希望


771  6千キロの大河は感動に満ちている



南米大陸を横断して流れるアマゾン河のジャングルは、エネルギーの源である酸素を大量に生産しています。

地球に住む淡水魚の1/3は、この河に住んでいるそうです。以前、中流にある町マナウスで一日船に乗って遊覧した
ことや、ペルーのマチュピチュ遺跡の麓を流れていた濁流が、やがて上流のアマゾン河へと注ぎ込むと聞いたのを思
い出しました。

アメリカ中西部を、北から南へと流れているのがミシシッピー河です。
ミズリー河と合わせて、米国の穀倉地帯を形成しています。3代大統領トーマス・ジェファーソンの夢は、この大西部を
千年かけて開拓することでしたが、先住民を蹴散らしながらフロンティアー精神(欲)で僅か百年でフロンティアー(未開
の地)はなくなりました。
ミシシッピー河の中流には、メンフィスという名の町があります。勿論、エジプトのナイル河のそばにある古都メンフィス
にちなんでつけられたのですが、ガラスで出来たピラミッド(イベント会場として使っていた?)も本家に真似して河のそ
ばにありました。この町には、エルビス・プレスリーの家とかキング牧師が暗殺されたモーテルなどもありました。
メキシコ湾近くの河口の町、ニューオリンズには大きな水車を回転しながら水上を走る蒸気船に乗ったり、欲望という
名の市街電車にも乗りました。

そして、エジプトの賜物であるナイル河です。
第一カタラクト(岩が露出していて船の航行に支障がある所)の傍の町、アスワンにはヌビア人が多く住んでいますが、
彼らが残した遺跡から発掘したものを集めた博物館を見学したり、ファルーカ(帆掛け舟)の上でダンスをしました。
地中海に面してナイル河のデルタにできたアレキサンドリアの町は、2300年前にアレキサンダー大王の命令によってつ
くられました。ファルス大灯台や図書館伝説は、以来語り継がれてきました。地中海の涼しい風が涼を与えてくれるモ
ダンな現在の港町は、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの接点として脈々と生き続けています。
東京が家康により都となったのは4百年前です。海の傍の大都会同士ですが、行司の軍配は古都アレキサンドリアに
上がるのではないでしょうか?





772  エジプト航空はシルクロードの上空を飛んでいく



東京/カイロ便は日本海の上空を飛び、中国の北京、ゴビ砂漠とチベット高原の間を抜け、タクラマカン砂漠の北に横
たわる天山山脈から元ソ連領だった中央アジアの国々の上を行きます。

やがてカスピ海を横切り,黒海の南に広がる剽悍な山岳民族がしのぎを削った山脈群を下に見て、シリアの北、トルコ
の南東、レバノンの北あたりを通り地中海へと出てから方向を南にとり、キプロス島の横を通過してナイル河口のデル
タ地帯に入りデルタ扇の要にあたるカイロまでの飛行経路は、空のシルクロードと呼ぶのが相応しい1万キロ、14時間
の旅でした。
古の人々(商人や信仰者、軍隊や難民など)が、歩いてあるいはラクダや馬の背に乗って揺られながら行き交った道を
眼下に想像する時、少々の飛行機の揺れは気分を砂漠やオアシスへと誘います。
機内でスチュワードにエジプトの国の名の由来を尋ねると、英国が勝手にそう呼ぶだけでエジプト人はそうは云わず、ミ
スルが国名だと応えました。
更に、エジプト料理はヘビーなので、食後は寝るのが一番だそうです。それに引き換え、日本食は健康食(胃にもたれ
ない)だと言います。機内ではアルコール類のサービスはありません(イスラム教では、アルコールは体を害する飲み物
と考えられ禁じられている)が、客が持ち込んで飲むのは構わない,おおらかな対応をしていて自分たちの信条を強制
はしません。
また、機内のオーディオ・チャンネル5では、静かな権威に満ちた独特の節回しで、コーランの朗詠が流れていました。
国名については日本という名は、唐の都・長安に留学した8世紀の日本人留学生の墓碑に、使われていたことが分って
います。英語名のジャパンは、黄金の国・ジパングと呼んだ13世紀のマルコ・ポーロ以来定着したようです。

一方、ミスル(エジプト)は、7世紀にイスラム教を奉じるアラブ人の侵入以来、ミスル(元々はアラブ人の軍事要塞を主
にした町)をつくったのが国名になっていったようです。





773  '目は聞き、耳は見る'アラビア文字



アラブ地域には、もともと文字がありましたが、何といってもイスラム教の勃興と共に芸術家や作家、書道家などがアラ
ビア文字で書かれたコーラン(イスラム教の聖典)にインスピレーションを得て、モスクの飾りにも装飾文字を考案して
広く普及しました。

アラビア文字の土台にはドット(点)のないクーフィー文字があるそうですが、点は後に発音やポーズ(小休止)のために
生まれ、韻をふんで朗詠するのに大いに役立ち使われるようになりました。
ペルシャやインド、トルコや中国、バルカン半島やモロッコ、スペイン、エチオピア、サハラ砂漠の南へと広がっていきま
したが、コーランは他の言葉に訳してはいけないそうです。キリスト教や仏教と大いに異なる所となっています。
そして、神(アラーと呼ぶ)の語ったアラビア語は、多くのアラビア文字スタイルを生み出し、あたかも目で感じる音楽と
いった文字へと発展しました。





774  オールド・カイロには聖家族が隠れ住んだ所が



アラブ人がイスラム教をエジプトに伝える(7世紀半ば)前に、カイロには町がありました。

今は、オールドカイロと呼ばれていて、ナイル河に近いカイロの南に位置しています。
ここは今も、多くのコプト教徒が生活しています。イエスの教えが弟子たちの伝道により、ローマ世界に広まっていきま
すが、その頃の姿を色濃く残していると云われ、エジプト総人口(7千万人)の1割がコプト教徒だそうです。
イスラム教徒との関係は良好だそうで、ガイド氏(敬虔なイスラム教の青年)によると、友人の多くはコプト教徒であり、
イエスはマホメット同様、アラー(神)が地上に使わした預言者であり、イエスの母マリアも穢れなき清い女性であり、尊
敬しているそうです。
ただ一点、キリスト教がイエスは神の一人子とか、神と同一人物と考えることだけは受け入れられないそうです。

オールドカイロの一角でバスを降り歩いて行くと、やがて階段があり壁に聖家族が、隠れ住んだと伝えらる聖セルギウ
ス教会があると書かれた、看板が掛かっていました。
5メートルほど下って行くと、そこは2千年前から町だったかと思われる空間でした。
道の両側には店が立ち、観光客や巡礼者を相手に生活する(バスを降りて、しばらく歩いた地上の店と同様)人たちが
いました。この歴史ある地区には、5つのコプト教会が残っているそうです。聖家族(イエスと父のヨーセフ、母のマリア)
が郷土イスラエルでの幼子殺害の難を逃れてエジプトに非難した聖書の話がありますが、ここに隠れ住んだといわれ
ています。
今は、聖家族が住んでいた所の上に,聖セルギウス教会が建っていて、教会の地下室(クリプト)がその場所だそうで、
上から覗けるようになっています。
セルギウスその人は、紀元後3世紀に殉教したシリア人だそうで、現在の教会は8世紀に再建したとの説明でした。
バシリカ様式(長方形の周囲を柱が取り囲む)の教会は12本の柱で支えられていて、説教壇は10本の小さな柱の上に
乗っていました。
12本はイエスの12人の弟子を、10本はモーゼの10戒をを意味しているのだそうで、天井が舟形づくりになったいるの
はノアの箱舟をイメージしているそうです。
モーゼがナイル河で沐浴にきていたファラオの娘(妻という説もある)に拾われ、育てられたエピソードが聖書にはあり
ますが、その拾われた場所もオールドカイロの何処かだろうという人もいるそうです。
それにしても、エジプトは'ナイルの賜物'と言われますが、定期的に増水するナイル河を早くから治水する知恵を生み
出し、豊かな土壌へとつくり変え農業生産を増進させましたが、きっと多くの外国人や難民の労働力を必要として受け
入れる土壌があったからこそ、聖書物語に数多くエジプトが登場したのでしょう。





775  喜捨の心でトイレが無料に



有名なギザの大スフィンクスは、長さ75米高さ20米もあり、石灰岩の石を使って4450年ほど前につくられました。

顔はカフラー王、体はライオンが腹を地につけて座っている姿で、元々は着色されていたそうです。一番の弱点は首の
部分が弱いことと、美男顔の鼻が欠けています。歴史の中で、偶像崇拝を厳しく諌めるイスラム教徒に、かなり破壊さ
れる憂き目にあったそうですし、自然による風化も強く作用しました。何度も修理した結果、今の姿を留めているそうで
す。
夜は、音と光のショーが三大ピラミッドとスフィンクスを中心に繰り広げられますが、スフィンクスの前のテラスが観客席
となり人で一杯になります。飲み物などをサービスするカウンターの下には、トイレがあります。
このスフィンクスのそばのトイレは、1ポンド(20円ほど)と他のトイレより倍となっていました。あいにくとポンドを持ち合
わせず、ポケットの布地の底を手でつまみ出しながらトイレ番青年に見せますと、笑顔で通してくれました。

イスラムの教えでは、恵まれない人を見たら自分の持ち物を分け与える喜捨の精神(サガード)を大切にしているそうで
す。日本からきた貧しい私を見て、心広く暖かくもてなししてくれたイスラムの教えに感謝しました。







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