希望

776  夕食を昼食と間違えられた


エジプトのカイロで夕食を摂っていると、未だ昼食のデザートが出てくるので席を立たないでと、レストランのウェーター
が皆さんに注意を促しました。

時間は6時ちょっと前です。
確かに、少々早い夕食ではありました。午後の観光が終了して、ホテルに帰って小休止してから夕食にバスで出かけ
るのも悪くはありませんが、観光後そのままレストランに直行して夕食を済ませて、その後ホテルでゆっくり休息する日
程になっていました。
ホテルはギザ地区(3大ピラミッドのある所)にあり、レストランのあるカイロの中心からは、通常車で30分かかります。
慣れないエジプトの乾燥した強い日差しの中で、1日中動き回って疲れている私たちには、クーラーの効いたレストラン
で5時ごろから夕食を摂ることに,異議を唱える人はいませんでた。
生活習慣の違いからエジプト人のウェーターが、5時過ぎの食事を昼食を思ってサービスしていたのに気付き、日本人
全員(70人を超す)がその事に驚きの反応をしました。

ガイド氏が後でいうには、
エジプトでは通常、会社は8時半に始まり午後の2時半に終了します。朝食は仕事場で仕事をしながら9時半頃に摂
り、昼食は家に帰って4時ごろから食べるそうです。夕食は9時を回って10時ごろから始めるそうです。
そういえば、スペインやアジアの地域でも、このリズムに似ているなと思ったりしました。
またイスラム世界では、金曜日が休日となり銀行などを含む公官庁は土曜日も休みます。
日本では華金ですが、華木(はなもく?)とでもなるようで、木曜日の夜は遅くまで通りは人で賑わうそうです。





777  姑原爆と渡る世間は鬼ばかり



ギザ地区にあるホテルからカイロの中心へと高架道路を走っていくと、左右に見える建物の幾つかは2〜3階から上は
造りかけで放置してあり、レンガの壁が不揃いに露出しています。

ガイド氏(カイロ大学で、日本語を学んだ敬虔なイスラム教徒で30歳にもうじき届くという)が云うには、これは将来、息
子夫婦と一緒に住みたいと願う親が、やがて増築してあげようと考えてのことだそうです。
エジプトで、人気のドラマのタイトルは姑原爆とでも日本語に訳せる、嫁いできた嫁と姑の葛藤を取り上げたものだそう
です。
親戚一同が集まり、友人も大勢集まって数日に亘り祝い、金もうんとかかった結婚式や披露宴も、今では残念ながら離
婚に終わってしまうケースが増えているそうです。

この秋には結婚を控え、日本の動向にも詳しいガイド氏は、日本の人気テレビ番組'渡る世間は鬼ばかり'と同じですと
言って、私たちを笑いの煙で包んでくれました。





778  お祈りと食事の関係


イスラム教では、1日に5回お祈りをする大切なきまりがあります。

エジプトで案内してくれたガイド氏は、通常は1回目のお祈りは早朝の5時に起きて祈り、それが終わると再び寝るそう
です。2回目は日本人グループが昼食を摂る時間(1時ごろ)に合わせて、席を外して静かな所へ行き祈りを終えてか
ら、食事を急いでしていました。
3回目は本来であれば4時ごろするそうです。しかし、仕事中であれば後にずらしても良いことになっているので、そうし
ているそうです。家にいるときは、エジプト人の通常の昼食の始まる(4時ごろ)前にお祈りをするそうです。そして、4回
目は7時半ごろ、5回目は9時ごろします。1日の最後のお祈りを終えてから、夕食をいただくリズムのように聞こえまし
た。
お腹を満たしてからお祈りをするのでなく、お祈りをまず行い、その後食事を摂るという基本が守られているようです。

私達日本人の多くは、手を合わせて頂きますという言葉すら、今はあまり言わなくなってしまいました。





779  折りたたみ傘や折りたたみベッドのルーツは何処に?



カイロの国立考古学博物館は、1897年から1901年にかけて造られたそうです。

フランス人考古学者マリオットの貢献が大きく関わっていました。重厚な建造物の2階に、18歳で亡くなったツタンカーメ
ン王の墓から見つかった副葬品の数々が展示してあります。カイロから空路1時間南に向けて飛ぶと、ルクソールの地
に到着します。ナイル河を挟んで東側には神殿が、西岸の砂漠には王家の谷があります。この王家の谷の一角で、ひ
っそりと永遠の眠りについていた人の墓が、1922年英国人考古学者・カーターにより見つかりました。他の巨大なファラ
オ達の地下墳墓と比べると、如何にもツタンカーメンの墓は小さいものでしたし、父であったアメンホテップ3世の行った
首都遷都や宗教改革運動(後にアマルナ芸術と呼ばれ高く評価された)は、既得権力を妨害された高級官僚や神官た
ちの激怒をかったと考えられ、その息子の地位は不安定だったことが想像されます。

このファラオの墓は、他と違って盗掘されることなく副葬品と共にミイラは八重にガードされて見つかりました。外から内
へと順を追って見ると、底板のない4つの厨子(木箱の表面は模様の施された金板が貼り付けてある)が囲い、さらにそ
の中に3つのお棺(ファラオの姿をかたちどった金板で出来ている)が被さって入っていて、最後は布で巻かれたツタン
カーメンのミイラが入れてあり、顔は黄金の仮面が守っていました。
発掘調査の終了した今は、王自身(ミイラ)は金のファラオ姿のお棺の一つに納まって、王家の谷で見つかった所へ返
され、静かに再び眠っています。

副葬品の数々が博物館の2階には,7重(8引く1)のガードと共に展示されていますが、驚いたのは、当時から(3500年
前)折りたたみ傘や折りたたみベッドがあったことでした。
何れも金が張られて素晴らしい装飾の入ったもので、職人の技術レベルの高さに脱帽しました。
夕方、3大ピラミッド近くのギザ地区にあるホテルに帰り、部屋のバルコニーからふと庭を見て感動を新たにすることに
なりました。
ヤシの木は多種類ありますが、何と庭に植えられているヤシの葉は真ん中で折れていて、下に垂れているではありま
せんか?若しかしたら、このヤシの姿にヒントを得て、折りたたみ傘や折りたたみベッドはつくられたのではなかったの
でしょうか?





780  夜の街は何処も怖い話3題


独身だったころ、クリスマスのジングベルの音楽が町に流れる中、渋谷の井の頭線のガード下近くの'黒い瞳'という名
のキャバレーに入ったことがあります。

遠く離れた舞台では、何かが演じられていたように思います。席に座ると、ビール1本とおつまみが出され、ホステスが
私の隣に5分ほどいました。場違いな所だと感じ会計を頼むと、1万円だと言われ、高すぎると云ったところ、店の外へ
引っ張り出されて4〜5人の店員に取り巻かれ、先ずは言葉で罵倒され、次は顔を殴られ、財布から1万円抜き取ら
れ,また来いよ!と軽くあしらわれて次第でした。通りを行き交う人たちに警察を呼んでくれと、助けを求めたのですが
誰も応じてはくれませんでした。本当に目の周りが痣で黒い瞳になってしまいました。きっとヤクザが経営していた店だ
ったのでしょう。1973年の年の暮れでした。

パリのモンマルトル界隈は、有名なムーランルージュ(赤い風車)キャバレー(日本のそれとは違う、最高級のショーを
見せる1889年創業の社交場)がありますが、基本的にはいかがわしい所がたくさんあります。そんな所を旅の参加者
3人(いずれも社長業をしておられた)と連れ立って散歩していました。ナイトクラブの前で客の呼び込みをしている男
が、僅か5フラン(百円程度)でショーを見せるので入れと誘います。男性3人は入ってみようと言いましたが、私は明ら
かにおかしいので止しましょうと強く言いましたが、結局入ってしまいました。
中は暗く客は私たちだけでしたが、席に座ると頼みもしないのに栓の抜かれたシャンペンが2〜3本出され、ステージで
は1〜2人の女性が踊り始めました。直ぐに騙されたことに気付き、会計を頼むと30万円相当を請求されました。マネ
ージャーを呼びつけ、理由を正して警察に訴えると脅した積もりでした。しかし、彼が言うには、夢を抱いて東京に行っ
たことがあるが、赤坂あたりを歩いていたら客の呼び込みに誘われて、ついつい入ってしまったバーでぼられた経験が
あるそうです。自分たちのしている商売も良くはないが、日本にも同業の人がいたし、こういう場所での酒の値段は警
察に言っても取り合ってくれないと言います。
残された道は、安く値切る以外にありませんから、頼み込んで10万円で決着しました。
社長さん方の懐が豊かだったとはいえ、高い授業料でした。

次は、ローマの夜の社交場と云われるベネト通りに面したホテルに泊まったことがあります。参加者の皆さんには、こ
の界隈は危険で、特に呼び込みなどの甘い言葉の誘いには乗らないように注意をしっかりしました。
夜11時過ぎ、たまたまロビーに下りて行きますと、お客の1人が屈強なイタリア人男性にガード(?)されて、外から帰
ってこられました。不審に思い尋ねた所、誘いに乗ってバーで飲んだが金が足らず、付馬(借金取り)がホテルまでつい
てきたそうです。

甘い話には、皆さん騙されてはいけませんよ!
もっとも失敗こそ、甘酸っぱい思い出として、何時までも記憶に残るそうで、うまくいったことは大体忘れてしまいがちで
すが…。








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