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731 戦争に弱かったカルタゴ兵やローマ兵
灌漑用水路の整ったフエルタでは、オレンジなどの柑橘果物や水田での米の栽培が盛んです。
レバント地方の中心都市バレンシアへとバスでペニスコーラから南下してやってくると、サグントの古代ローマ遺跡を示
す看板が目に入ります。サグントは地中海に面した港町で、紀元前3世紀には都市国家カルタゴの勇将ハンニバル が、ここを拠点として活躍し象軍団を引き連れてアルプス越えを敢行、新たに地中世界に勢力を伸ばしつつあったロー マ軍を10年余りも苦しめました。歴史に名を残した第2回ポエニ戦争です.
ポエニ戦争は紀元前3世紀半ばから紀元前2世紀にかけて3回戦いましたが、いずれもローマが勝利しました。
さぞ勇気と英知に長けたカルタゴ、ローマ人の勇者の合戦だったろうと思い込んでいたのですが実はそうではなくて、い
ずれの軍も外人部隊,つまり鉄を早くから使い、牧畜や農耕だけでなく武器にも使うのを得意とした戦さ好きのケルト民 族を雇っての戦いだったそうです。ケルト民族は早くからヨーロッパ全土に住み、生活していたようです。古代ローマ勢 力の拡張により土地を追われた結果、今では言葉としては大小ブリテン島で話されているウェールズ語、アイルランド 語、スコットランド語に残っているだけになりました。
また風貌としては、ポルトガル人に近かったのではないだろうかと聞いたことがあります。
カルタゴの都市国家は、地中海の奥まった今のレバノン辺りを本拠として活躍したフェニキア人によりつくられました。
現在のチュニジアの首都チュニス郊外に都がありました。フェニキア人は地中海を舞台にした貿易や交易で栄え、戦
争で土地や縄張りを増やすのではなく、商取引を中心に地中海に面して港を持つアフリカやヨーロッパの軒下を借りて 生きていました。興味深いのは、アルファベットの元になる文字をフェニキア人は考え出したことです。この文字がやが てギリシャやラテン世界に広がり文字の普及に多大の貢献をすることになりました、
そして、この文字の本家であるフェニキア人は、自分たちのことを文字に残さず、歴史の舞台から謎を秘めたまま消え
てしまいました。
果たしてカルタゴ人は本当にバール神殿で自分の愛する子供を犠牲にしたのでしょうか?
北アフリカのカルタゴの遺跡に行った際、そこで発掘に従事していたフランス人考古学者の口から通説を否定して、そ
んなことはなかったと聞いたことがあります。証拠となる文献さえ残していてくれれば、よかったのですが。
732 ラン・ハロンでミステリー小説が書けた?
スペインのミネラルウオーターの中にラン・ハロンの水があります。
グラナダから地中海へと向かう山間にあり、18世紀の後半ごろ鉱泉の水脈が見つかって以来、温泉保養地として現在
に至っています。オートビア(無料の幅の広い高速道路)を降り曲がりくねった道を進んでいくと、山の中腹にラン・ハロ ンの集落が道路に沿うようにありました。各地から保養や治療にやってくるお年寄りが大勢おられるようで、立派な治 療センターの建物が町の入り口近くにありました。中に入ると1階に受付があり、どんな治療が受けられるか詳しく説明 したパンフレットがあり、奥には専門医のクリニックまであります。ここでは鉱泉水を飲んだり、温泉湯に浸ったりなどの 諸々の方法が行われているようです。2階に上がると、大きな空間には舞台や客席があり音楽や劇が楽しめるようにな っていたり、コーヒーなどが飲めるカウンターがあり近くにはテーブルや椅子が置かれています。
トイレを使ったりコーヒーを飲んだりして小休止の後、ミラドール(見晴台)へバスで向かいました。
空想ミステリー小説を多く書き人気のあった小説家・渋沢龍彦さんも、この地へやってきたことがあるそうです。予定し
ていたアルハンブラ宮殿のあるグラナダのホテルがとれず、急遽タクシーに乗せられて不安な思いで暗い道を30分余 りかけてのことだったそうです。
ラン・ハロンの町のミラドールは切り立った台地の上にあり視界が前面に開けて大きく広がっています。遠くには山が連
なっていますが、私たちの立つ広場の前は深い谷になっていて唯一尖った岩山が谷から突き出ていて、その頂上には 中世の時代に使用されたかに見える崩れた石造りの要塞があります。
ここを訪れた朝は3月の末で、丁度前夜の夜中を期して冬時間から夏時間に切り替わった時でした。見晴台の長椅子
の上には3本の空になったウィスキー瓶が転がり、大きな2本のプラスチック容器に入った半分近くに減ったソーダ水と
コップが3つ地面に転がっています。
私の頭の中は急に忙しく回転し始めました。
早朝までこの場所には、2人の男と1人の女がいた。そして、やがて女を廻って男たちは言い争うを始め、1人は運悪く
谷へと突き落とされてしまった。勝った男は女を急かしながら車で立ち去った。
渋沢先生、何とおっしゃることやら?
733 蒸し風呂と乾燥風呂
私たちは、ともすれば温泉が至る所に湧き出し風呂好きで清潔好きな日本人こそ、風呂文化のリーダーと勝手に思っ
ています。
実際、日本には風呂敷(蒸し風呂に入り尻の下に敷いた?)とか浴衣ビラ(蒸し風呂の中で着た)などの言葉に残るよう
に、かなり昔から蒸し風呂はあったようです。農業が盛んであったところでは、蒸し風呂が発達したと考えられます。中 近東のイスラム文化圏でもハマーン(浴場)が発達していて蒸し風呂が中心です。
他方、乾燥風呂となると北方のスエーデンやフィンランド、ロシアなどに多く見られサウナに人々は入ります。大きく分け
て、乾燥風呂は牧畜文化圏で好まれるようです。
ユーラシア大陸は日本と比べて地層が古いそうで、必ずしも温度の高くないミネラル分を多く含んだ鉱泉が出ます。こ
の鉱泉を利用しての治療や養生はヨーロッパ各地で行われていて、有名なミネラルウオーターの多くは昔から今に至 るまで保養療養地として町を形成しています。
また、ギリシャの地にテルモピレーという名の戦場跡がありますが、ペルシャ戦争(BC490)でスパルタの勇将レオニ
ダス率いるギリシャ軍が全滅しました。テルモやテルメという名のつく地名は温泉と深い関係があるそうです。ローマの 終着駅はテルミネと呼ばれますが、元々駅近くに大浴場(紀元後4世紀にできた)跡があったので浴場駅とローマっ子 が洒落てつけたのでしょう。
ヨーロッパの温泉の本場、チェコのカルロ・ビバリは、王侯、貴族を始め角界の名士、芸術家が集った所で、自然の森
の中に素晴らしい邸宅が点在していていますが、今も街中の至る所に流れ出ている鉱泉の水(温度の異なる)を鳥のく ちばしに似たガラス容器に入れ、散歩を楽しみながら口に含んで養生生活する人達を多く目にします。
そんなわけで大陸にこそ、老舗の風呂(温泉)文化があるようです。
734 垂直ジャンプをすると
アマゾン河には世界に住む淡水魚の1/3が生息しているという。
中でも、1億年姿形を変えていない古代魚であるアロワナは、他の多くの魚が海へと挑戦して逞しく成長して後、再び淡
水世界に戻り向上した体力や獲物の捕獲技術を使って生存競争してきた中、ずーとこのアマゾン流域で動かず耐えて きたそうです。
ジャングルが陥没してアマゾンの水が浸入した結果、地上や地中で生きていた虫が木の幹や葉へと追いやられまた。
この古代魚は、水中では海に生活した経験を持つ魚に遅れをとるため対抗上、空中で樹上生活する虫を餌にするよう になりました。
体をSの字にくねらせて推進力を増し、むなびれを使って飛ぶ方向を定め、助走なしに垂直ジャンプします。開いた大き
な口は、中小の虫を見事に捕らえます。子育ても安全を考え、口の中に稚魚を入れて育てる知恵を身につけました。
以前、オーストラリアのダーウィンの町近くの大きな川で船上から、肉の切り身の塊を竿の先につけて水面から数メート
ル上空にかざしていると、5米もあろうと思われる両生類のクロッコダイルが垂直ジャンプして肉にかぶりつくのを見に 行ったことを思い出しました。最もこちらは、人間が観光の一環として考えたワニの習性を利用したものです。
別の機会にアフリカのケニアにあるアンボセリ国立自然保護区内のホテルのロビーで、食後見たマサイ族の若者たち
の垂直飛びも思い出します。大人の仲間に入る為、家畜の天敵である恐ろしいライオンをしとめる儀式を経なければ 成りません。そして見事に皆でライオンを殺した後は、村娘たちにいかに自分たちが勇気に富んでいるかをアピールす るべく垂直ジャンプをする内容のダンスでした。
必要は発明の母とはいいますが…。
735 理解を深めるには?
滅多に充足した気持ちにはなれないようです。
千年以上も前、スイスの修道院で真理を探すアイルランド出身の修道士が書き残した詩が、ダブリンのトリニティー・カ
レッジの図書館の中に展示してありました。
瞬時を惜しんで壁に向かい集中して思考するのですが、閃きに似た真理は自分が見つけ出すものではなく、何処から
かやってくるものだそうで神の恩寵と見ているような内容でした。
オーケストラの指揮をとるドイツ人も,どんなに楽団の人が、コーラスやソロシンガーが心を合わせて努力しても、滅多に
満ち足りた時は来ないと言われました。やはり、ご褒美に似た何処からか思いがけなく頂くようなものだそうです。
しかし、物事の理解を深める方法は幾つかあるようです。それを次に述べてみましょう。
一つには、物事を面として捉えてみることです。
例えば、紀元後1600年前後の世界はどうであったのだろうか?
日本では関が原の戦いがあったし、リーフデ号に乗って三浦安針(ウイリアム・アダムス)がやってきました。ヨーロッ
パではスペイン無敵艦隊がイギリス海峡で敗れ、10年余りが経っていました。中南米ではアステカやインカ帝国が敗 れ去り、スペイン人の入植が盛んに行われていました。ロシアでもやっとタタールのくびきを脱し、初めてロシア人によ るキリスト教を奉じる国がイワン雷帝によりできました。中国では清が明にとって代わろうとする前夜です。東南アジア では海上貿易が盛んに行われていて、九州あたりの勢力がその交易にしきりに参加していました。インドや中近東の イスラム世界でも、異国との文化交流が盛んに行われていました。グローバルな視点から考えて見ては?
二つには、テレビや映画などの映像を無声で見るのも面白いようです。
三つには、自分から積極的に話し、会話を通じて考えを練ってみる方法です。
旅の中で知り合うバスの運転手やガイド、飛行機やバスの中で隣り合わせになった人などと話をすると、以外にびっく
りするような情報に接し見方が変わるような思いをしたことが何度かあります。
四つには、一つの場所に立ち過去に遡って見る方法です。
今はカテドラル(大聖堂)の建っている場所は、その昔イスラム教徒の礼拝するモスクあった所であり、更にその前は
ローマの神々を祭った神殿があったなどと聞くと、周りの建物や通りまで気持ちが広がっていきます。
五つには、植物学者リンネが考えた分類して統合してつける植物名のように、系統立てて考える方法です。人種や生
活手段、気候や風土など共通する所を集めてみることで、親近感 が湧いてきて、関係なく思えたことが身近になるこ ともあります。
六つには、近代ヨーロッパで始まった歴史観を外してみることかも知れません。
明治維新以後は欧米の先進文化や技術に追いつくことだけに必死になり、ともすれば私達アジアに育ち培ってきた
文化や生活を評価しない傾向がありました。もう一度、自分の地盤を見直して見るのも大切だと思います。
どうしてもその時時の強い力に影響を受けて私たちは育っていくのですが、その強い力も何時かは弱くなり別の力が台
頭してくるのが常です。変わらぬ真理を探す姿勢は、全てがこの世では変わるということを知ることから始まるのでしょ うか? ![]() |