希望

796  カッパドキアの絨毯経営者の姿勢は本物?


幾つもある絨毯紹介用の大部屋の外の通路では、店の経営者が休憩している年配の日本人観光客の方々を相手
に、話を聞きたいといってアラック(ぶどうから作る蒸留酒)やビールを勧めていました。

何故、多くの観光客はエジプトに行くのにトルコにはあまり来ないのか?その訳が知りたいと訊ねます。答えて、ベテラ
ンの男性観光者たちは畳と床の間のある家で育ったので、絨毯はいらないが、若い日本人は板やタイルの床で生活す
る人が増えているので、絨毯の使用は増えると思う。エジプトと比べると、トルコの人は優しく食事も美味しいし、清潔好
きに思えるし、畑が良く耕されていると応えていました。
更に褒めて、カッパドキアはトルコのイメージにぴったりで、この地で絨毯の製作をしているのはとても良い。長い目で
見ると、この工房で多くの地元の若い女性が絨毯を織ることを学べる学校を兼ねたやり方は、やがて彼女たちが自立
して生きていける生計の道を与え、伝統の技術を伝えていくことも出来るので賛成だとの勇気づける言葉もありました。
周りで話のやりとりを聞いていた日本女性たちには、経営者の鶴の一声で、紅茶用の陶器のコップがプレゼントされま
した。
会話が行われている間もひっきりなしに、従業員たち(男性のセールスマン)がボスの前にやってきて跪いて、大部屋
の中で行われている絨毯の値引きの限界値段の決済を仰いでいるようでした。

多額のコマーシャル用のお金を賭けることなく、客の情報を得ている本物の経営者を見た思いがしました。





797  トルコ共和国の国旗新解釈論


第一次世界大戦終了(1918)まで約五百年に亘って、広い範囲に君臨したオスマン・トルコ帝国の旗には、緑色の布
地に3つの三日月が描かれていました。

緑はイスラム教では聖なる色であり、3つの三日月はそれぞれアジア、アフリカ、ヨーロッパ大陸を表わし、これらを支
配下に置いた心意気を示しています。
一方、第一次大戦終了時から新しく生まれたトルコ共和国の国旗は、赤色の布地に白ぬきで三日月と星が一つづつデ
ザインされています。赤は独立を勝ち取る為に流した血の色を、月はイスラムの印、星は独立を表わしているとされて
きました。
しかし、次のような新しい解釈をする人もいるそうです。
月は豊穣の女神クベラやアルテミスを意味していて、三日月の形はやがて大きく丸く成長する可能性を秘めていて、星
は手足を広げた人の姿だと考えています。
このアナトリア(アナドゥラ)の大地には、原始時代から続く自然の豊穣女神を信仰する流れがあり、その源流に戻ろう
とする意味が込められていると解釈するものです。
さて、あなたはどう思いますか?





798  アレキサンドリアの下町風景


賑やかな電車道と壁一つ隔てた遺跡の中では、古代ローマ時代の住居跡が発掘されています。

そこの小高くなった所には、1700年前に置かれたという花崗岩の柱が1本立っていて、人はポンペイウスの柱と呼んで
います。この場所で、ポンペイウス将軍がシーザーに負けて殺された(紀元前1世紀半ば)のだと言います。実際は、こ
の柱は3世紀のころ、町を襲った未曾有の食料危機の際、時のローマ皇帝が救ってくれたのを感謝して、市民が立て
たそうです。
周辺の遺跡では、深く掘り下げた土の穴の中で、青い作業服を着た遺跡作業員が列をつくって、地下から見つかった
大理石の破片を手渡しで、地上へと上げています。地上には、ローマ時代、金持ちの中庭を飾っていた手すりや支柱
(ポルティユ)として使われた手彫り模様のある大理石がポイと置かれていました。
7〜9月にかけてナイル河が増水する季節には、遠く千キロも上流のアスワンから切り出した花崗岩をナイル河を使っ
て運びました。壁の外では、名物の路面電車の通る音が心地よく響いていました、

バスの中から眺める大通りでは、路面電車の線路の上にも服などを売る行商人が商品を並べていて、電車やバスが
通る度に片付け、車が去れば再び商品を並べるといった、活気に満ちたものでした。パン屋の前は黒山の人だかり
で、大きなエジプト・パン1枚が5ピアストル(1円)で売られています。葬式も行われていましたが、その家では玄関あた
りを花などで綺麗に飾り、特別の説教が拡声器から流れていました。

狭い道を進むと、小学校の傍にローマ時代のカタコンベ(地下墓地)公園がありました。
その公園近くのアパートの最上階の4階では、左官やがレンガの壁の上から漆喰を塗っていたり、向かいのアパートで
も古くなった窓の付け替え工事が行われていて、観音開きの木製の隙目扉がはめ込まれていましたが、作業は周りの
レンガ壁を壊しつつやっていて、おおらかな仕事振りのようでした。

真に、風景は書物に勝る生きた書物の思いのしたひと時でした。





799  カイロ/アレキサンドリア間は列車に乗って


片道の1等車の料金は、25エジプト・ポンド(約1500円)でした。

片側に2席、そして通路を挟んで1席とゆったりした間取りでソフトシートです。車内での販売は、屈強な男性2人がワゴ
ンを押しながらやってきます。車窓から見るデルタ地帯の風景は、小麦の収穫(5月の終わりごろ)をしています。トラク
ターも時には見えますが、未だ牛や水牛、ロバが運搬の主役を担っています。
3〜4階建ての住宅の平らな屋上には、コーン型に土を固めた大きな塔があり、穴がたくさん開いていて棒が何本も突
き刺してある変わったものがありました。聞くと、鳩の巣だそうで、やがて売られて有名なエジプトの鳩料理の素材にな
るのだそうです。

車中で、退職した元会計士のエジプト男性と隣りあわせになり、話をしました。
子供が4人いて、息子の1人はアメリカに住み、娘が2人孫は4人、もう1人の息子がナイルデルタのとある町で被服製
造の会社をやっているので、今日はアドバイスを兼ねて訪ねて行くのだそうです。
家族の絆があって初めて生活に平和、安心、希望が生まれるのだと、アメリカに住む息子を訪ねた経験に基づいた話
をしていました。また、新技術にも挑戦しながら、伝統を大切に家族や会社の和を守り生きる日本も讃えていました。

エジプトの良さは砂漠にあるといい、砂以外何もない世界に行くと、人間の小ささ、無や無限、虚無や生きている喜びな
どを自然に肌で感じるそうです。砂漠は日頃の小さな不安を忘れ去ってくれます。ヨーロッパ人の中には、1週間砂漠だ
けにいる為にやってくる人もいるそうです。

途中駅で降りて行かれましたが、旅ならではの一期一会のひと時でした。





800  サンピエトロ大聖堂の玄関を守る2人の大帝と2人の偉大な宣教者


ローマは7つの丘からなっていて、7つの特別な巡礼教会があり、中世のころから盛んになってきた巡礼の旅人を受け
入れてきました。

中でも、バシリカ教会という名を冠された4つの教会には、その下を潜るだけで罪が許されるという免罪の扉壁があり、
周期的に開けられる聖なる年には、一段と巡礼者が多くやってきました。筆頭格のバシリカ教会はサンピエトロ大聖堂
であり、テベレ川を西へ渡り教会を正面に見る大通りにくると、キリストが大きく両手を広げて待ってくれているような印
象を与える、楕円状に巨大な4本の石柱が整然と何百と並び、広場を囲んでいます。
柱の屋根の上には、数多くの聖者たちが石像となって迎えてくれます。
大広場に立つと、前方の小高くなったバチカンの丘の上に荘厳なサンピエトロ教会の正面が目の中に映ります。屋上
にはキリストが12使徒を左右に従えて、信者を出迎えてくれているような石像があります。広場と大聖堂を結ぶ中央階
段の両翼には、キリスト教の広宣流布に最大の功績があったとされる、2人が立っています。剣を手にしたパウロと天
国に入る門の鍵を持ったペテロの石像です。

聖堂に入ると、横に長く広がるガラリア(回廊)となっていて、両翼の奥まった所に馬に乗った勇者の石像彫刻がありま
す。ローマ・カトリックキリスト教にとり、この騎馬の2人が果たした役割が大であったことを示しています。
コンスタンチヌス皇帝(4世紀前半)とシャルルマーニュ大帝(8〜9世紀)です。
今も石像となって、彼ら聖者たちは世界中からやってくる巡礼者に、安堵と幸福な地上の神の家にようこそお越しくださ
いましたと、信者を出迎える役目を務めているようです。







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