希望

746  牧師の子であったリンネ



世界に広く分布するどんな植物にも名前がついています。

その名前は、二つのラテン語で書かれていて植物園などに行くと、名前を記した木切れが土の上から出ていたり、枝に
吊るしてあったりします。
スエーデンに生まれ、18世紀に生きた人、リンネは正に啓蒙合理主義運動(エンライトメント・ムーブメント)の盛んであ
った時代の申し子と言える人でした、
神がつくられた生物を系統だてて分類して、神の財産目録をつくろうとして、二名法(属と種)を考えました。つまり属は
ラテン語の植物名をいい、種はその植物の特長をラテン語で表しています。
例えば、Rosa alba と書いてあれば、バラ属の白い種となります。
この花は、きっと白い花を咲かすバラだと誰にも分かります。
分類して系統立てて統合する試みは、地球に住む生きもの(植物、動物、鉱物に至るまで)全てにされています。

訪れたストックホルムの公園の中に、アデレード(南オーストラリア州)の市立公園の中で、エルチェ(南スペイン)の市
民公園にリンネの業績を讃えて、銅像が立っていたのを思い出します。







747  大量殺人兵器を持てば、戦争はなくなる!?



氷河が削っていった固い岩盤が地上に多く露出しているスエーデンですが、会社経営者であり化学者でもあったアルフ
レッド・ノーベルは、生活向上のため(トンネルを掘ったり、土地や道の整備など)ダイママイトを発明しました。

1896年に亡くなりましたが、遺言の中で900万ドルの遺産を物理、化学、医学、文学そして平和に貢献した人達を讃え
るために使って欲しいと述べていました、
ノーベル個人は、ダイナマイトのような大量殺人兵器にもなるような物を持てば、戦争の歯止めに役立ち、戦争は無くな
ると思っていたようです。
ノーベルの死から20年も経ずして第一次世界大戦(1914〜1918)が勃発しました。
機関銃、毒ガス、戦車、飛行機、潜水艦などが初めて使用され、1千万人もの人が死んでしまいました。
今は、核兵器、細菌兵器など瞬時に地球すら滅ぼしかねない時代になりました。






748  3回の航海は3回とも3年近くかけて



大航海時代(15世紀〜18世紀)の仕上げは、英国のキャプテン・クック(1728〜1779)によって成されたと言われま
す。

39歳という比較的高年齢で、最初の航海に出ました。冷静な判断力と航海中に頻繁に起る病気への対策も怠らず行
い、部下からの厚い信頼を得ました。3回の航海がそれぞれ目的を持ったものでした。

1回目の航海の目的は、金星が地球と太陽との間を通過する(1769年6月3日)のを観察して、太陽系の大きさを知
ることでした。その観察の場所として選ばれたのが、2年ほど前に見つかったばかりのタヒチ島でした。実はもう一つ秘
されたミッションがあり、それは南半球に未だ知られていない大陸を見つけ出すことでした。北半球とのバランスを考え
てみて、きっと南半球には大きな大陸があるはずと考えたようです。
1768年8月26日に366トンのエンデバー(努力)号に94人乗って出航しました。
12月にはリオデジャネイロ、1769年1月に南アメリカ大陸のホーン岬を通過します。
4月にタヒチ島に到着,金星の観察を終えてから7月にタヒチ島を離れて、10月にはニュージーランドの北島に達しま
した。そこで出会った先住民族のマオリの人達は、戦闘好きですが裏切り行為を嫌い信義を重んじました。年が明けて
19770年4月19日には、オーストラリア大陸を初めて目にしました。グレートバリア・リーフを含む東海岸の地図を作
りました。10月にオランダ領ジャワ島のバタビアに到着します。そして、1771年7月13日に航海を終えてロンドンへ
帰りました。
南海への探検の結果、南半球には未発見の大陸はないと考えられましたが、再び2回目の探検の船旅が行われま
す。

2回目は1772年6月に2つの船、リソリューション(決意)号(462トンでジョージ・バンクーバーが船長)とアドベンチャ
ー(冒険)号366トンで東回りでアフリカ最南端喜望峰を周り、南極圏限界線(66度32分)を越え67度15分まで突き
進みましたが、氷山に当ってそこから先へは進めませんでした。その後、タヒチ島へと向かいトンガ島を経て所でアドベ
ンチャー号を見失いますが、ニュージーランドへ着きました。そして再度、1773年12月に南極点から1300マイル(約
2千キロ)の地点まで接近しましたが、諦めざるを得ませんでした。ギリシャ神話に登場するキマイラに未知の南極大陸
を譬えています。
'ライオンの頭、羊の体、竜の尾を持った火を吹く怪物を追っているようなものだ'と。
その後、北へと向かい、イースター島やホーン岬を経て、1775年に英国に帰りました。

キャプテン(大佐)に昇格したクック船長は、太平洋と大西洋を繋ぐ航海可能な北西ルートを捜す使命を帯びて、3回目
の最後の航海に出ます。
リソリューション号とディスカバリー(発見)号298トンで1776年7月にプリマス港から出航して、東回りで1777年1月
にタスマニアを通り、トンガやタヒチ、そして北アメリカ海岸へと向かいました。
1778年1月に偶然、ハワイ諸島を見つけます。3月にバンクーバー島の西隣のノートカ海峡を通り、6〜7月にかけて
アラスカ沿岸へ向けて北上しました。プリンス・ウィリアム海峡、アリューシャン列島から8月にはべーリング海峡、ウナ
ラスカ島ではロシアの毛皮貿易商人に会いました。そして、運命のハワイ島へ到着します。
ケアラケクア湾に停泊します。原住民のカナカ人は、マラヒキの祭り(収穫の祝い)の最中で、ロノ神(雨、農業、許し、
癒しをもたらす)を讃えて祝うのですが、神の印(十字の棒に木の皮を張ったもの)が帆に似ているところから、クック船
長をロノ神と勘違いしたのかも知れません。上陸してきたクック船長の前にひれ伏して、供え物をさし出しました。英国
人たちは理解できず出航しますが、嵐に会い引返しました。しかし、関係が悪化して小舟が盗まれてしまいます。177
9年2月14日小舟を取り戻す為に上陸しますが、争いとなりクック船長と他に4人が犠牲になりました。

以前、オーストラリアのメルボルンに行った時、キャプテン・クック コテッジ(クック船長の家)に行きました。石とレンガ
造りの建物でしたが、メルボルンの町が出来て百年の節目の行事の一環で、英国のヨークシャー州にあった両親の家
を持ってきたということでした。

ロンドンの大英博物館の中にも、クック船長と航海した人達が収集したものや、当時の様子を語るデッサンが残されて
います。






749  エジプトのミイラのつくり方



古くは乾燥した砂漠の中に、死者をそのまま埋めていました。

そうすることで水分が抜けていき、原型に近い形で体が残ることを知っていたのでしょう。
ロンドンの大英博物館内に紀元前5千年と推定されるミイラ(ジンジャーと呼ばれる男性)がありますが、彼はそうして
出来た例といえます。

王朝の始まる直前(紀元前3100年ごろ)になると、高貴な人の埋葬は砂と接しない埋葬室あるいは埋葬官に入れるよ
うになりました。
古王国第4王朝の初め(紀元前2600年ごろ)には、内臓を取り去る処理を始めました。
その後、古王国,中王国時代(紀元前27世紀〜紀元前18世紀)にかけて、いろいろの試みがされました。
そして、新王国時代(紀元前1567年〜紀元前1085年)になると、70日かけてミイラをつくるやり方が完成しました。
まず最初に脳みそと内臓を除きます。心臓はそのままにして残します。次に、40日ほどかけて天然炭酸ソーダを使っ
て、丁寧に脱水処理をしました。天然炭酸ソーダには,炭酸ナトリウムや重炭酸ナトリウム、硫酸ナトリウムと塩化物が
含まれています。
そして、膏薬、スパイス、樹脂を使って仕上げの処理をしてから、宝石や魔よけと共に包帯で包みました。
一方防腐処理した臓腑は、4つのカノープスの壺に入れました。
最後は埋葬ですが、ミイラは木か石の官に入れて墓の中に置きました。
新王国以降から、パピルスを使い、200に及ぶ呪文(まじない)が書かれ,黄泉の世界の危険を無事通り抜け次の世
界へと行けるように願いました。黄泉の世界では、死者の裁判が行われますが、42人の裁判神の前でそれぞれの質
問に対して答えなければなりません。計量器の皿の上に載せられた死者の心臓は、もう一方の皿に載せられた真実
(オステリッツの羽)に比べて測られ、生前の行いが正か否か判定されました。
ます。
判定をするのは、アヌビス(ジャッカルの神)、記録に書き留めるのはトト(イビスの頭を持った神)で、傍には怖いアミッ
ト(ワニとカバとライオンの神)が邪まな心臓を食べようと待ち構えています。

ミイラをつくったのは、生への深い愛、喜びであって、生前の体を保存することで、不死を願い死の虜から放たれようと
したことによります。







750  'アンティークのテーブルですね'と褒められた、ついでに言うと



5年ほど前に友人がやってきて、新しいディナー・テーブルセットを購入するので、古くなり要らなくなったシンプルなデザ
イン(オーダーメイドでつくったそうです)の大小二つのテーブルを貰いました。

安普請で雑木の茂る林の中に建てて20年になる我が家は、人呼んで'レトロの家'だそうで、建て付けも不十分で、冬に
灯油の暖房用ヒーターを点けても、中々部屋は暖まりません。夏は夏でエアーコンはありませんから、家中の窓や障子
を開けて風を通す生活です。
例えプロパンガスのガス漏れがあっても、この家は安全でしょう。
ニュージーランド人の40代の夫妻が、2週間我が家に寝泊りしましたが、我が家の2槽式の洗濯機を見て、'過ってニュ
ージーランドにも、こういうタイプのものがありました'と言いました。
家の前に広がる畑や裏の雑木林には、濡れ羽色の大ガラスがたくさんいます。町の掃除人として評価の高かったカラ
ス君ですが繁殖し過ぎたのか、こんな田舎にまで大挙してやっつてきている昨今です。
聖書の中では、レーブン(渡りカラス)は、ノアの箱舟から最初に水が引いたかどうか見る為に放たれましたし、荒野の
中で一人暮らしするエリアの許に神の言いつけ通り、食料を運びました。ロンドンのテームズ河の辺にあるロンドン塔
には、わざわざ羽の筋を切られたレーブンたちが、冷暖房付きの小屋で飼われています。レーブンがロンドン塔からい
なくなると、大英帝国が滅びると言う言い伝えがあるそうです。
また日本神話にも神武天皇が、やたガラスを道案内にして紀州から大和へと向かう話があり、全日本サッカーチーム
のユニホームにこのカラスが描かれています。真っ黒い色の巨大化したカラスを見た客人は、ニュージーランドにはこ
んな鳥はいないと言い放ちました。
汲み取り式の便所に、飲料水は地下水をくみ上げ、排水は浸透式で地下にしみ込ませるはずでつくりましたが、用を
成さないので水管の溜め場の蓋を開け、下水を長柄杓で汲み取り裏山へ捨てています。

ここまでくると、開き直って鶴田浩二の'古い奴だとお笑いでしょうが、'のセリフでも口ずさみたくなる心境です。








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