希望



706  人は風土と環境に左右されるとは云うものの




生まれて初めて海外へ旅をした先が日本だった、ニュージーランド人の男性がいます。

土曜、日曜日と2日に亘ってモーターサロン・ショーが幕張メッセで開かれるのを楽しみにやってきました。JRの電車を
乗り継いで早朝から出かけていきました。午後から会場はかなり混みあったそうですが、それでも何とか人の流れに沿
って楽しんで、夜8時ごろには無事帰ってきました。奥さんと2人でチャレンジした1日でしたが、それなりに楽しかった様
子で,昼ごはんは会場内ではサンドイッチでも千円することに驚いたり、帰る際、駅近くで雨が強く降っているにもかかわ
らず、子供連れの日本人の母親から一方的に傘を譲られ、母と子は雨の中走り去ったエピソードを興奮しながら話して
くれました。彼はきっと妻が金髪だから傘を譲ってもらう恩恵に浴したのだろうと思うなどと語りました。

そして、翌日曜日は、私たちが眠っていた間に歩いて2人で駅まで行き、電車で幕張へ出かけたようです。所が午後の
3時前というのに男性だけで早々に家に帰ってきました。訊ねると、メッセ会場は長蛇の列で入り口にたどり着くまでに
疲れてしまったそうです。
疲労困憊していてシャワーをとって休みたいと言います。奥さんは?と訊ねると流石女性はいづこも同じようで(?)、手
前駅の鎌取で降り一人でショッピングを楽しんでから帰ってくるそうです。

ニュージーランドは日本と大きさは、さして変わりませんが人口は4百万人で、彼らは第一の都会百万人を超すオーク
ランドに住んでいますが、今日ばかりは人の多さに圧倒されたそうです。
また別のニュージーランド人がニューヨークへとやって行き、行き交う人に自分はニュージーランドからやってきたと話
しかけた所、誰も関心を示さなかったエピソードやロンドンに行った人が天気の話を持ち出した所、これまた無視されて
しまったなど島国に住む呑気なニュージーランドのリズムは面食らうことになってしまうようです。








707  家畜に一般名、雄雌名、子供名を別個につける人達



英語では、羊は一般にはシープと言います。

そして,雄羊はラム(RAM)、雌羊はユー、子羊はラム(LAMB)となります。
牛は一般にはキャトル、雄牛はブル、雌牛はカウ,子牛はカーフです。
豚は一般にはピッグで、雄はボーア、雌はサウ、子豚はピッグレットです。
またヤギは一般にはゴート、雄はビリー、雌はナニー、子ヤギはキッドです。
そして鶏は一般にはチキンで、雄はルースター、雌はヘン、子供はチックです。
馬の場合は、一般にはホースですが、雄はスタリオン、雌はメアー、子馬はポニーが一般名ですが、雄はコルト雌はフ
ィリーです。さらに去勢した馬はゲルディングと言うそうです。

何と詳細な名前を付けていることでしょう。
私達日本人には考えが及ばないものです。流石に大陸では古くから動物を家畜化すすことで生活が成立してきまし
た。家畜の生態を知ることは、とりもなおさず人の生き死にに強く影響を与えてきたことでしょう。
我々の場合は、ある種の魚を出世魚と称して、成長段階により名を変えたりするぐらいでしょうか?
欧米では食肉もマトンとラム、ビーフとビールなど成長段階で名前が異なっています。







708  日本人作家が先人外国人作家の名にあやかると



エドガー・アラン・ポー(Edogar Alan  Po 1809〜1849)は詩人であり推理作家の草分け的存在で、'こがね虫'など
の代表作があります。

東部アメリカで生まれ才能に富んだ人でしたが、波乱に満ちた短い生涯でした。こがね虫の本の中で、宝探しの謎解き
に数字や記号、アルファベットの羅列した紙をものの見事な推理で解いていきます。優れた数学の才の片鱗を覗かせ
ています。丁度その頃は、大西洋を隔てた中近東では古代遺跡跡から見つかった謎の文字(象形、楔形などの)の解
読に考古学者や言語学者たちがしのぎを削っていました。そういう情報もポー氏のもとには届いていたでしょう。
そして20世紀に入り、日本に江戸川乱歩が登場します。
縦横無尽にトリックを使い、奇想天外なお話が次から次へと生み出されました。怪人20面相と名探偵・明智小五郎と少
年探偵団との知恵くらべの話は、子供のころの私にはテレビや漫画でお馴染みでした。未だカメラや8ミリが普及して
いない頃から夢中になって家族を撮ったりして、もののからくりを科学的に分析してみる人だったようで、やはり先人の
ポー氏のように数学の才に長けた人でした。

古代中国中原とその周辺に住む遊牧騎馬民族の興亡史を書いた人が、司馬遷です。
漢字ではケモノ偏やムジナ偏で書く人間以下の扱いを受けた農業をしない少数民族の存在は農耕の民・漢民族にとっ
ては一大事でした。前漢の中興の人である武帝の送った匈奴征伐軍の活躍(張騫や衛青、かっ去病将軍)を綴った歴
史書'史記'を通して周辺民族の生活ぶりが知られる所となりました。

子供の頃から、広大な空と馬や羊ぐらいしか好んで食べる草しかない草原の地に住む、中国人に疎まれたケモノ偏ヤ
ムジナ偏の少数民族に強い憧れを抱いた人が、司馬遼太郎さんです。中原から遠く離れた森や谷川を形成するアム
ール川周辺や満州、モンゴルや西域を愛し、作品にも多く取り上げています。
'街道を行く'シリーズの'モンゴル紀行'(1970年代に書かれた)などは、日本では未だ知る人の少ない中、長い間夢を見
続けてきた(当時司馬さんは50歳)理想郷に足を記した喜びに満ちています。
司馬遷には遥か及ばずという思いで、司馬遼太郎という名をつけたと言う人もいますが、司馬さんの夢は見事に果たさ
れ、作品の姿勢も多くの人に共感を与えました。








709  ペリー来航の隠された目的とは




1853年に従来の慣行(長崎に先ず行き、来航の主旨を告げる)を無視して、直に江戸湾に4隻の蒸気船を乗り入れ大
砲で恐喝したペリー一行でした。

当時は、太平洋上で鯨が盛んに捕獲され母船の甲板で解体して油を取り出し、船倉に貯めて1〜2年の洋上生活の
後、多くはアメリカ東海岸(ニューイングランド地方)の町へと持ち帰りました。この油が上質のローソクや灯火の油に加
工されました。未だ電燈の無い時代で、捕鯨産業は盛んでしたし、中国の珍しい物産を持ち帰る為にも寄港地(水や燃
料、食料の補給地、船員の休憩地)が必要とされ、日本に開国を迫ったと考えられてきました。

友人(添乗員をしています)が語るには、農業関係者を案内してアメリカのワシントンD/Cにある連邦農務省によく行っ
たそうですが、そこには世界各地から集められた植物の標本が展示してあり、日本からのサンプルも数多くコレクショ
ンしてあるそうです。そして、ペリー一行が日本各地で蒐集した植物もあったそうです。世界で育つ農産物を吟味して米
国に合ったものを捜すことを国策として長い間行ってきたことの証だと言います。

そう云われれば、米国中にある州立大学の中心は何れも農業学科であり、この学科だけは直接連邦政府が管轄して
いるという話を聞いたことがあります。建国後、長い間先進諸国ヨーロッパへ売れるものと言えば農産品(砂糖や綿、タ
バコなど)でしたし、今でも麦、トウモロコシ、などを大量に中国やロシアに売っています。
さて、ペリーは、1854年になると間もなく日本との間に条約を結び帰っていきましたが、万一条約が不成立だったとして
も、日本各地の植物のサンプルだけは持ち帰っただろうと言うのが友人の意見です。







710  変わらないことを希求し、See you in the morning の精神を大切に



30年近く、毎年200日余り海外へツアーを案内する添乗員を続けてきました。

その間、利用した空港も羽田から成田へ、パスポートの余白欄を埋めていたビザ(訪問国の入国許可証)の取得も多く
は必要なくなりましたし、外貨の持ち出し制限も大方なくなりました。必ず土産に持ち帰った酒3本、タバコ1カートン、香
水2オンスも遠いものになりました。
以前、スペイン人は走った後考える人達だと聞いた覚えがあります。
おそらく主旨は周りの状況を考慮せず、がむしゃらに突進した後悔することになる生き方だと云っていると思っていま
す。歴史の中で、キリスト教徒によるスペイン全土から回教徒を追い出す闘争(レコンキスタ)を長い間行い、それが
成功したのは15世紀の末であり、その勢いでアメリカ新大陸へ進出し、素晴らしい文明を持っていた先住民の人たち
の生活を破壊しました。またカトリック・キリスト教を熱烈に信仰する余り、他の宗教への理解や寛容に欠けた政策をス
ペインにおいても行ったことや折角新世界から持ち帰った物産(金、銀、トウモロコシ、砂糖、じゃがいもなど)の加工や
流通を他国に取られ、自国の産業の育成を怠った面などが背景にあると思います。

今スペインを訪れますと、落ち着いた分別ある大人の風格を持っていて、過っての荒々しい独断的な生き方をした国と
は思えない程です。
理想的には、英国人の様に'歩きながら考える'堅実な生き方となるのでしょうか?
しかし、大英帝国といわれた19世紀をみても、インドで育てたアヘンを中国に売って茶を持ち帰った政策など決して公
平に見て褒めたものではありませんし、好きでもありません。
深く考えることが不得意な私は、比べれば過ってのスペインのように考えることなく、がむしゃらにツアーと共に海外を
走ってきたような気がします。日本の経済躍進からバブル期を経て1990年代のバブルの崩壊へと進んだ30年でした
し、旅行も似た道を歩んだように思います。
いろんな国へ旅をし、いろんなものを目にし、いろんな人に会い見聞したことは本当に良かった。全ては時と共に変わ
っていきますが、希望は捨てず、See you in the morning !
これからも歩き続けます。

若くして死んでいった娘が、牧師である父に最後に言った言葉が、See you in the morning (朝、会いましょう)だっ
たそうです。それまでは、見舞いに行って別れる時には、See you tororrow morning (明日,またね)だったそうで
す。信者を長年導いてきた牧師が、娘の一言で心が洗われた瞬間だったそうです。父は、娘の言葉を生まれ変わって
永遠に生きるパラダイスで会いましょうという意味に受けとったようです。






トップへ
トップへ
戻る
戻る