希望

756  イエスが年に3度、聖地エルサレムに詣でた3つの大きな祭りとは



全てのユダヤ教徒の男子が、この時ばかりはエルサレムの神殿に詣でたので、巡礼の祭りともいいました。

まずは無酵母パン祭りです。
パン種を入れないパン(苦悩のパン)のみを,この時期に食べました。大急ぎでエジプトの地をモーゼに率いられて出
た(出エジプト)ことを忘れない為に、時間さえあればパン種の入った膨らんだ美味しいパンが食べられるのに,あえて
薄っぺらいパンを食します。
ニサン月の15日に始まり21日まで続きます。ニサン月は春分の日前後の新月から始まりました。14日は過ぎ越しの祭
りで、満月にあたります。
この日は、子羊を屠って家族ごとに内輪で祝ったようです。エジプトに住んでいたユダヤ教徒の家の入り口に、子羊の
血を塗ったお陰で子供たちの命が助かり、無事にエジプトを出られたことを感謝します。
イエスが弟子と共に食した最後の晩餐は、正にこれにあたります。

ニサンの16日には、収穫した大麦の初穂を神殿に奉納しました。この日を期にして大麦の刈入れが始まりました。丁
度この日に、2日前(ニサンの14日)の夕刻にゴルゴダの丘で、息を引き取ったイエスが墓から蘇ったとされ、一般に後
日、復活祭(イースター)として広くキリスト教世界で祝われるようになりました。

次は、七週の祭りです。
ペンテコステ(50日)とも呼ばれ、ニサンの月の始まりから数えて七週目の終わりにあたります。それは大麦の刈入れ
が終わり、今度は小麦の収穫の始まりと重なっています。
また、刈り残した大麦や小麦の穂は、寡婦や孤児、異邦人のために、そのままにしておくなどの取決めもありました。

最後は、仮小屋(幕屋)、もしくは取入れの祭りと呼ばれます。
ニサンの月から数えて7番目の月(ユタニム)の15〜21日にかけて、祝われました。
穀物、油、ぶどう酒を含む大地の実りの取入れを祝うものでした。

無酵母パンとペンテコステの祭りは春に祝われ、秋には幕屋の祭りがありました。
これらの祭りでは、皆で大いに喜び楽しんだようです。また、農耕と深く結びついた祭りであったことを証しているようで
す。







757  新年を祝うとは



紀元前2千年代のバビロンでは、3月の半ば頃、11日間続く新年の行事を行いました。

それはマルドゥク神が、新しい年の国の運命を決める力を持っていると信じられ、行列したり犠牲を捧げたりして豊穣
を祈りました。
古代ローマ人も長い間、3月を新年の始まりとしていました。
しかし、紀元前46年にジュリアス・シーザーが、1月1日(太陽暦)を新年の初めと定めました。元々この日は、後頭部に
も顔を持つヤス神の日とされていました。家の門や戸口の守護神であり、ものごとの始まりの神として、大切にされてい
ました。カーニバル性(異教の迷信を帯びた)を持った騒々しい新年の祝い方が入ってくることになりました。

今でも、南米では右足だけで立って新年を祝う所もあるそうですし、爆竹を鳴らしたりラッパを吹いたりする所もあるそう
です。
チェコでは、大晦日にはレンズ豆のスープを食べ、隣のスロバキアでは、テーブル掛けの下にお金や魚のうろこを忍ば
したりするそうです。
日本でも、長い間新しい年を迎えるにあたっては、家の大掃除をして家の門、戸口に門松を立てたり、健康長寿を願う
おせち料理を作り、近所や親戚、友人の方々を迎えたり、挨拶に出向いたりしました。
神社や寺に詣でて、新年の願い事もしてきました。

何処も悪運や邪気を払い、繁栄を願い、年がわりがその運命を決めるという古い信仰から始まっているようです。







758  四月半ばの我が家のまわりには



山形県の田舎に育った添乗員仲間の友人が、東京から自家用車で高速道路に乗り、千葉県の我が家へ20年ほど前
に訪ねてくれたことがありました。

高速道路の出口近くまで自転車で迎えに行き、20分あまりをかけて我が家に先導しました。
そして、開口一番彼の発した言葉は、'山形にだって、こんな田舎はない'でした。
20年経った今も、彼の見た風景とさして変わりません。小川の辺や雑木林、畑の傍を歩きますと、ツクシが終わり、そ
の跡には勢いよくスギナが生え出しています。ツクシとスギナは茎が同じで繋がっていると聞いています。あるいは、ツ
クシの胞子が風で散って落ちた所からスギナが出てくるのかも知れません。
桜の花が散ったあとには、緑の葉があっという間に取って代わりました。梅の実が生りだしています。何年か前、この
小梅を皆で取りましたが、そのときに漬けた梅干は食べごろになっています。
黄色のタンポポ、紫の花大根やスミレがあぜ道を彩っていますが、畑では耕耘機が土起こしを始めています。裏山で
は、タケノコやタラの若芽が顔を出しています。
雑木の中では、ホトトギスがチョットコイ、チョットコイ、鶯はホケキョ、四十雀がチュピチュピ、ひよどりはキーキーと鳴
き、ベターハーフ(伴侶)をしきりに求めているようです。鶉(うずら)や狸(たぬき)もいるようです。
大きな柏の木の根元近くの皮のめくれた辺りに、カブト虫の赤ちゃんが群れをなして、樹液を吸いながら日光浴を楽し
んでいます。

そして、何よりも春の訪れを一番喜んでいるのは、踏まれても踏まれても刈られても除草剤をまかれても、へこたれな
いで再び勢いよく盛り返す雑草です。







759  帝国支配用の道は両刃の刃



古代ペルシャ帝国では、パラサングという単位(約5キロメートル)の距離表を使い、4パラサングごとに駅や宿があり,
州境や川の渡しには要塞を築き、兵や伝達人が配されていました。

'鶴よりも敏捷に'という言葉通り、伝達人が公道を行き来していましたし、狼煙信号も使われていました。地方総督(サト
ラップ)を監視する為に、王の目、王の耳と称された査察官を派遣したり、軍隊スパイも頻繁に通ったことでしょう。
こういった公道は、ローマ帝国でもアラブ・カリフ朝でも蓁やインカ帝国でも同様でした。

インカ帝国では、南北を貫く石畳の公道が2本走っていました。
ひとつはアンデス山中、もう一つは太平洋沿岸に沿っていましたし、この2つの公道を連絡する東西の道も幾つもあり
ました。
帝国の都(クスコ)とキント(現在のエクアドルの首都)は1600キロありますが、10日間でメッセージが届いたといいま
す。
しかし、これら帝国の道は、逆に次なる支配者が容易に侵入する助けにもなりました、

ヴァンダル族(ゲルマン族の1氏族)は、406年にライン河を渡り3年後にはスペインに到達し、さらに北アフリカのカル
タゴには24年後に行っています。
アラブ民族は、イスラム教を奉じながら故郷アラビアの地を出て、6年後にはエジプトへ、64年後にはカルタゴ、そして
99年後にはフランスのロワール河にやってきました。

アステカ・インカ帝国の公道は、コルテス・ペサロに利用され、キリスト教・イスラム教の広がりはローマやペルシャ帝国
の道が使われ、ペルシャ帝国はバビロニアやヒッタイト、アッシリア帝国が築いた道を駆け抜けてつくられました。

日本では徳川支配体制下、5街道がありましたが、川にあえて橋を架けなかったり、道を広げたりしなかったそうです。
剣道、茶道、香道、柔道、人の道などと哲学めいた奥が深く究めにくい印象を与える、道への姿勢でしたが、東京オリ
ンピックを期に高速道路が地方の利権も絡んで、多くつくられました。

さて、日本の行く末は?







760  言葉にみる支配者の控えめな対応


古代ローマ人は、広く地中海世界に話されていたギリシャ語と自分たちの言語ラテン語を併用して、政治を行いまし
た。

大英帝国の支配下にあったインドにおいても、英語のほか古いサンスクリット語に源を持つヒンダスタン語と回教徒の
話すウルドゥ語を認めていました。有名なベヒスタン碑文は、アケメネス朝ペルシャ統治下、ダリウス1世時代(紀元前6
世紀)のものですが、アッカド語、エラム語、メド・ペルシャ語で書かれています。バビロン(メソポタミア地方)に住む人
達の話すアッカド語、スサの人にはエラム語、エクバターナの人にはメド・ペルシャ語でメッセージを伝えています。
公文書の刻印にまで3つの支配下の言葉が併記してあるほどです。

インドによく旅行したころ(1970年代)、紙幣(ルピー札)にインドで使われている主要な言語(15〜16)で、何ルピー札で
あるかを列記してあると教えられ、びっくりしたのを思い出します。
ブッダの教えに共感したアショカ王(紀元前4世紀)は、ブラミー語とカローシティ語を使い、仏教を広めたので庶民の間
に浸透しました。
インカ帝国で広く話されていたキチュアン語を利用して、カトリック・キリスト教を広めたのが、スペインからやってきた征
服者や宣教師でした。
モンゴル帝国下でも、中国では中国語、イラン・イラクではペルシャ語、中央アジアではトルコ語という風に臨機応変に
対応して支配しています。

日本の中国や朝鮮との関係がギクシャクしている今日このごろですが、原因の一つに日本が支配した時代(20世紀前
半)に、日本語や神社参拝を強制したことへの怒りがあるように思えるのですが…。








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