希望



726  孤高を讃えて



スペインのバルセロナの港近くに、元々は18世紀の初めフェリッペ5世王の命令で、カタラン人(バルセロナを含むカタ
ルーニャ地方の人々)の反乱を監視するためにシタデル(砦)がつくられました。

しかし、1868年に火災に見舞われて後、そこは旧市街公立公園(Parque De La Ciudadela)となっています。この公
園の中に動物園があり、長い間市民に愛され続けた白ゴリラがいました。肌の色のユニークさもさることながら、一群
の雌ゴリラを従えて一大王国をつくっていたそうで、他の雄ゴリラを寄せ付けなかったそうです。自由を愛し独自性を主
張するカタラン人の気質をこの白ゴリラは象徴していたようにも見えます。

過って、カルカッタやデリーの動物園に白タイガーを見に行ったことがあります。
仏教の開祖であるブッダは、お母様であるマヤ夫人が白い象が体内に入ってきた夢を見られたのが動機で生まれた
伝説があります。
白い肌をしたコルテスは神と思われて、メキシコにあったアステカ王国を滅ぼしてしまった史実もあります。
白は不思議な色に思えてきますね。



727  ガイドの嘆き



地中海に突き出すようにつくられた石造りの要塞都市が、南スペインにあるペニスコーラです。

中世の時代、イスラム教を奉じ入ってきたアラブ人により町がつくられて後、テンプル十字軍騎士団やローマ教皇権の
争いの的になり、要塞の中に教皇を選ぶ為のコンクラーベ室まで出来ていたそうです。
港近くの駐車場で迎えてくれた現地の中年女性ガイドは、身なりに気を使わない自分の世界を生きてきたタイプの人で
した。彼女によると、周辺の山に囲まれてびっしりくっつきあって建つ住宅地帯から港近くまでは、30年ほど前までは緑
豊かな森や畑だったそうです。

全ては、1982年に歴史的価値があるとされるユネスコの世界遺産に、この要塞都市が認定されて変わったそうです。
元々は、180メートル近くあった岩山でできた半島の中から自然に湧きだす清水があるのを知ったアラブ人が住むよう
になり、岩を削り上方にカスバ(支配者の住む地域を含む要塞)、そして下の方にメディナ(町)をつくったのが始まりだ
そうです。今は頂上までは60メートルの高さになっています。アラブ支配時代は他の宗教にも寛容で平和が続いてい
ました。飲料水が8ヶ所から湧き出し、そのいくつかは温水だったといいます。

しかし、今は性急な観光地化の開発が祟り、半島の中の泉の半分は枯れて4つしか水が出なくなりました。緑豊かだっ
た大地は消え、頂上から見える要塞の周辺は新しく建った住宅やホテル、商店が海岸線から内陸に続いています。
石畳に沿って過っての城塞都市の入り口門へと進むと、大きな洗濯場だった水洗い場があります。ここでは町の主婦
連が集い、のんびりと語りながら昔から洗濯をしていた所でしたが、今は各家で洗濯機がその用をしています。しかし
洗濯機で洗うのと手でしっかり揉みながらするのとでは、自ずから色艶が違うそうで手もみの素晴らしさを懐かしんでい
ました。
ゆっくりと坂道を登ると、過ってあったパン製造の家とか酒蔵屋、宿屋だった家などなど活気ある日々の生活が営まれ
た所が今は消えうせてしまい、復活祭(春の訪れを告げる)ごろから夏、秋にかけて盛んにやってくる観光客用の見せ
かけの町になってしまったと嘆きます。住人が住んでいた頃は、古い石壁に蔦が這い花が咲き蜂や虫が舞っていまし
た。
今は他の地域からやってきたスペイン人が、気候のいい時だけ住む所になってしまいました。
そして、私達復活祭の前にやってきた者を慰めるかのように、今は人気のない石畳の道ももうじき人人人で埋め尽くさ
れると言ってくれました。
性急な開発が、この町に住む人の心を無残に乱してしまったようです。



728  フランス人は河が好き?



日本のおよそ1。5倍の面積を持つフランスは国土の8割近くが人の住める平地であり、日本が逆に8割近くが山という
住むには適さない環境にあり好対照を成しています。

更に日本の河川よりは遥かに長く、そしてゆったりと流れる4大大河(ローヌ、ガロンヌ、セーヌ、ロワール)を始めとする
河川を中心にして、大小の川を繋ぐ運河網が発達しています。聞くところによると、地中海、大西洋のみならず遠く北の
北海やバルト海のあるオランダ、ベルギー、ドイツあたりまでヨットやボートで、暖かいシーズンなどは長期の旅を楽し
む人も多くいるそうです。
人は移住していった先でも故郷に似た風景や風土を好む習性があるのかも知れません。
恐らく、その方が安心感や安堵感を与えるのでしょう。北米大陸に出かけていったフランス人は、、カナダのセント・ロー
レンス河(フランス語ではサン・ローラン)やミシシッピー河、ミズリー河沿いに町造りをしています。町の名前もフランス
語をつける場合が多かったようで、何何ビル(Villeビルとは町という意味)と呼ばれる町が中西部の河沿いには多くあり
ます。
アメリカの西部方面はスペイン語がつけられた町が多くあるし、東部方面には英国の地方や町の名前が多くあります。



729  アルハンブラのカスバ(アルカサバ)は必見!



20年以上、何度もグラナダのアルハンブラ宮殿を訪れながら、これまで一度もカスバの中に入ったことはありませんで
した。

スペインにおける後ウマイヤ・イスラム王朝の都コルドバが13世紀の半ばに、キリスト教徒による国土回復運動(レコン
キスタ)の勝利で陥落して多くのコルドバに住んでいたアラブ住民は、白い万年雪を被ったネバダ山脈の麓で雪解けの
水が流れてくるグラナダへと移り住み、13世紀から15世紀にかけてイスラム芸術の華を咲かせました。
平らな盆地が見渡せる小高い丘の幾つかを切り開いて、アルハンブラ(赤い城壁を持つ城塞)はつくられました。アル
ハンブラは三つの空間から構成されていて、アルカサバ、ナザーレ宮殿とメディナ、ヘネラリフェ離宮です。
世界中から数百万人の人が毎年訪れるスペイン一の観光地であるアルハンブラは、今では滞在時間も厳しくチェックさ
れるほどになっていますが、通常日本人の団体ツアーはナザーレ宮殿とヘネラリフェ離宮だけを2時間ほど見学して済
ませてきたように思います。

しかし、実はアルカサバこそこの地で最初につくられた(13世紀始め)アルハンブラであったそうです。分厚い石や中小
の石、レンガやモルタルの壁が周囲を巡らし、眼下に見える今は30万近くの人が生活するグラナダの町とは一線をが
した砦であることがよく分かります。所々には、堅牢な石造りのトーレ(物見の塔)が残っていて兵士が寝泊りしたかと思
われる部屋もあります。ナザレ宮殿(公式謁見の場、ライオンの中庭を含む太守のプライベート空間、すなわちハーレ
ムなど)が出来上がる以前は、太守家族もこのアルカサバの中にあった塔で生活していたそうです。アルカサバでは、
今でも兵隊たちが寝泊りしていた兵舎跡やハマーン(風呂)、倉庫や牢獄跡が見られます。
何よりも驚いたのは壮大な3千米級のシエラネバダ山脈がカスバ越しに見え、万年雪を湛えて微動だにしないこの山と
水をこよなく愛し朝夕生活したアラブの人達を思うと、感動を覚えました。楽園(パラダイス)を手に入れた思いだったか
もしれません。
そして、このカスバの上に立って見て初めて、眼下にキリスト教の大聖堂が見えたことです。周囲の建物と比べると大
変立派なものですが、ここから見ると、大聖堂はイスラム文化と比べると小さく見えたことです。大聖堂の一角では、カト
リック両王(イザベラ女王とフェルディナンド国王)が今も眠っています。
やがて歩いて、私たちは裁きの門から城を出て、緑の木立の間を潜ってグラナダ門へ下って降りて行きました。
門を出ると、そこは人々の生活する賑やかな通りです。道に沿った両側は商店街です。やがて長細い広場(ヌエバ広
場)に出ます。そこはレストラン、物売り店、バス発着場など市民と観光客が入り乱れた賑やかな所でした。更に大通り
にそって道なりに下って行くと、イザベラ広場があります。広場中央にはコロンブスが地図を広げ、椅子に座るイザベラ
女王の前に跪いている彫刻がありました。道路を横切り小路に入ると、目の前に突然大聖堂が現れます。大聖堂の周
りはアラブ時代の街並みそのままに小さな商店が軒を連ねていて、近くには隊商宿(キャラバンサライ)だった所もあり
ます。正にアラブ・イスラム時代にメディナでは、モスクを中心に各種の商い店が並びハマーンがありましたが、それを
強く彷彿させる所でした。

アルハンブラのアルカサルを始めて見た後で、歩いて降りていった道こそ、この町を感じるのにベストではないかと思っ
ています。





730  コスタブランカの中心はアリカンテ



何と心地よい町だったことでしょう。

バスでやってきた私たちを海岸通りのとある場所で待ち受けていてくれたスペイン人の現地ガイドは、そのままバスに
乗り込み町の背後にあるバルバラ要塞へと案内してくれました。

ベナカンティ山上につくられた元々はイスラム・アラブ時代の要塞(カスバ)は、レコンキスタ(キリスト教徒により行われ
た国土回復戦争)後、聖人バルバラの名で呼ばれるようになりました。日が少しずつ西の山の端へ傾きつつあった頃、
頂上展望台から見た広大な海原の地中海や目の下に広がるブランカ(白い)の家壁の多いアリカンテの町は、一服の
絵のようでした。
バルバラ要塞は、海賊やイスラム軍に目を光らせていたそうです。18世紀の頃の錆びた大砲が幾つも置かれていま
す。また、都市開発がベナカンティ山へと及ぶ今日、ここから古代ローマ時代やそれ以前から住んでいた人達の生活
の痕跡が見つかっているそうです。
アリカンテの名前の由来は、古代ローマ時代にはルセンタムと呼ばれましたが、やがてアラブ・イスラム支配時代に入
りルカンテとなり、現在のアリカンテとなりました。

再び町の中へとバスで下りた私たちは、海岸に沿ってつくられたエスプラナード(大きな散歩道)をゆっくり歩きました。
日が落ち、急に暗くなり始めた,たそがれ時の散策です。
歩む石畳の床は、600万個あまりの赤白青の小さな色石が幅30米、長さ600米にわたって、波型文様を描いて埋めら
れています。うねりながら限りなく繰り返す波型文様は永遠の象徴です。
そして、大きく成長したヤシの木が四列に植えられ三つの空間をつくりだしています。
真ん中の道は、一際広くとられています。
カーストアイアン(鉄の鋳物)でできた高さ4米あまりのシンプルなデザインの街灯が真ん中の道に沿って2列に整然と
並んで立っていました。突然に片側ずつ時間をずらして燈り始めました。最初はぼんやりした黄色でしたが、少しずつ
暖かいオレンジ系の色へと変わっていきました。しばし我を忘れてヤシの葉が風にそよぐ音を聞きながら、色の七変化
に見とれたほどです。
更に驚いたのは、エスプラナード傍のレストランの趣向なのでしょうが、石畳の上に持ち出したピアノでピアニストがモー
ツアルトのトルコ行進曲を弾き始めました。18世紀の後半から始まるロマン主義は欧米の芸術家の多くを中東の文化
に憧れを懐かせました。
モーツアルトもその時代を生きた人ですし、オスマントルコ陸軍の雄イエニチェリ団でも思いながらこの曲を作ったのか
もしれないと思うと、過去から続く時間の中に溶けていくように感じました。

近くの港からアフリカのアルジェリアのオータン行きのフェリーも出るという看板もバスの車窓から見えました。




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