希望




696  ハメルンの笛吹き男(鼠捕り)伝説を飛躍解釈すれば



北ヘッセンのカッセルの町あたりからベーゼル川にそって、グリム童話に登場するいばら姫やほら吹き男爵、赤頭巾ち
ゃんやブレーメンの音楽隊のお話の舞台になったところがあります。

ハメルンの町もベーゼル・ルネッサンスと讃えられた建造物が残る16,17世紀のころの風情が感じられる同じ地方にあ
ります。鼠の被害は、昔から近代に至るまで大陸では甚大で恐れられました。14世紀の半ばに中近東の船荷に混じっ
てペスト菌を持った鼠が、イタリアに上陸しヨーロッパ全土に黒死病が流行ったことは,今ではあきらかになっていま
す。
それ以前もそれ以後も鼠を媒介とする病気や穀物への被害は、随分恐れられていたことでしょう。
ハメルンの笛吹き男伝説では、鼠を駆除してやったにもかかわらず町の人が支払いを渋ったばかりに、大人たちが教
会に行って留守の隙に笛で子供たちを誘い出し、連れ去ったことになっています。130人の子供たち(口の利けない子
と目の見えない子を除く)がこの地で角隠しにあったことの裏には、果たして何があったのでしょうか?

さて、実際にドイツの歴史の中で13世紀には、領土拡大を東ドイツからポーランドやバルト三国にかけて行い、異教の
地に侵略した北方十字軍運動が大々的に繰り広げられました。そんな中で、兵士としての若者や新天地での労働力の
必要から反強制的に移住が行われた背景があります。不景気の最中、口減らしを兼ねて権力者は一見希望や夢を与
えるがごとく未知の地へ誘い出す手立ては何処でもあったのではないでしょうか?

例えば、日本でも満州には夢があると国民を誘った20世紀前半期や明治初期の北海道開拓移民の勧めで、多くの人
が移り住んだなど類似の話など多々あるように思います。





697  私のズボンが晴れ舞台に立つ


年の暮れに日本からの百名を越す合唱団がミュンヘンへ行き、バイエルン・オーケストラとコラボレートしてヘンデルの
メサイアを歌いました。

場所は、ミュンヘンの町の中心にあるレジデンスで、この建物はヴィッテルス・バッハ家(バイエルン王室)の本宮殿とし
て使われていたものです。レシデンスの中につくられた音楽ホール(ヘラクレス音楽堂)での公演でした。音楽ホールの
広い空間の左右の壁には、巨大なタペストリーが5枚ずつ掛かっていて、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスの10の試練
の場面が織られ絵となって描かれています。
公演前の熱のこもったリハーサルが終わり、開演に備えて着替えや小休止の時間となりました。しかし、男性の一人が
黒色の正装ズボンをホテルに置き忘れるというハプニングが起りました。とてもホテルに取りに帰る時間はありまん。
そんな中、添乗員として雑用をしていた私の黒ズボンに白羽の矢が当りました。共にずんぐり背も小さいという共通点
から、ものの見事にサイズが合ったのです。
思いもかけず、私のズボンは30分後には救世主(メサイア)となって、メサイアを歌う一助を果たす栄誉を与えられまし
た。

舞台から遠く離れた着替え用控え室で、留守番役の私は黒色の下ズボンのパッチととっくりのセーターに襟巻き姿で、
壁に取り付けられたスピーカーから流れてくる舞台で演奏されている音楽に耳を傾けていました。








698  クリスマス前後は働かない動かない人達



2005年の年の暮れ、南ドイツのミュンヘンへと旅立ちました。

エール・フランス機(ボーイング777型機)は,約3割空席がありました。パリまでの1回目の食事前の飲み物は?と聞か
れ、日本酒を若いフランス人フライトアテンダントに注文しました。すると、プラスチックの容器に入った月桂冠の1合瓶
の蓋を開け、別の大きなコップに少しだけ注ぎ私に渡し、残った大半の酒の入った瓶は蓋を閉めて、次の客用にとって
おく仕草をします。ただ少し気になったと見え、他の通路でサービスしている日本人女性フライトアテンダントに聞きただ
しました。そうしてやっと、私の元に念願の1合瓶丸ごと渡してくれました。合わせて瓶のカバーがプラスチックのお猪口
で、コップとして使うことを知ったようでした。
きっとウィスキーをサービスする要領で、コップに少量のウィスキーを入れ氷や水で薄めたりするイメージで日本酒を考
えていたようです。初めてなのでごめんなさいといってくれました。

そして、パリからはエアーバス社のA320型機(180人前後乗れる)に乗り換え、ミュンヘンへと向かいました。何と機内
には私達日本人グループの20名と他に6名の大人と赤ちゃん1名だけでした。後部座席に集中して座っている私たちの
傍までやってきて、男性フライトアテンダントは少し照れながら安全確認の一連の操作方法を離陸前に教えてくれまし
た。夜10時前にミュンヘン郊外の国際空港に到着しましたが、空港内は静かで人影もほとんど見えず店も閉まっていま
した。
ホテルまでのアウトバーン(自動車専用道路)も車はほとんど走っていません。僅か20分で市内のマリオットホテルに着
いてしまいました。ポーターはクリスマスで夜9時には帰宅させたそうで、セキュリティのスタッフが慣れない手つきで部
屋へとスーツケースを届けてくれました。ところが夜中を回ってもスーツケースが来ないという苦情が数部屋からありま
した。原因は、私が手書きで書いた部屋番号がセキュリティのスタッフの誤解を招いたことによるものでした。1と7、6
と9に起りやすい書き方読み方の習慣の違いでした。
ドイツでは、12月25日と翌26日はクリスマス休日となっているそうで、街中の店も全て閉まっていて、働く人達はこの日
ばかりは家族で、あるいは友人たちと時を過ごすのが当たり前になっているそうです。

コマーシャルのリズムに乗せられて浮かれてしまう日本の年の瀬年始風景は、ヨーロッパにはありませんでした。   
  







699  あるドイツ人コンサート指揮者の話



ミュンヘン郊外の人口1万人を少し越える町のロココ様式の内装が美しい教会で、日本からの合唱団と現地のオーケ
ストラによるコンサートを終えた後、町外れのレストランで遅い夕食をとりました。

クリスマスの飾り付けが残る店内は、百人を越す日本人コーラス参加者で賑わっています。
タバコを吸いに店の外へ出てこられた温厚な紳士であられるドイツ人指揮者に、音楽とは何たるかを全くの素人とお断
りした上で、質問しました。

指揮者として大切にしていることは?との問いに
まずは、スコアー(総音楽譜)を深く読み取ること。スコアーとは、各楽器の音譜や声楽などの音譜が全て載っている譜
表のようです。
次に、耳が大切だそうです。
3番目には、フィーリング。
そして4番目には、オーケストラやコーラス、ソロボーカリスト達とのコミュニケーションだそうです。ソロボーカリストの最
終的な条件はインテリジェント〔知性)であることだそうです。

私はアイルランドのダブリンにあるトリニティー・カレッジ大学の図書館で出会った千年もの昔に書かれた、あるカトリッ
ク僧侶の詩を引用して、真摯に真理を求める求道者とその飼い猫が共に研ぎ澄ました感覚で、一瞬に訪れる真理(猫
にとっては鼠、僧侶にとっては神への一体感)の話をしました。すると、このマスターは大いに相槌を打たれ、真剣に真
理を求めると真理(喜びのフィーリング)に出会える時があり、それはこちらから掴むものでなく、彼方からやってくるご
褒美だといわれました。
レストランのなかのむせるような熱気を離れ、外は静かでしまるような空気の中、久々に会話の至福に浸りました。

皆川達夫(中世西洋音楽の権威)さんがテレビで言われた、音楽とはムージカ・インストルメンテス(声楽や楽器)、ムー
ジカ・フマーナ(人間の音楽)、ムージカ・ムンディアル(宇宙の音楽)から成っていて、滅多にはない未知(創造者や天
然)との出会い(ハーモニー)に感動を覚えるものであって、姿形(絵や彫刻)にはない神を賛美する音(無形)の芸術
(神からの恩寵)と言われたのを思い出していました。







700  トルコ人から世界を見ると



イスタンブールの名門プロサッカーチームに'ガラタサライ'がありますが、ガラタとはケルト民族のことを言いゲールがな
まってつけられたようです。サライは宿とか町とでもなるのでしょう。

ガラタという名で思い出したのですが、旧市街と金閣湾を挟んで向かい側にガラタ塔もあります。13世紀始めのジェノヴ
ァ人のつくった見張り塔です。
古代ローマ帝国がヨーロッパ世界に広く覇を称える以前は、ケルト系民族がヨーロッパ全土に生活していたそうでトル
コにもいたことの表れが、サッカーチームの名にもつけられたのでしょうか?
現在のトルコ共和国は第一次世界大戦(1914〜1918)の結果生まれましたが、それ以前も14世紀以降トルコ語を
話すオスマントルコ族が,中近東や北アフリカ海岸,東ヨーロッパ,中央アジアにかけて一大勢力を持っていました、
博識で冷静沈着なトルコ人ガイド氏が、今でもトルコ語さえ話せれば遠く中国まで陸路の旅をしても、いく先々で困るこ
とは無いと思うと胸を張ったのが印象に残っています。

シルクロードと呼ばれた交易ルート沿いにはイラン人やインド人、蒙古系民族や漢人に混じってトルコ系民族が古から
今に至るまで生計を営んでいる誇りが表れていました。






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