希望

671  クラークという苗字は価値がある




西に向かって海が開かれたアデレードの町の背後には丘陵山脈があります。

そんな山の上に生活する、オーストラリア在住50年になるイギリス人家族を訪ねました。
小柄なご主人は85歳とのことですが、生気に満ち野良仕事などを未だやっておられます。
植物や動物に詳しい40代の娘さんと奥様の3人暮らしです。そして、おとなしい大型犬が3匹います。
敷地は1、5ヘクタールもあり、過っては馬を飼っていたという牧場があったり、自分たちで植え育てた木や花が家の周
りを囲っています。9月の頃(春の初め)丸々したレモンが実をつけていて、帰りにはもいでお土産に下さいました。
車庫には、30年来乗っている2台の車があり、手入れが行き届いていてピカピカに光っていて、いずれも英国車です。
車庫の壁には各種の作業道具が整然と掛けられていて、芝刈り機も置かれていました。
平屋建ての屋根の上には、温水用のソーラー設備や自家発電用の設備もあります。また家の裏には、雨水を貯めて
おく大きなタンクがあったり、生ゴミを仕分けしてコンポストをつくり、やがて土に返してやる優しい配慮もされています。

周辺の森は自然に生えるユーカリ(ガムの木)の木立です。何よりも恐ろしいのは自然発火の乾燥した土地に起る山
火事だそうです。井戸を深く掘り、非常時に備えて散水,消化用の水も確保しておられます。
30年の歳月をかけて3人でコツコツとつくりあげてきた城だそうです。
居間でお茶を頂きながら、日本の浮世絵に興味があるという、ご主人(ピーター・クラークさんという)の口から次のよう
な楽しい話がありました。
クラークという苗字の由来は,昔は字が読めない書けない人が多かった頃、文字で身を立てた人達のことを指している
のだそうです。ウイリアム征服王と共にイングランドに攻め入った先祖は、ケルト人の住むウエールズで人口調査をし
た折、ケルト語を話す先住民に会いましたが意思疎通が出来ませんでした。調査人(クラーク)は勝手に彼らに英国名
をつけたそうです。
そういえば、古代エジプトの石の彫刻には、座り膝の上に広げたパピルスの紙に向かってペンで文字を書き込んでい
るクラーク(高級官僚である書記官)の坐像がありました。
現在でも、モロッコの街角で椅子と机を道に持ち出し、客を待つ代書屋を見たことがあります。何処かの国では、郵便
配達人は山の奥まで手紙を背負って届け、字の読めない村人のために開封して、わざわざ読んであげるそうです。
アデレードで行った2つの図書館では、無料で使えるコンピューターがいくつもありましたが、移民してきた人達がつくっ
たオーストラリアでは、今自分たちのルーツや家系を知ろうとするブームがあり図書館では,そのためのコーナーまで
出来ています。
小一時間の楽しい会話を終えて坂を下り、入り口のそばに車を停めていた州道の反対側のなだらかな丘の至るところ
に羊が牧草を食べていました。

聞くと、春の時期だけに見られる緑緑した風景だそうで、降雨量の少ない大地が雨の恵みに満たされていて、私たちは
オーストラリアが緑に覆われる一番いい時期にきていると聞かされました。






672  英語は出鱈目な言葉



オーストリアとチェコの国教近くで生まれ,両国にまたがって住み学校も両方で行ったという男性(2005年現在で70歳に
なる)にアデレードで会いました。

チェコ語、ロシア語、ポーランド語(いずれもスラブ語系)、ドイツ語そして英語を話すといいます。特に英語は1958年に
オーストラリアに移住してから初めて学んだそうで、極力オーストラリア訛りでない標準英語を努めて話そうとしてきまし
た。聖書の中の文章を手本として英語の力をつけたと言います。
その努力家の彼がイタリア語は歌うのに適していて、フランス語は話す為にあり、ドイツ語は思考するのに良い。英語
は発音やスペルは出鱈目に出来ていると言って笑わせてくれました。
また、英語はシンプルにメッセージを伝達するには便利な言葉だとも付け加えました。







673  アルバートとローズの馴れ初め


結婚して65年になる2人は、幼友達で英国の出身です。

1930年ごろは、大変な経済不況で妻ローズの父親は失業してしまい、子供7人を食べさせる為に友人(アルバートの父
親)の畑の野菜や芋を無断で採ったそうです。アルバートの父親はエンジニアで仕事に恵まれ豊かでした。食べた後で
許しを請うたローズの父親に対して、寛大に友人のしたことは喜んで受け入れると答えたそうです。
過って美しい栗色の髪をしていたローズは、今は真っ白の髪へと変わりましたが,そばに座るローズの手をとってアル
バート(85歳)は、私にとってあなたローズは昔のままの可愛い栗色の髪をした憧れの人だといってあげました。アデレ
ードでお会いした時(2005年9月)の会話と微笑ましいお2人の風景でした。

娘が以前アデレードに住んでいた頃、このお2人は夕食に娘を家に招待してくださったそうです。スープから始まりデザ
ートまでの正式のディナーを2人して準備して、楽しい笑い話もたくさん聞かせてくださった方だそうです。

そして、2006年の春に永遠の憧れのローズは天国へと一人旅立ったと聞きました。







674  郷土の為に汗を流さない人は評価が低くなる



未だ幼かった息子2人を失い、意を決してやってきた新天地オーストラリアにおいても、またもう一人の息子を死なせて
仕舞う不幸に見舞われた老人と彼の孫2人と知り合いました。

娘の子供である孫は2人とも高校を飛び級で卒業したそうで、2年生の専門学校に通っていて老人に似て、小柄で明る
く謙虚に振舞う10代の若者でした。兄の方は小学校5年から高校卒業時まで日本語を学校で習ったので、久し振りに聞
く私の日本語に敏感に反応していました。
老人の出身地はマケドニアだといいます。ギリシャの北方にありブルガリアの南に位置しています。ギリシャの第二の
都市テッサロニケがその中心になっています。
マケドニア語はブルガリア語と近い関係にあるそうです。
西欧世界で最大の英雄といえば、アレキサンダー大王でしょう。
しかし、マケドニア人はアレキサンダー大王をあまり英雄視しないそうです。"彼は故郷を出て行ったきり帰ってこなかっ
た。国の為に何もしなかった"そうです。
同様にナポレオンは、コルシカ人の為に貢献しなかったと故郷では評価が低いのに似ています。

早めに公務員を辞めて、孫と遊んだり田畑の手入れをして幸せを満喫していた私の伯父(当時60歳)は、ある日突然
交通事故で亡くなりました。葬式の終りごろ、親戚を代表して誰かが挨拶の中で、'郷土や隣近所の方々の為に汗を流
すことなく早く死んだ不幸をお許しください'と言っていたのを思い出しました。







675  年間降雨量230ミリの町に夜半から朝にかけて大雨が降ると



銀鉱の町として19世紀末から20世紀半ばにかけて名を馳せたブロークン・ヒルへいきました。

途切れ途切れに低い山が見える所からブロークンヒルと呼ばれるようになりましたが、別名はシルバーシティーです。
アデレードから内陸に500キロ入った所にあり、バスで7時間余り北に向かって旅をしてやってきました。南オーストラリ
ア州を少し出たニューサウスウェールズ州に属し、町の周りはアウトバックが広がる乾燥した不毛に近い大地が広がっ
ています。アボリジニー(先住民)しか生活していなかった所に突如として町が出来ました。銀や錫、鉛などの鉱脈が地
下にあるのが分かると、当時の世界的な金銀探しのブームに乗って大勢の人がやってきました。

ブロークンヒルの町はこうして生まれました。やがて鉄道が敷かれダーリン川とマレイ川の河川をを利用して羊毛や鉱
石、食料などの物資運搬も始まりました。盛時には4万人近い人が生活していたそうですが、今も細々と鉱石を採掘し
ていますが2万人に少し欠ける、お年寄りの多く住む静かな所になっています。
町の中心に大きなボタ山があり、ボタ山を挟むように北には駅、そして碁盤の目状にできた広い舗装道路があり、各種
の公共建造物や商店、ホテル,公園があります。反対の南側には、住宅空間が広がっています。道が舗装されていな
ければ映画の西部劇の町と見間違えるほどです。19世紀末から20世紀始めにつくられた教会や市庁舎、郵便局や警
察署、裁判所に労働組合本部ビル、ホテルなどが駅前辺りに立ち並び、他の商店も準じていてレトロに近いものです。
通りの一角にある市の図書館に、かってはこの町の鉱山で働き今は町の歴史研究家であるライブラリアン氏を訪ねま
した。
彼によると、駅前の通りに沿って酒場や湯や、レストラン、ホテルなどが立ち並ぶ活況を呈した町だったそうです。1930
年代の世界的不況の中でも、軍事産業にとり兵器製造の原材料に銀や亜鉛、錫は必要とされ、町は発展を続け1950
年代が一番輝いていたそうです。

鉱石採掘会社などが市民の為に室内温水プールや病院などをいち早くつくり、福祉面でも一段と充実した時代でした。
図書館の2階にある彼の仕事部屋には、古き良き時代の写真が多くありました。採掘会社が年に何度か主催する従業
員の家族総出での郊外へのピクニックは、皆が待ち焦がれる最高の楽しい行事だったそうです。

地下千米近くまでシャフトやトロッコで降りていき採掘作業する労働者に混じって、1948年まではポニーが共に働いてい
ました。カンテラで足元を照らしながらの暗い坑道での労働ですので、事故(転落、火事、トロッコに轢かれたり)が起り
犠牲者も数多くでました。
駅の背後にあるボタ山の頂上には展望台レストランと共に大きな記念碑が建てられていて、事故で亡くなった方々の名
前や年齢、死亡原因を記してありました。
また、この町で生まれた労働組合は長い間、オーストラリア全土に強い影響を与え続け、政治の動向を左右するほど
でした。
20世紀始めにつくられた労働組合本部ホールには、歴史の中で活躍した歴代の組合長の写真が飾ってあり、天井や
階段の手すり、漆喰塗りの壁には鉛板にデザインを施し,型押ししてつくった美しい各種の模様飾りが残っていました。
経営者に真っ向から立ち向かい、労働者の権利を勝ち取っていった心意気がステンドグラスの中に描かれた組合の紋
章にも感じました。

今のブロークンヒルは3つのセールスポイントでアピールしています。
町の図体には少々立派過ぎる観光局の建物の中に、一つは芸術家の集う町、二つにはアウトバック(奥地)観光への
入り口、そして3つには現在も採掘している鉱石の坑内見学となっていました。
しかし、時の流れは町の意図とは別のようで、他の町とを結ぶ鉄道やバスの本数も減り、飛行機の定期便も来なくなっ
ている状況のようです。
住宅空間の印象は、平均500から千平方米の敷地の中に平屋建てで屋根や建物の壁、そして隣との境にもトタンの板
が多く使われています。裏庭(バックヤード)がどこでも広くとられていました。トタン(ブリキ)の使用理由は、第一に安
上がり、そして断熱性の高いことにあります。年の大半を乾燥した高温の元で過ごす生活です。
断熱性に長け、長い毛で体を被った動物で水を一時に50リットルも飲むと、1週間も水を飲まなくても平気なのがラク
ダです。
この町には、過っては多くのラクダがおり物資の運搬に汗を流していました。その為に回教徒であるアフガニスタン人
が住んでいてモスクも立っていたそうです。

ブロークンヒルから20キロ行った所にシルバートンの廃墟になった集落が残っています。
最初に銀が見つかったのは、このシルバートンでした。3千人もの人がやってきて一夜にして町になり、僅か10年ほど
で鉱脈が涸れ,次にブロークンヒルで鉱脈が見つかったので、大挙して住民は家ごと引っ越しました。その際、家を引っ
越すのを一手に引き受けたのがラクダ群です。その時の写真がシルバートンの博物館の中に残されています。何十頭
という数のラクダが家ごと持ち上げて運んでいます。
この博物館は,過ってはシェリフ(警察)の館であり、裁判所や牢屋もありました。採掘に使った各種の機械や道具、抗
夫の衣装の展示に混じって、レクレーションで楽しんだサッカーやクリケット、ラグビーなどのスポーツに加え女性中心
の文化サークル活動の写真や当時の衣装や生活用品なども展示してありました。
鉄道駅傍のホテル兼酒場だった建物が近くにあり、今も酒場です。中は、ほぼ当時のままに残されていて、壁にはここ
で撮影した映画のパネル写真(メル・ギブソン主演のマッド・マックスなど)が掛かっています。坂を登っていくと、教会跡
や崩れかかった家を利用して画家のギャラリーが何軒かありました。

前夜から早朝にかけて、滅多に降らないはずの雨がたっぷりと降りました。何代か前にイギリスから移民してきたという
リバーズさんの家には傘がなく、知り合いの家に行って、やっと傘と雨合羽を借り、私たちを車に乗せ案内してください
ました。
ブロークンヒルの舗装された広い道は排水用の溝がなく、雨水が道路に溢れていました。
そして、アウトバックの中を突き抜ける舗装道を走っていると、カンガルーが何頭か見えました。リバーズさんの小さい
頃の思い出の中に、時にはカンガルーを撃ってたんぱく質の栄養源とした貧乏だったころがあるそうです。
シルバートンの近くに、今も昔もピクニック場として使われてきた所に案内してもらったのですが、ぬかるんだ土に車の
タイアがとられ、出すのに1時間以上格闘しました。この場所は、彼ら夫婦には子供の頃、鉱山会社主催のピクニック
で楽しくゲームなどをして遊び回った思い出の所でした。
ロイとリタ(リバーズさん夫妻)は、ブロークンヒルで生まれ、育ちました。そして、町一番の教会で結婚しました。お2人
とも50代半ばですが、夕日が美しい、空が半分以上を占める風景や年の殆どが枯れた大地、そして時々襲う砂嵐の
世界であるこの町を,こよなく愛してやまない方々でした。

彼らの家でご馳走になったコーンド・ビーフ(塩漬けになったビーフをゆでて、適当に塩を発散させてジャム系のたれを
つけて食べる)の味は忘れられません。




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