希望


741  貸本の出前サービスもあった江戸の町



両国国技館の裏手に異形のコンクリートビルがあり、4つの足で支えられた空中に江戸東京博物館があります。

2週間の休暇をとってやってきた、赤道を挟んで丁度反対側にある、気候も国の大きさも似ているニュージーランドから
の中年夫婦を案内して、東京駅と皇居見学は1週間前に済ませていました。また2人だけで、新幹線に乗り京都へ3日
ほど行った際、幸いにも天皇一家が長い間住んでいた京の都の御所の中も見れたそうです。
そして、今日は男だけでエレクトリック・タウンに行き、カメラのレンズやコンピューターのメモリーを買って千葉に帰る途
中、両国駅で降りて博物館にやってきました。

館内ではボランティアのガイドサービスがありました。友人の為にお願いすると、中年のチャーミングな日本女性が英
語で2時間ほど案内してくださり、期待を遥かに超えたものとなりました。
16世紀末から19世紀の半ば過ぎまで徳川将軍が居住する町として、江戸は機能しました。
江戸の町の中心は、現在の皇居が将軍の住んでいた江戸城だったことを、地図や模型で説明して下さったことで、日
本という国が天皇を戴いて営まれたことが、京都の御所とその後移り住むことになった東京の皇居の両方を見た友人
には良く理解できたようでした。

案内の中で特に感じた幾つかの江戸の町の特徴を述べてみます。
湿地の多い江戸湾へと注ぐ川沿いに運河を巡らせ土地を乾かして、大消費都市をゼロから人工的につくったので、江
戸初期から中期にかけては建設に携わる職人を必要とし、男性が異常に多かった町でした。やっと後期に至り、1対1
の男女比率になったそうです。
火事が多発した町でした。喧嘩と火事は江戸の華と云われ、民間の火消し組と大名の消防組織がありました。人口は
庶民が50万、武士とその家族が50万でした。
町火消しは、普段は建築現場で建物を建てる作業に従事し、火事の際は火消しと云っても多くは火の広がりを防ぐの
が主で、その為に未だ燃えていない建物を壊して回ったそうです。
裕福な家では、火事にも耐える蔵を建て大事なものは仕舞って置いたそうで、呉服商などは客の求めに応じて品物を
蔵から出してくる商法でした。今でも、ルイ・ビトンや貴金属商などが、その伝統を受けついでいる感じがしないでもあり
ません。
庶民に人気の高かった歌舞伎を上演する中村座の屋根の上には、水の入ったタンクがありましたが、あまり役には立
たず、むしろ苦しい時の神頼みに似た水という字を入れて焼いた屋根瓦が印象的でした。、また、中村座の正面入場
券売り場近くには小さな舞台があり、幕間に役者が出てきて直接、道を行き交う人に呼びかけて見物を誘ったそうで
す。
歌舞伎は男が女役までこなしますが、元々は京都の河原で出雲のお国という女性が、踊り始めたのが最初だといいま
す。やがて、真似をする者が増え売春の温床になったそうで、幕府の命令で禁止され、男だけが演じることになりました
同じ頃(17世紀の初め)ロンドンの下町では、シェークスピアの劇などが上演されていましたが、歌舞伎同様女性役は
男性が演じていました。
祭りの時に使う車輪のついた大きな山車や、肩に担いで練り歩くご神体の入った神輿などの展示もありましたが、同様
のものをインドやヨーロッパをはじめ、世界の国々でも見たのを思い出しました。

浮世絵の中に力士像がありました。肩からお腹まわりの線は、多くが同じ輪郭になっているのを指して、ガイド女史は
製作工程(多色刷りやデザインに応じて版木を彫る)の省略のためにしたとの説明でした。
古代ローマ時代には、首から下の彫刻は同じデザインで全く変わらないポーズの石像作品を前もって造っておき、首か
ら上だけを注文主に応じて彫っていたそうですが、時や場所を越えて共通する発想に改めて気付きました。
日本では、当時の世界の常識であった金と銀との交換比率が3倍も銀を過大に評価していました。金がべら棒に安く手
に入るわけですから、オランダにとり日本はたまらない魅力だったことでしょう。マルコ・ポーロ(13世紀後半の人)が黄
金の国・ジパングと形容したこの国は評判通りだったようです。
しかし、時代が経つと小判などもサイズも小さく、金の含有量も減り粗悪なものになっていきました。

識字率の高さは世界のトップクラスで、貸本の出前サービスまであったと聞かされ、驚くと共に中学・高校生だった頃、
私自身貸し本屋に通ったことを思いだしました。







742  19世紀半ば頃の日本とアメリカ



1852年にハリエット・ビーチャー・ストーが名作'アンクルトムの小屋'を書きました。

1853年7月にペリーが江戸湾に入ってきます。
翌1854年3月31日、日本はアメリカとの間で条約を結びました。2港を開港し、そこではアメリカに一方的に有利な権力
行使ができる内容となっていました。この条約が発端となって、西欧列強諸国(英国、ロシア、オランダ、フランス、ポル
トガル)は1854年〜1859年にかけて、米国と同条件の条約を日本との間に結びました。

1860年にリンカーンが大統領になると、同年の12月には南カロライナ州が、1861年1月にはミシシッピー州、アラ
バマ州、フロリダ州、ジョージア州、ルイジアナ州が、2月にはテキサス州が相次いで合衆国を脱退しました。
1861年4月12日にチャールストン港を守るサムター要塞攻撃で南北戦争(Civil War)が勃発します。それを期にバ
ージニア州、アーカンソー州、北カロライナ州、テネシー州が南部同盟に加わりました。
当時の米国の人口は3300万人(当時の日本もほぼ同じ)で、ユニオン(北部同盟)に残った州は23州で2100万人、
財政や重工業、海運の面で有利に立っていました。
一方、南部同盟に加盟した州は11で1200万人、その内400万人が黒人でした。
産業は農業が主で、綿花、タバコなどが栽培され大型のプランテーション型経営です。
最初の2年間は、南部同盟に有利に戦争は展開しました。しかし、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が勝利
してからは北軍が有利になり、1865年4月9日丸4年に亘った南北戦争は終わりました。そして、僅か5日後に首都ワ
シントンのフォード劇場内でリンカーン大統領は暗殺されました。

一方日本では、攘夷運動が盛んになり幕府の弱腰政策を非難します。1864年11月には馬関戦争で西欧列強の圧
倒的な軍事力に肝を冷やしたりしながら、尊王倒幕へと発展し1867年1月に明治天皇が即位され、やがて明治維新
(1868)を迎えました。

江戸湾内へ無断で蒸気で走る軍艦を乗り入れる恐喝外交で、無理やり日本を開港させ長い鎖国の眠りを破った米国
でしたが、南北戦争のため、その後の明治維新に至るまでの期間は、国内問題に明け暮れたようです。
南北戦争で活躍した北軍の将軍・グラントは米国大統領に後日なりました。大統領任期終了後、世界旅行をした際、
日本にやってきました。新橋近くの、徳川時代につくられた美しい庭園を持つ浜離宮内にパレスをつくり、グラント夫妻
をもてなしましたが、今はこのパレスは残っていません。





743  ディナーとサパーの違い


今では殆どの人が、夕食に時間をかけて食事を摂っています。

歴史の中では必ずしもそうではないようで、昼時から食事を食べ始め数時間に及ぶこともありました。その習慣に似た
ものは今でも地中海沿岸のヨーロッパ諸国には見られ、会社に勤めているお父さんも、学校に行っている子供も家に
帰り、暖かいスープから始まるフルコースに近い食事を食べている所もあるようです。
またアルプスの北の国では、朝食はしっかり食べますが、夕食は軽く冷たいハムやソーセージなどの加工食品を中心
に食べ、簡単に済ましてしまう人達もいます。

サパーは気取らない食事をさしているようです。
ディナーとは、1日の中での主要な食事のことをいい、それは午餐(昼どき)であっても晩餐(夕どき)であってもいいよう
です。公式の晩餐や饗宴も含まれます。何となく格式ばったイメージがあるように感じます。ディナー・ジャケットとは通
常タキシードを指しているようですし、ディナー・セットは正餐用の食器一式となります。

ドイツからオーストラリアへ移民して45年近くになる一家の奥さんの自慢は、応接間の食器戸棚の中に並べられた食
器類と引き出しの中に仕舞ってあった銀製のスプーンやナイフ、フォークでした。このディナー・セットは滅多に使わない
ようでした。
一方、サパーは夕食、あるいは観劇や夜会などの後の遅い食事を指すようです。
聖書の中で、キリストが弟子と共に摂った最後の食事は、ザ・ラスト・サパーと英語ではいいます。
貧しい者は幸いであると言った言葉どおり、ニサンの14日(春分の日から数えて、最も近い満月の日)に行う、過ぎ越
しの祭り(ユダヤの民がモーゼに導かれてエジプトを出たことを祝う)の夕食でしたが、サパーだったのですね。







744  郷土料理を食べてこそ旅



スペインやイタリアでは生ハムが食されますが、豚肉が嫌いなので食べたくありません。

また、ヨーロッパや中近東の国々では羊肉がご馳走ですが、匂いが嫌いなので口にしたくないと考える旅人もいます。
しかし、食文化こそ、その土地の風土から育った生粋の産物です。郷土料理を味わずして、旅をしたとはいえないとま
で言い切る人もいるほどです。
'その土地で取れた物を調理して、その土地で取れたワインを飲みながら食事するのが最高です。'と言ったのが、ソム
リエ世界一になった田崎真也さんです。

一生に一度でいいからインドに行ってみたいと、願っておられた人が私に言われました。
香辛料のたっぷり入ったインド料理だけは、どうしても体が受け付けないので,おにぎりを10日分ほど前もって用意し
て、旅行に参加しました。日が浅いうちに食べるおにぎりは酢を弱めに握り、そして段々と酢を濃いめに握ったおにぎり
にしてあるので、インド料理は食べないが心配しないでほしい。憧れのインドに行けるだけで本望です。
ここまでおっしゃると、美しい人生哲学のように思えたものでした。
そういえば、インドに添乗していた頃は、私も旅行中少々下痢気味だったようです。







745  蒸気船運行開始を境に変わった英国のインド支配



19世紀に入ると、石炭を焚き蒸気のエネルギーを利用して、着実に走行する蒸気船が帆船に取って代わることになり
ました。

帆船時代の英国のインド支配は、東インド会社の社員を役人として使い、彼ら社員は英国本土を遠く離れ人生の大半
をインドで送り、インド式生活文化にどっぷりと浸かった汚職も横行する支配だったようです。
1800年丁度の年に描かれた細密画では、インドに住まいする英国人男性が、インド衣装に身を包み水煙管を手にて、
床に敷いた絨毯の上に座して、インド美人たちの踊りを自宅の広間で楽しんでいます。
1803年に描かれた細密画では、公のパレードで先頭集団の象の輿に、表向きの支配者であるムガール王家の人達が
乗っていて、それに付き従うように後方の象集団の輿にシルクハットを被った洋装の英国紳士や正装の英国将校が乗
っています。

そして、蒸気船の時代に入ると、情報の質も量もそれ以前とは格段の違いをみせ、インド支配も専門の役人が英国か
らやってきて、インド人の生活文化とは一線をおいた、効率性を重んじる」帝国支配が始まりました。







トップへ
トップへ
戻る
戻る