希望



721  プラスアルファは和製英語



英語圏の人にはプラスアルファと言ったのでは,理解されないそうです。

私たちが意図している'何か付加価値がついた'ものを表現する時は、英語圏の人の間ではプラスワンと言うそうです。
アルファはギリシャ語であって始まりを意味していて、確かに英語とギリシャ語の合成語はおかしいのかも知れません。
また、私たちは多くの正規の英語の表現を、短くして使っています。これも英語圏の人には通じないことに気付かない
で生活しているようです。
例えば、パソコン(パーソナル・コンピューター)、オフレコ(オフ レコード)、ミシン(ソウイング ミシーン)、レンジ(マイク
ロ ウエーブ レインジ)など多くあります。

もっともオーストラリアのアデレードで、オーストラリア人にレッツ・カッパーと言われ、何のことだか分かりませんでした。
当地では、レッツ ハブ ア カップ オブ ティ もしくはコーヒーのことだと聞かされたこともありました。



722  大聖堂前で夕食を



マラガの海岸に沿うように低い丘が連なっています。

その丘の上には、11世紀にイスラム教徒により建設が始まったというアル・カサバ要塞(支配者の宮殿や行政官庁の
建物、兵士の詰める兵舎などがあった)が残っています。丘の麓には、古代ローマ人(1世紀ごろ)が使っていた劇場跡
が発掘されていますが、この劇場に使われていた大理石の柱などはアル・カサバの建設に転用されています。
3月の末ごろ、要塞への坂道に沿って植えられたオレンジの街路樹には白い花が咲いていて、その芳しい匂いに酔う
ほどでした。
旧市街には、数年前オープンしたばかりのピカソ美術館があります。16世紀の貴族の館だったものを改造して、ピカソ
の娘が所有していた作品を主に展示してありました。ピカソはマラガの旧市街で生まれました。何よりも驚くのは美術館
にするための改修工事の際、地下から見つかった紀元前数世紀の頃からの建物の一部や道路の遺構が保存されて
いて、地下階に下りると見ることが出来ました。フェニキア人やローマ人などの生活がそこにはありました。魚を保存す
る為に岩塩を使っていたなど昔も今も変わらぬ人々のリズムに心が動かされました。

夕食は有志の方々と旧市街を彷徨い、結局大聖堂正面前の広場に設けられた仮設の屋外レストランで取りました。
石畳の上に直接椅子やテーブルが置かれ、目の前にはカテドラルの正面が壁のようにそびえ立ち、色モザイクの大理
石がふんだんに使われバロック装飾の彫刻が踊っています。最高の舞台設定の中でのタパス料理とワインのご馳走で
した。

あっという間に夕食の2時間が過ぎてしまい、全てに感動し喜びに満たされたひと時でした。



723  フランス語Gは英語ではW



ラテン語を色濃く継承するフランス語ではギョーム王と発音しますが、英語ではウィリアム王となります。

北フランスのノルマンディ地方から1066年にイギリスに侵入して、ヘイスティングの戦いに勝利したノルマンディ公ウィリ
アム征服王となります。
英語ではワッフルと発音しますが、フランス語ではゴーフルというそうで、島縞模様の焦げ目がしっかりついたケーキで
す。
何故英語ではラテン語のGがWへと変化したのかについては、ゲルマン民族の一派であったアングル・サクソン族が英
国に紀元後5〜6世紀にかけて進入しますが、彼らはラテン語のGを発音できず、代わりにWといったのが始まりだと聞
いています。

日本でも、もともとの日本語には数多くの微妙な発音があったそうですが、長い歳月の中で簡素化されていったそうで
す。



724  ぶどう棚のある庭はカルメン



スペインに行くと、カルメンという名前の女性によく出会います。

バルセロナのガイドさんもカルメンといい、その名の由来を尋ねると、アンダルシア地方で特に多くつけられていて隠さ
れた中庭だという意味だと聞いているとのことでした。
そして、旅はアンダルシアへと続きスペインでの最後のイスラム文化の結晶と讃えられるグラナダにやってきました。丘
の中腹に残るアルハンブラ宮殿コンプレックス(アルカサバ、ナスル宮殿、ヘネラリフェ庭園など)を愛でるのに最適な
場所であるサン・ニコラス教会広場展望台にやってきました。バスから降りて展望台まで歩いた小道の周りはアルバイ
シン地区と呼ばれ,伝統のアラブ・イスラム風建築の住宅が多くあり風情があります。
小道のなかには、カルメン通りと書かれたものもあります。グラナダのガイドによると、アラブ語でぶどうのことをカルム
といい、アラブ人がぶどう棚のある庭のある建物を、この地に多くつくったそうです。スペイン語ではカルムがカルメンと
なったとの説明でした。
日差しの強い土地柄、中庭の天井にぶどうの葉や蔓が蓋い、ぶどうがたわわに垂れ下がり、やがて収穫されぶどうの
実を食べたり発酵してワインにして楽しんだ人達にとって、この上ない空間だったことでしょう。



725  土器の製作に喜びを見出した友人



若い頃、ハワイで知り合ったこの友人は、同い年で生まれた月日も全く同じという奇遇でした。

半年、一緒にホノルルの安アパートで,床にはアブラムシが這い、シャワー室やトイレが他の部屋の人と共同で使う所で
共に過ごした仲です。彼は堅実な人で、昼は漬物屋で専門技術者として働き、夜は日本食レストランで皿洗いから始
め、やがてシェフの片腕になるまで信頼を得た人で夢を持っていました。
収入の多くは日本へ送金し、やがて帰国後は小さな旅館を始め自分で調理した朝食、夕食を客に出し、布団の上げ下
ろし食事の材料の買出しまで自分でやってきました。
地方の小さな旅館とはいえ、この収入が家族を支え子供2人を東京の大学へやり、彼らは今は社会人になっています。
バブルが弾けて(1990年の初め)以来、少しずつ客も減っていったそうです。5年前からコミュミティ・センターで土器の
製作に通う趣味を見つけました。

私たちが共に60歳になったのを期に旧交を暖めようと、1晩は彼の旅館で次の日は塩原温泉へ泊る企画を立ててくれ
ました。互いに妻を伴い、4人で過ごした3日間は得がたいものでした。
全てを金に置き換えて物事を見る習慣が身についてしまった友人は、今始めて自分を取り戻し、焼きあがってみて偶
然が織り成す土器の色合いや形の妙味に引きつけられてしまったそうです。そして、気に入った自分の焼いた皿に調
理した料理を盛り付け、客をもてなす楽しみが沸いてきました。奥様も近所の畑を借りて野菜や花をつくり、客をもてな
す一助になっているのを心から喜んでいました。

自分の作品を通して人に喜んでもらえる気持ちを持てる域に達した、レベルアップした人たちでした。



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