボスポラス海峡にかかる大橋の建設などを見て、欧米に負けない日本の
技術の高さに感動を覚えるようです。
トルコは世界第一次大戦の後で帝国から共和国に変わりましたが、イスラム教を国教とするのを止め、トルコ語をアラ
ビア語表記からローマ字表記に変えるなど文化大革命をアタチュルク大統領は断行しました。元々、アラブ民族との間
には摩擦があったそうですが、一層難しくなったと思えます。
そんな厳しい環境の中、ヨーロッパの国々では伝統的にドイツと仲が良いといいます。
そのことを裏付けるかのように、150年前(幕末のころ)ドイツの技術協力を得て、近代文明の象徴である鉄道が敷か
れましたし、第一次大戦でもドイツと手を組んで戦いました。

私たちの乗ったバスもドイツ製のベンツでした。
トイレ休憩の都度ガソリンスタンドやドライブ・イン・レストラン、お土産店の前にバスが停まると、早速モップとホースが
組み合わさった長い棒でバスの窓からボディ全体に石鹸をつけて、水で汚れを洗い落としてもらっていたのがバスで
す。数リラ(3〜400円)のチップで喜んで働く屈強な男性たちの仕事となっています。





792  ポプラの木は息子、屋根の上にガラス瓶があれば娘



サルコファガス(石棺)とは、肉を食べるという意味があるそうです。

時間をかけて死体を溶かす石の入れ物は、多く底に穴が開いていて水分が出て行くようになっています。亡くなった人
たちと、生きて生活している人たちとは、行ったり来たり交信できると信じた時代は、長く続きました。ここトルコのパム
ッカレ(綿の城という意味)は温泉郷として有名ですが、近くにヒエラポリスと呼ばれる聖人フィリッポゆかりの古代都市
遺跡があります。なだらかな丘陵地帯にあり、前面が広く開かれた景色で、丘の上に残る遺跡跡に隣り合って、ネクロ
ポリス(死者の町)があります。
大変に立派なハウス型の大きな石の墓が多くあります。ヒエラポリスの町が繁栄していたことを物語っています。
ここに立っていると、以前行ったイランのペルセポリスの遺跡を思い出しました。
風景も似ているし、時代もほぼ重なるようです。

ヒエラポリスを後にして、内陸の古都コンヤへと向かうアフィヨン近くの村では、昔ながらの習慣が守られているそうで
す。家の周りに多くのポプラの木が植えられていれば、その家には息子がいるそうです。男の子が生まれると成長の早
いポプラを植え、その子が嫁を貰うまでに成長すると、ポプラを切って家具や調度品などに加工して結婚資金の足しに
します。一方、年頃の娘を持つ家では、屋根の上にガラスビン(土器の入れ物?)を置いておくそうで、鉄砲でものの見
事にビンを射た若者が、娘を手に入れるのだそうです。
こういった村に必ずあるのが、男だけが出入りする喫茶店です。おそらく実際には喫茶店あたりで、娘や息子のことが
村の長老たちにより話し合われ、決まるのではないでしょうか?





793  トルコのものでないのにトルコブランドの名が



一旦有名になると、その名前だけが勝手に出身地を離れ、世界ブランドとして一人歩きをする傾向があります。

本当は、トルコで生まれたものでないのに、トルコブランドとして有名なものには、トルコ・コーヒーやトルコ帽がありま
す。
コーヒーは、アラビアあたりで飲まれ始めましたから、出身地はアラビアやエジプトになるのでしょうが、16世紀以降は
オスマン・トルコ帝国の支配下にいずれの地域も入ったので、きっとあのどろっとした、あめ色のコーヒーをトルコ・コー
ヒーと呼ぶようになったのでしょう。
トルコ帽は、現在ではモロッコあたりでしか被っていません。アタチュルク大統領(トルコ共和国の初代)により、トルコ帽
は前近代性や奴隷制時代の象徴であるとして、禁止された経緯があります。

一方、本来トルコのものなのに外国で有名になってしまい、オリジナルのトルコが忘れられてしまったものには、サンタ・
クロースやチューリップ、カーテン生地、皮、多くの植物があるそうです。
年末商戦や子供たちの夢をかきたてるサンタ・クロースはトルコのパタラという所で生まれた人がモデルです。
オランダ人により世界へ紹介されたチューリップは、トルコが原産地ですし、1万2千種ある様々な植物の内、何と3千
種がトルコにあるそうです。
カーテン生地の9割はトルコ製であり、革製品の多くは同様にトルコ原産が多いそうで、その背景には宣伝下手で、プラ
イドが高いトルコ民族の姿が浮かんでくるようです。





794  アタチュルクは名字



長い間名字はなく、名前の後にお父さんやおじいさんの名前や、所属する部族や氏族の名前を言って用を足していま
した。

ムスタファ・ケマル(1881〜1937)は、テサロニケ(現在はギリシャ領)で生まれ、軍人として世界第一次大戦ではガ
リポリ戦争で大活躍しました。戦後の難しい複雑な国際状況下、ものの見事にトルコを共和国として再生させました。国
民が彼に送った名字が、アタチュルクでした。アタとは父、チュルクとはトルコ、つまりトルコの父という名字です。
20世紀のトルコの姿は、過去の栄光に満たされた輝ける帝国と比べると、見劣りするのであまり好きでないというトルコ
人が、このトルコの父(アタチュルク)だけは、メヘメット2世(1453年に東ローマ帝国の都コンスタンチノープルを陥落さ
せた英雄)と並んで、この国で最も尊敬する人だといいます。
将来は世界的にもっと評価が高くなると私は思っていますが、アタチュルク大統領は、数々の目を見張る改革を断行し
ました。
権力は国民に帰属するという信念で生き、独裁者には成ろうとせず後継者に押されかねない子供もつくりませんでし
た。遺産は全て国に寄贈しています。宗教と政治を切り離し、イスラム教の政治への関与を断ち切り、政治の都を小さ
な村に過ぎなかったアンカラへ移しました。婦人の参政権は、日本に先立って行っています。トルコ語の表記は、本来
適していなかったアラビア文字を止めて、ローマ字表示に変えさせました。そして、名字を誰もが持てるようにしました。
女性と酒(ぶどうからつくる蒸留酒のアラック)をこよなく愛しましたが、若くして突然に亡くなりました。

トルコの各町には、アタチュルクの像が立っています。





795  銀色の葉が輝いていた棗(なつめ)の木



トルコでは、棗の実はお菓子の中に入れて食べるそうです。

カッパドキアでは、道端に銀色の葉が風に揺られていて、遠目にはオリーブの木に似ていて、近づいてみて初めて木の
幹が明らかに違う棗の木がありました。
以前、中国の内陸に棗荘という名の町に行ったのを思い出しました。露天で石炭が取れたそうで、日支事変以降日本
陸軍の基地となり、過って兵隊としてこの町に配属されていた人達を案内してのことでした。戦争が終わって40年も経っ
ているのに、日本が使っていた施設が残っていて、今も使われているのを見て感動しておられました。聞くのを忘れまし
たが、きっと棗の木が多く育つ土地柄だったのでしょう。

カッパドキアでは、1960年ごろまでは自然の、あるいは人工の洞窟の中で人々が生活していたそうです。今は、幾つか
の洞窟がレストランやホテルとして観光用に使われています。
こういった使われ方は、チュニジアやイタリアでも同様にあります。
カッパドキアには、地下深く幾つも穴を掘り、道をつくり換気専用の穴や貯水漕、食料貯蔵庫、火を使う台所、防衛用
の重い丸い石扉等などまで整った壮大な地下都市がありました。何故これまでして、地下に生活したのでしょうか?
敵から身を守る為だったのか?異端とされたキリスト教の信仰を貫く為だったのでしょうか?
数倍する敵から身を守り、やがて勝利する目的で穴を掘り隠れて生活する兵士は、戦争中は硫黄島でもベトナムでも
いました。樹上で一生を送るインドの聖者もいます。

世界は不思議に満ちています。







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