希望


676  コーンドビーフをいただく


アメリカのスーパーマーケットでよく目にし、また買って帰って食べた缶詰になったコーンビーフしか知らない私には、オ
ーストラリアの内陸の鉱山町として名を馳せたブロークンヒルのコーンドビーフの姿やその味の違いに大いに驚きまし
た。

アメリカのそれは、細かく切られミンチ状に近いもので、脂肪も入っていてつなぎと共に固められたものです。食べる際
には卵や玉ねぎなどと一緒に炒め、カウボーイ(放牧した牛を見張る人)などが星空の下で野営した時に食べたのだろ
うと勝手に想像していました。

小さい時から食べてきたという、ブロークンヒルに住む英国からの移民の子孫に当たる方の家でいただいたコーンドビ
ーフはビーフが姿見のままであり、塩づけになったビーフの塊を買い、適当にステーキサイズに切りゆでて塩抜きをす
るそうです。ゆでられタコのように銅色に赤くなり柔らかくなったステーキに伝統の甘いたれをかけて食べます。
食物の腐るのを防ぐ為、昔から塩を使うという世界各地に見られる知恵が、この地でも行われていました。何よりもコ
ーンドビーフの本物に初めて出会えたのが嬉しく、ゆでた野菜と共にお替りをしました。
後で、ニュージーランド人の女性にコーンビーフについて聞くと缶詰になったものと、肉屋で大きな肉の塩漬けの塊にな
ったものと2種類あるそうです。どうも私だけが缶詰だけだと思い込んでいたようです。塩漬けになったコーンドビーフは
安く売られているとも聞きました。



677  ディジュリドゥーをあまり吹かないように


オーストラリアに何万年にも亘って住んでいる先住民(アボリジニ)の生活風景を、1960年代に8ミリカメラに記録したも
のをアデレード大学内の博物館で見ました。

素っ裸で原始生活をしていた姿を見て、外界と接触を絶つと考えられないことが起ることを強く思いました。フィルムで
は,木の中で生活する小動物(ボッツワナなど)の穴の入り口を煙で燻し出して捕ったり、成虫になる前のサナギ(幼
虫)を木の枝から取り皮を剥いで、そのまま口に入れて食べていました。木を擦り合わせて火をおこし、おこした火や灰
の上に捕った小動物(毛だけはむしり取っているが、内臓などはそのまま)を置き、適当にあぶった後で手でちぎって食
べていました。
アボリジニの人達は自分達をエオラと呼びオーストラリア中に分布して生活していて、400以上の境界(川や石、変わっ
た形の木などを目印)に分かれていました。言葉も絵文字もあり、伝統の儀式を見ても決して文化の低い野蛮な人達で
はないのが、分かっています。
顔料は土から取り、食料や薬、道具や家も自然の中に見つけ使ってきました。彼らに酒を与えた西洋人(白人)がダメ
にしてしまったと言う人もいます。

オーストラリアの大地は乾いていて、アウトバックが大半を占めています。アウトバックとはオーストラリア独特の表現
で、'価値の無い所'とか'未開拓な奥地'といった意味だそうです。実際は、アボリジニの人達にとり広大な自然であるア
ウトバックは大切な生活空間であり、それと一体となり共存する知恵を身につけていました。

18世紀の末にヨーロッパからやってきたい移民の人たちは,未だアボリジニに遠く及ばずというべきではないでしょう
か?
アウトバックの広がる内陸は今も手に負えない所となっています。現在オーストラリアでは、僅かに観光名所になってい
る所とか金や銀などの鉱石が見つかった所、通信、運搬施設(電柱や鉄道、道路など)といった点と線でしか接点を持
っていないようです。

アウトバックに生きる毒ヘビのジョークを一つ紹介します。
2匹のヘビが会話をしています。1匹が自分は毒ヘビだろうか?ともう一匹のヘビに訊ねます。勿論、おまえは毒を持っ
たヘビだと答えが返ってきました。すると問いかけたヘビは、実はたった今間違って自分の舌を噛んでしまったと言った
そうです。

ディジュリドゥーをあまり吹かないように、テレビをあまり見ないように、という表現もあるそうです。
ディジュリドゥーは,長くて重たく硬いユーカリの木の内部を白蟻が食べた枝をくりぬいて作ります。長さは1米〜1.5米
で、力を込めて吹くとビューンという低い持続音がでます。丁度スイスの木でできたホルンに似ていて中は空洞の筒状
になった楽器です。

音色は人の心を落ち着かせ深い湖に沈んでいくような感じで、アボリジニの人達がはまり易く、一方テレビは感情が激
していく効果があり、現代人の心を虜にしてしまいます。



678  アジア人は目下チャレンジ中


アデレードには、たくさんの教会があります。

200年に亘り移民の人達がつくり上げた町であり、きっと時には心細い思いに駆られる中、教会に通うことで勇気を貰
い生きてきた証なのでしょう。
そして、現在のアデレードの町中はアジアからの留学生で活気に溢れているようです。日本語も聞こえてきました。アフ
リカの若者も目にしました。
私達親子が訪ねた、ヨーロッパから30〜50年ほど前に'青い海、青い空、広い大地'のオーストラリア宣伝のポスター
に憧れやってきた移民組の人達に幸あれと願いながら、アデレードを後にしてシドニーで1泊、次の日の朝インチョン経
由で日本へ帰る日がやってきました。
いつも感じるのは、あんなに楽しかった、悲しかった、苦しかった1日も必ず終わり、1夜明ければ全く新しい白紙の1日
が始まることです。
勿論、例外はあり長い戦争とか病気や奴隷状態にある人にとっては、それは考えにくいのは分かっているつもりですが
シドニー空港の中で中年の中国人男性と話をする機会がありました。日本に10年も住んでいて、日本企業で働いてい
るそうです。休暇で友人を訪ねてオーストラリアにやって来られ、手に抱えきれないほどの中国語表示のお土産を持っ
ておられました。話している内に、いろんなことが頭に浮かんでいました。日本にも今は、多くのアジアからの留学生が
来ていて、大学や専門学校にとっては彼らの存在が学校経営にとり欠かせなくなりつつあることや、レストランなどでも
アジアからの若者か働いているのを結構目にするようになりました。

1970年代の初め頃でしたがハワイのホノルルのバーでは、韓国からの若い女性たちが働いていました。彼女たちは収
入の多くを実家へと送金し、弟や妹の教育の足しにしたり両親を金銭面で支えていました。
別の機会には、カルフォルニアのとあるリゾート町で北朝鮮からやってきたという老人に出会い、しばらく話を聞いたこ
とがありました。朝鮮動乱(1950年代の初め)で故郷を後にして、奇妙な巡り合わせで韓国、日本、そしてアメリカにや
ってきましたが、故郷に残した家族や親戚の人達にも以来会っていないと、遠く目を太平洋の彼方にやり話された元医
者がおられました。

シドニー空港のロビーには、プレイアー・ルーム(お祈りする部屋)がある表示がありました。果たして日本の空港には
あるのでしょうか?
大韓航空の機内では、インド映画産業のルポルタージュを大写しのスクリーンでやっていました。私の頭の中にある30
年前によく行ったインドで観たインド映画、館内いっぱいに漂っていた独特の雰囲気や匂いを思い出していました。
今も盛んに映画がつくられていることや海外ロケまでする時代になっていること、内容は以前と変わらず、涙あり笑いあ
り、怒りや喜び、復讐に嫉妬、恋や歌に踊りなどが盛り込まれた軽いタッチのミュージカル風に仕上げられた3時間も続
く映画が多いそうです。
35年前にインド中を虜にしたのが"ボビー"という映画でした。私も2度見ましたが、今でも空覚えでテーマソングの幾つ
かは歌えます。
インドの名誉の為にも言いますが、当時同時平行で、名監督サダジット・レイの描く’'大都会'や'大樹の歌'などの映画
が東京の岩波ホールあたりで上演され、専門家の評価を得ていました。
シタールのバックミュージックの流れる中、長い伝統から生じる圧力に抗し切れずに,あきらめて淡々と生きる人達の姿
を主に描いた作品でした。

機内では夕食が終わると、韓国製のメロドラマの後に韓国ミュージシャンが一同に会して行った音楽祭が紹介されまし
たが、実にバイタリティに富んだものでした。才能豊かなミュージシャンが次から次へとステージに上がり、伝統、ポッ
プ、欧米の音楽、クラッシックとあらゆるジャンルの音楽をこなし、観客席がそれに和して揺れ動く堂々たるものでした。



679  読み書きそろばん


日本では昔から、読み書きそろばんは勤め人として必要なものと考え、村や町、貧富の如何に関わらず教え学んでき
ました。

また、これらの基本を身に着けていなければ自分を恥ずかしく思う土壌ももありました。
人口の多く狭い土地柄の中で生活していくには、競争に負けない為に学習に力を注いだ面は多々ありましたが、人の
情緒や感性、教養などの内面の精神を育てるのにも読み書きそろばんは役に立ちました。
そして、心の複雑な動きや目に映るもの、あるいは耳に聞こえる音、漂ってくる匂い、手に触れる微妙な感触などを豊
かに表現できる美しい日本語をつくりました。

しかし、明治維新や第二次世界大戦の敗北により欧米の先進文化、技術導入があり、新しい外来語や表現の簡潔化,
間の時間の省略、日本文化への不信感の芽生え、時代の波に対応できる新しい日本語をつくりださなければならない
必要から,過ってのように読み書きに充分の時間を費やす習慣が減ってきています。
あれだけ豊かにあった色への言葉も紫は紫一色となり、微妙な色合いの違いを言葉で表現したり感じたりできる能力
は失われてしまいました。

古典ギリシャ語には愛を表すのに、4つの異なった言葉があったそうです。
 アガペとは、無私の愛、
 エロスとは、男女の愛
 フィリアとは、友人の愛
 ストルゲとは, 家庭の愛
言葉の貧窮は世界中で起きているようです。



680  雪は両刃の刃


台風が私たちの住む千葉へやってくるかも知れないという2005年の8月の半ば、家族で信州の山村、野沢村温泉に
出かけました。

そこは古くから裏日本と中仙道を結ぶ川沿いの街道村で、いろんな人が行き交ったお陰で珍しく方言もあまりない所だ
そうです。飛鳥、奈良時代の昔から90度を超える湯が地下から湧き出ていました。地方の権力者はこの湯に税をか
け、収入源としていました。
殿湯とか元湯、引き湯の名に権力者の下に置かれ、生き抜いてきた人達の葛藤が見えるようです。今は村(人口5千
人)の各所(13箇所)に共同湯があり、無料で誰でも早朝から夜遅くまで利用できます。この共同湯は木作りで明治時
代以降のものだといいますが、きっともっと古い伝統の櫓様式であり各地区の持ち物となっています。

村の数人あるいは数軒の旅館が力に任せて勝手に湯を使うのではなく、村全体で守り育てていく知恵を出しています。
早朝や夕暮れ時に行くと在の人が湯に浸かっておられ話を聞けました。旅館には一切みやげ物をおかず、街中の土
産物店で買うようになっていて,利益の分配が村全体にいきわたる様配慮されています。
しかし、村の景色も年々移り変わってきたそうで、茅や藁ぶきだった屋根は瓦やトタンに変わり、屋根には雪を溶かす
為の熱湯が流れるパイプが敷かれています。新建材でできた建物が古いものを駆逐しているそうです。過っていた藁
や茅ぶき職人は今はもういません。
冬には山系がスキーのゲレンデに変わり、明治の末以降日本でいち早くアルペンスキーが取り入れられ、日本有数の
スキー場として知られています。
20人も入浴すれば一杯になってしまうであろう小型の湯や(共同湯)を村の至る所に備えた冬にもスキーのできるリゾ
ート地は、世界でも類がないのではないでしょうか。

翌日行った千曲川(長野県ではそう呼ぶ)の下流、新潟県を流れる信濃川流域にある小千谷の町(河口まで100キ
ロ)では、雪ほど始末に終えないものはなく'百害あって一利なし'と言っておられました。小千谷の郷土史図鑑をめくって
いると、実は日本で一番最初に、ドイツからやってきた陸軍士官によるスキー学校が、この地で開かれた記事が写真
入りで載っていました。このチャンスを生かしたのが、上流にある野沢村温泉だったようです。
尤も始末に終えないはずの豪雪地帯に降る雪を利用して、小千谷ちじみ(麻糸を福島県あたりから買い、糸をより着色
して信濃川の水で洗い乾かして織る)がつくられ、江戸時代から昭和期にかけて盛んに織り上げられた製品は、小千
谷の川岸から川舟で信濃川を下り、河口から大船に乗せかえて日本海経由で京阪へと送られました。

先年の中越地震の爪あとが未だ残っていました。過っては本町商店街通りには、小千谷ちじみで財をなした商店が軒
を連ね、冬は馬にそりを引かせたタクシーが行き交い、歩道は車道よりは数段高い所に石組みでできていて各商店の
前を貫いていて頭上には屋根があり、雨や雪に煩わされることなく歩けました。
道は川岸に向かって下り気味にできていたことが写真で分かります。除雪などは川に向かってすれば万事簡単に行え
る知恵が見てとれます。
これは丁度中世の頃、スイスの古都ベルンの町が広い石畳の大通りに沿って、両側の歩道が数段高い所に屋根つき
の通りでつくられていたり、車道が川に向かって少し下り傾斜になっていたのを思い出しました。
共に冬の雪対策がしっかりされていたのですね。



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