希望



711  ダビデがフィレンツェのシンボルになってから



ユダヤ教徒は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)を大切にし、その中で神と交わした約束を今も守っていて、偶像(絵や彫刻
などで表した神のイメージ)を崇拝することはありません。その代わり神を讃えてヘブライ語聖書を語ったり聖句を朗誦
してきました。


伝統を重んじるユダヤ教徒の間では否定されましたが、イエスを神の子であり長い間待っていた救い主であると信じる
人たちは、ヘブライ人(割礼する慣習の人達)以外のジェンティールズ(割礼をしていない異邦人)にも神の教えを積極
的に広めました。
救世主(メシア、キリスト)イエスを信じることで、ヘブライ人以外の人達にも楽園(パラダイス)に行けるチャンスが与え
られました。
そのことは弟子などによってギリシャ語で書かれた新約聖書(ギリシャ語聖書)に書かれています。
そして、イエスをキリストと信じるキリスト教徒たちの中に、やがて聖書の言葉とイメージを一致させようとする願望が強
くなり、新約聖書の中に登場する人物は絵や彫刻にいち早く用いられましたが、旧約聖書の話はルネッサンス期まで
は積極的に姿、形には使っていないようです。

旧約聖書の中でモーゼが神と交わした十戒の戒め(神の偶像化の禁止)が働いていたようです。
15世紀に入り、トスカーナ地方の誇り高い都市国家の象徴としてフィレンツェ市は旧約聖書の中で活躍する巨人ゴリア
テに立ち向かったダビデを看板にしました。
ミケランジェロが青年期に彫ったダビデ像は、正にフィレンツェ政庁舎の正面入り口を飾る為のものであり、市民の心
意気を示したものです。

それ以降、旧約聖書に題材を取った絵や彫刻が多数つくられることになりました。







712  外典(アポクリファ)とは



紀元前200年頃から紀元後100年にかけて、ヘブライ語やアラム語で書かれた14冊の聖書物語であり、今もローマ・カト
リック教の聖書には入っているそうです。

歴史の中で、17世紀まではプロテスタント教の聖書の中にも入っていたのですが、ヘブライ聖書(旧約聖書)に載ってい
ないという理由でピューリタン(プロテスタント教の一派で清教徒)は聖書から除外しました。
外典(聖書から外す)とされたものには、スザンナの話(貞節を疑われた女性がダニエルの見事な裁きにより救われ
る)やジュディス(アッシリアの圧制者であった将軍の首をとった勇敢な女性と下女の話し)、そしてトビットと息子のトビ
アスの話(天使ラファエルの助けを得て悪魔退治をし美しい妻を得たり、信仰深い目の見えない父トビットの目が見える
ようになる)などあり、多くの芸術家たちのモーティベーションを高めました。







713  宗教画に登場する使命を持った動物たち




フランドル(今のベルギー、オランダにあたる)派の17世紀初めに活躍したルーベンスとブルーゲル兄の合作による'楽
園のアダムとイブ'という作品が、ハーグのマウリッツ・ハイス美術館の中にあります。

人物像を描くのを得意としたルーベンスが人類の父と母を担当し、背景の風景や数多くの生きものはブルーゲルが描
きました。穢れを知らない若者2人(アダムとイブ)が明るい森の一角で憩う中、空や木の梢には鳥たちがさえずり、地
上には小動物が配されています。
やがて神との約束(エデンの中心に植えてあった善と悪の知識の木の果実は食べてはならない)を彼らは破ることにな
るのですが…。

岩に腰を掛け、イブの手渡す果実を受け取ろうとしているアダムの背後には、アダムの高潔さの象徴として馬がいま
す。美しい裸体の天真爛漫なイブの足元には、妻の貞節を意味する犬がいます。あるいは、兎は繁栄(生殖力)や2人
の行為を注意深く見つめる孔雀の羽の丸い目は神の目を、小猿は罪と悪魔を意味しています。樹上のつがいのオウ
ムは片方の言った言葉の真似をする習性を持つ動物ですので、アダムがイブの食べた果実を考えもせず同様に食べ
る行為を表しています。
そして、悪魔サタンの化身ヘビは、知識の木の上で枝にまつわりながら見ています。

聖書の話は、古来芸術家の想像力を育み育ててきました。








714  江戸の町の治安と衛生の良さの裏には



徳川家康に仕えた駿河衆の直参旗本が住まいした屋敷が多くあった神田駿河台は、東京にある7つの丘の一つなの
だろうか?

JRのお茶の水駅付近には、東京都の水道局博物館や湯島聖堂(孔子を祀る廟で徳川幕府の学問所であった)、ニコ
ライ大聖堂(ギリシャ正教の流れを汲むロシア正教会)そして明治時代にスタートしたいくつかの大学があり、昼も夜も
若者で賑わっています。
そんな大学の一つに新装成った明治大学記念館があり、その地下にある大学博物館にぶらりと入って見ました。とり
わけ目を引いたのが江戸の町(人口百万の約半数が武士階級、残りが町人や職人という大消費都市)を治安面で管
理した警察機能の見事さと怖さです。

犯罪者を捕らえる道具は、梯子や先に鉄製の曲がった引っ掛けやすい金具のついた縄や太い長い棒の先に重厚な刃
物が取り付けてあったり、十手もいかにも重そうな実務に長けた6〜7種類に及ぶものが展示してあります。一旦捕ら
えると、自白させる為の拷問道具は想像を絶する怖いものがずらりありました。

裁判も一回きりで弁護団はなく、奉行から厳しい判決(斬首、縛り首、遠島送りなど)が速やかに下されました。年に三
百人程度の罪人の公開刑が執り行われました。犯罪者は印として手に諸々のデザインの焼印(刺青)が入れられ、一
生それがついて回りました。また罪人だけでなく家族、親類縁者にまで災いが及びました。
町人や職人などの市民は、日常から5人一組の群れにされていて互いに監視し合い、素行のおかしい者を密告させま
した。
従い、治安は当時の世界の大都市と比べて断トツに良く、さらに治安業務に携わる役人も少なかったそうです。唯、無
実でありながら捕らえられ、自白を強要され死んでいった人達も多くいたようです。

幕末に諸外国と結んだ条約が日本に不利になっていて、大急ぎで近代化(近代法や科学技術の習得)する以外に手立
てがなかった初期の明治政府は官民一体となって不眠不休で努力をしました。そんな中、3人の法律専門家が中心と
なって興したのが明治大学(法律専門学校としてスタート)だそうで、一方的な法の執行で無実でありながら無念の涙を
呑んで死んでいったかもしれない江戸の人達に同情する一言も書かれています。

翻って現代の東京は何万人という警察官が勤務していますが、犯罪は年々増え犯罪者検挙率も低下気味で裁判も一
審から最終審までは何年もかかります。刑の執行も勿論公開ではありません。
不幸にも犠牲になった人よりも加害者の方が厚く守られているかに見えかねないほどです。
自由や平等の権利のなかった江戸市民ですが安全と治安は良かったのに比べ、権利や民主主義に守られていて警察
官も数多くいるにもかかわらず安全が脅かされていると感じる現代日本人のおかれた状況は複雑です。

江戸の町には多摩川などから引いてきた、きれいな上水道が庶民の住む長屋にまで配られていました。排尿や排便も
長屋の一角に便所をつくり、町を汚さないように掃除も長屋の人たちがしていました。溜まった汚物は夜、田舎へと運
び田畑を肥やす肥しにしました。
同時期の先進ヨーロッパ諸都市で行っていた糞尿の処理(早朝、オマルに溜まったものを道路へ投げ捨てる)を考えて
みますと、衛生管理が遥かに勝っていたことが分かります。

概して、日本の町が治安が良くきれいに見えるという評価は、昔から今に至るまで日本を訪れた外国人の口にする所
です。








715  西洋で数字の40が意味するものは




聖書の中でノアの大洪水は、40日昼夜を分かたず雨が降り続いたとあります。

また、モーゼはイスラエルの民を率いてエジプトを脱出しましたが、その後40年間もシナイ山付近の砂漠を彷徨いまし
た。そして、主イエスもヨルダン川で洗礼者ヨハネから水で清められて後、40日間に及ぶサタンの誘惑と戦いました。ア
ラビアンナイト物語では、アリババと40人の盗賊の話もあります。
おそらく、40という数字は数えられないほどの多数の人とか日数を表す言葉として昔から使われたと思われます。

イタリア語では40のことをクワラントと言いますが、これは検疫(英語ではクワランティーン)、隔たり、あるいは検疫所
という意味にも使われます。
実際40日隔離して疑わしい人や動物を観察すれば、安全かどうかが経験上分かっていたのでしょう。
元々は、船で大陸をまたがって旅をした際、病気などの混入を防止する為、40日間上陸させないで船や離れ島に留め
置いたところからつけられたそうです。
ニューヨーク港に立つ自由の女神は夢を求めて移民してくる人達に希望を与えましたが、すぐ近くにはエリス島があり
ます。正にこの島で40日間留め置かれ、不幸にも発病や重大な疾患が見つかり本国へと送り返された人達も多くいた
ことでしょう。








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