希望



651  日本に鉄砲が伝わった年にコペルニクスは死んだ  



ニコラウス・コペルニクス(1473〜1543)は、ルター派などの宗教改革運動者からもイエズス会を代表とするローマ・
カトリック教会からも長い間非難されました。

ポーランドに生まれ、幼くして(11歳)商人であった父が亡くなり、伯父さんに引き取られ神父になるべく教育を得る機
会に恵まれました。18歳で当時首都であったクラコフの大学に学び天文学に情熱を注ぎました。23歳で大学を卒業し
ましたが、伯父さん(司教となっていた)を説得して教会法、数学、薬学の更なる学問を深める為に、イタリアのボローニ
ャやパドゥワの大学に入りました。
そこで知り会った天文学者や歴史学者との交わりを通して、中世のイデオロギーの呪縛からコペルニクスは解き放た
れました。

古代ギリシャ時代に生きた天文学者を研究する過程で、ラテン語(古代ローマ人が話した言葉であり、中世時代の教
養語であった)だけでは不十分であることを知り、古代ギリシャ語で書かれた天体に関する原書を読むために古代ギリ
シャ語を勉強しました。教会法、数学、薬学博士となり、またギリシャ語から直接にポーランド語に翻訳した最初の人で
もありました。
ポーランドに帰った後、教会や在野の責任ある地位につきますが、地球が動かず宇宙の中心にあるのではなく、太陽
の周りを回っているという考えを資料を集め知識を深めていきました。この宇宙の中心が地球ではなく太陽にあるとい
う考えは、古代ギリシャの哲学者アリストテレス,数学者プトレマイオスの教えに反するものでした。しかし、すでに紀元
前3世紀のサモス島のアリスタルカスやピタゴラスは、、地球も太陽も燃える火を中心に持ち、動いていると信じていま
した。
ただプトレマイオスは、'もし地球が動いているとすれば、生き物が空に浮くことになり地球は天国から落ちてしまうこと
になり、考えるだけでも馬鹿げている'と語り、アリストテレスの言う、地球は宇宙の中心にあり動かず、他の星が周りを
取り囲んでいるとする説を支持しました。コペルニクスは、古代人が使った天体観測の為の器具を再び作り用いること
で、太陽と惑星の距離を測定したり古代人の残した観測資料を検討しました。
晩年に至り、手書きで集大成の観測資料を数多く載せた書物を著しましたが本のタイトルはつけていません。果たして
コペルニクスは何という表題を望んでいたかは、今となっては分かりません。
コペルニクスが本の中で主に次のようなことを述べています。

地球は、王座に当たる位置にある太陽に支配され、その周りを回る数多い惑星'旅人' の一つ。     
惑星は同じ方向に太陽の周りを回る。地球もそうであり、1日に1回転しつつ1年かけて太陽の周りを回る。
惑星は太陽に近い順に,水星金星地球月火星木星土星となっている。

生活の中心が宗教にあり、宗教のドグマに反する言動は厳重に慎まなければならない状況の中で、孤立した戦いを始
めた偉大な人でした。
                




652  白粉の匂いから



バブルが弾けてから(1990年以降)の生活の知恵を売り物にした商品の中で今に続くまで成功したビジネスは、百円
ショップと千円散髪だと思っています。

家の近くの駅前の千円散髪やへ行きました。そこはビルの2階を借りて営業していて、何処にでもある普通の腰掛と鏡
が置いてあるだけの店でした。東京都下でチェーン展開して成功している機能性を最重要視した駅や繁華街で目にす
るコンパクトな見慣れた千円散髪やではありませんでした。千円札を小さな器械に入れると予約札が出てきたのは似
ていましたが何番目かは分らず、この店では器械の横においてある帳面に名前を記入することで、今日何人の人が髪
をカットして貰ったか分かるようになっていました。

散髪が終わりに近づいた頃、後頭部と首の境あたりに白粉をつけ、バリカンで仕上げをし始めたようで目を瞑っていて
も、昔懐かしい白粉の匂いが感じられました。子供の頃、50円で丸坊主の散髪をしてもらった際、白粉をよくかけられ
たのを思い出しました。その事を40半ばに見える散髪やに言うと,我が意を得たりとばかり次のように話してくれまし
た。
化粧はもともと魔よけの願いを込めて口や目を中心にしたものであり、白粉も宗教的な意味合いから生まれたように思
うといいます。小さな毛を揃えたりするのに白粉は、散髪やにとり必要だったそうです。他の二つの椅子は空で,店の
主人も久し振りに心がゆったりしていたようで、歴史講釈を楽しんでいました。

ポルトガルのリスボンの守護聖人アントニオの祭日(6月13日)の前夜際は、町一番のリベルタ大通りでは各町内会の
工夫を凝らした老若男女によるパレードがあります。皆化粧をしていて、賑やかに夜中まで騒ぎます。そしてアルファマ
地区にあるアントニオ教会へと行きます。旬の魚であるイワシを炭火で焼き口に頬張り、ワインやビールを飲ませる屋
台が旧市街(アルファマ地区)にはたくさん出ていました。

白粉を塗ったパレード参加者を見て日本に帰って直後の散髪であり化粧談でした。
世界は繋がっているようですね。










       
653   明日葉(あしたば)の自生する伊豆の大島が教えてくれたもの




それは、我々日本人が世界中の人と同じ地球という宇宙の波間に漂う惑星に住む、運命共同体の一員だということで
す。

クレーター〔火口〕は、地球は勿論ですが他の分かっている宇宙の星も同様に、隕石の落下か火山の噴火によって出
来るそうです。三原山は200万年前に海底からの噴火を土台にして生まれ、後に何回かの噴火をくり返し現在の大島
が出来ました。
元町にある火山博物館(世界でも珍しい)の中では、日本中が地震や火山の噴火の危険がいっぱいの地盤の上にあ
り、海底ではフィリッピン、太平洋、大陸プレートが三つ巴で入り組んでいることを教えてくれます。

世界に目を向けると、同様に入り組むプレートの上にのっている地域では、火山の噴火や地震が起こっていることが写
真や図解入りで示されていました。
地震や火山の噴火の多発地帯としては、日本の南にはフィリッピンやインドネシア、ニュージーランドなどの太平洋と接
する国々があり、東南アジアから西へと向かうインド洋に面した国々も含まれています。
東アフリカ大陸を南北に走る深い地溝、地中海の沿岸(北アフリカやヨーロッパの国々)や島々、大西洋上のカナリア
諸島や遠く離れた北のアイスランドまで伸びています。
日本を北に向かうと千島列島からアリューシャン列島、アメリカ大陸の西海岸を北から南へずーと走り、あるいは太平
洋上に浮かぶハワイ島も火山や地震活動により運命を大きく左右される環境の真っ只中にあります。

大島に最初に人が住んだのは、およそ8500年前だそうです。風が強く吹き、年に平均3千ミリの雨が降る島です。米
は出来ませんが野菜や果物、魚などが採れ、今では1万人の人が生活していて主に観光業が支えています。1986年
の地震では、全島民が本土へ非難したこともあります。
高速ジェット船が岡田港(もう一つ元町港が使われていて、波の荒れ具合でどちらの港になるか決まる)に近づくと、見
えてくるごつごつした岩やその赤茶けた色が、成るほど火山の噴火で噴出した溶岩や土石流が海の傍にまで流れたの
だろうなと感じさせる風景でした。滞在中はタクシーやレンタカーは使わず、もっぱら町内バスとホテルの送迎バス、自
前の足に頼り3日間を過ごしました。せめて時間に縛られない急がない、土地に住む人と交ったり風景をゆっくり見て
過ごしたいと思いました。バス通りに面して、赤茶けた溶岩や土石が道と住宅との仕切り用の壁として使われていて、
椿や桜、ヤシの木が街路樹として植えられていてハワイに似ているなという好印象を持ちました。町内バスの運転手の
方々も穏やかで、安全運転を心がけていて、後ろからやってくる乗用車などを先に行かせてやるほどの親切振りでし
た。

ハワイに似ているなという印象は、帰る日の朝行った火山博物館や郷土史資料館で、ハワイ島にはキラウエア火山や
ヒロ市があり大島と姉妹関係を結んでいることが分かり頷けました。2泊した宿は標高500米の高地にあり、三原山が
朝に夕に屋外の温泉風呂から正面に見え、目を楽しませてくれ身も心も洗われました。
部屋担当の女性からこの眼前に広がる樹海は、50年前は何もなく唯、溶岩や土石の転がる荒々しい風景だったと話
してくれ、いかにも自然が遅々として、しかし刻々と生態系を変えていくことを教えてもらいました。この樹海の多くは自
然に桜や椿,つげの木が生えたようです。朝食後、宿から歩いて三原山の頂上の火口を目指してしばらく樹海の中を
歩いていくと、ビニール袋に明日葉(今日摘んでも明日には葉が出るという食用野草)をたくさん入れた、長靴を履いた
男性に散歩道で出会いました。定年後移り住んで5年になるそうで、標高300米の所に住んでいて夏でも掛け布団が
いるほどの涼しさで、こうして4月の半ば頃は明日葉やふきの芽、タケノコを山に採りに行き、埼玉に住んでいる子供や
孫に送ってやるのんびりした生活を送っておられるそうです。しばらく雑談をしましたが、何年か仕事で大島に暮らした
ことがあり、定年後移り住もうと考えていた夢が実現したそうです。また、宿に勤める女性によると、現金を持たなくても
山の幸と海の幸を互いに交換し合って生活できるので、1週間ぐらいは不自由を感じないそうです。

島の南に位置する波浮の港は天然の良港に加えて、200年ほど前に整備拡充して漁港として、物産の集散地として
栄えました。今は静かな佇まいで、港の傍には2階建ての古びた過って賑わった飲み屋や旅館が立ち並ぶ狭い通りが
あり,坂の上には財を成した人達の家が残っていました。
大正時代には一段と賑わっていたそうで、その頃を舞台にした小説が'伊豆の踊り子'です。川端康成の名作ですが、過
去5作映画がつくられていて田中絹代、美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、山口百恵が可憐な踊り子役を演じたの
を、過って毎晩のように宴会が開かれた旅館(今は参観無料の博物館になっている)の中でビデオやポスターを見て、
懐かしく思い出させてくれます。
波静かな港では、サーフィン乗りの練習を若者たちがしていました。地元の高校の授業の一環だと聞かされました。
港近くを歩いていると、くさやの干物を作っている店がありました。店主は3代目だそうで中に入れてくださり、数名の女
性が魚のはらわたを取り除く作業をしていましたが、いくつかの大きな樽の中には、はらわたを取り去った魚が漬け汁
に浸かっていました。説明では、樽の中には魚の他には海水が入っているだけだそうで、1晩浸けておくだけで後は乾
燥させて出来上がりです。この海水は長年に亘りこの店で使った結果、魚を自然に発酵させる養分が解けている水に
なりました。時には床の下にある大きな貯水槽に帰してやり、しばらく楽に休ませておくと又くさやを作る媒体の仕事に
精を出してくれる有難い水だそうです。
海水と人間とのいたわり合いの中から作り出される保存の利く非常食になる知恵が生まれたことを知りました。波浮と
島の中心(北側)を結ぶ町内バスは2〜3時間に1本です。こんなに素晴らしい、のんびりした旅は本当に久し振りでし
た。バスの中から見えた途中の黒い砂海岸や海底の隆起でできた何層にもなった地層の波型になった壁に感動してし
まい目を瞑って寝ている暇はありませんでした。

大島公園では、椿は大島原産のやぶ椿が人間がこの島に移り住むよりも早く、1万年もの昔に自生していたことを教
わりました。
有名な大島桜は江戸時代にかけ合せてつくったもので、島の4割を占める植物になっています。椿は防風林として家や
畑の回りに好んで植えられました。成長が遅い木であり、狂いが少ないので昔は大工さんが使った折りたたみ尺は椿
でつくられたそうです。食用油として化粧油として、夜の灯りとして昔から愛され使われてきました。
この公園の傍には,人気のない動物園があり、柵の外にもいくつかの動物が自由にしていて私たちの傍に来たり付い
て歩くものもいました。カラス除けの為に紐の付いた棒を手にしての無料の動物園見学で、印象に残ったものは猿と大
きなラクダだったでしょうか?過ってはラクダは三原山に登る乗り物として使われていました。この楽園のような動物園
を逃げ出した野生化した猿やリス、鹿もいるそうです。
車は品川ナンバーということは、生き馬の目をくり貫くようなコンクリート・ジャングルの中で生活する東京都の中にもゆ
ったりしたリズムで時を刻む、楽園にも似た大島があるということです。

この楽園島でひとつ提起しておきたいのは、ハワイのホノルルの市内バスは何処へ行っても僅か1ドル、パリ市内1日
乗り放題券(地下鉄、バス、郊外電車どれでも乗れる)が約2千円なのを比べると、この島の交通機関の料金が高いこ
とです。
三原山や大島は日本の地学のモデルであり縮図でした。そしてここは、世界中の火山地帯、地層プレートの入り組む
地帯と同じ仲間であり、皆で力を合わせて知恵を出し情報を交換・共有しながら生きることの大切さを改めて強く教えて
くれました。三原山を一人占めした3日間でした。
不安から逃れたい、幸せになりたいと誰もが願い生きていると思い'百聞一見''温故知新'をナビゲーター(指針)として添
乗してきた30数年でした。深く考えず選んだ定年後の妻に感謝を込めて行った最初の旅行が大島だったことに感謝し
ています。有難う。
                  






再び口上 



'幸せになりたい''不安から逃れたい'と誰もが願い生きています。

日本人だけが日本だけが特別に世界と世界の人々と異なってかけ離れているのではありません。歴史の中で、環境が
変われば凛々しく(菊と刀)もなれば、女々しく(平安、徳川時代)もなりました。環境が変われば日本人も世界の人も同
様に違ってきます。順応して誰もが生きています。

旅は外から日本を眺め中々の美人(治安の良い一体化した)である国だということを教えてくれると共に、世界の様々
な地域に生きる人々もまた素晴らしい人生を歩んでいることを感じさせてくれます。
日本に住んでいると集団の中に埋もれがちですが、あえて目線を高くして、姿勢を正しく背筋を伸ばして見ると、岡目八
目で客観的に海外も見えてきます。
自らチャレンジする勇気を持って旅をすれば、レスポンス(応答)はあり、人生が何であれどうであれ、生きるに値する
楽しいものだと思えてきます。
いろいろエピソードを話してくれたガイドやバスの運転手,読書やテレビを通して知った情報(ロンドンで発行されるエコ
ノミスト誌、目ざめよ誌,などなど)に感謝します。

歴史(過去)に中にしか未来は捜すことは出来ないと思い、また無からは有は生じないと考え、これからも'百聞一見''温
故知新'を大切にしていこうと思います。


                                        2005年9月吉日




654   トイレットのサインや短髪の凛々しい男性は消えて





長い間、ロンドンの街中のアパートやオフィスビルにはTOLETと書かれた張り紙や看板を目にしたものでした。

トイレットが多くある町だと勘違いさせたものです。よく見るとTOとLETの間にはIがありません。聞くと、貸し部屋や貸し
事務所があるということだそうで、イギリス病と呼ばれた不景気によるものだと云われたものです。しかし、今は(2005
年)土地や不動産などの値段がうなぎのぼりで、TOLETの看板は消え安く借りれるアパートや事務所を見つけるのは
夢の時代だといいます。

韓国の空の新しい表玄関として素晴らしいインチョン国際空港が出来ました。
そこでは笑顔のヨン様のポスターが貼られ彼に似た長髪の優しい男性が増え、若い女性の服装も欧米や日本と比べ
て違いがなくなりました。
かっては、北からの侵略に備えて臨戦態勢で男性の短髪の凛々しい、きびきびした姿をソウルの街中で見かけたもの
でした。

僅か5年そこらで、見た目にはイギリスも韓国も全く変容してしまいました。
日本でも携帯電話やパソコンの登場で見かけは、どんどん変化しています。
しばらく振りにやってきたオーストラリアのシドニー空港周辺の景色は変化が見られず安心しましたが、到着時に以前
は検疫官が機内の通路を回って消毒スプレーを散布して、しばらく様子をみた後でターミナルビルに入ったものでし
た。今は、飛行機がゲートに横づけになると、スプレーをすることもなく直ちに建物に入り入国手続きを行います。また
ビザの取得は東京でオーストラリア大使館に出向くことなく、インターネットで大使館のホームページにアクセスしてビザ
をとる時代になりました。







655 オーストラリアの2番目のお父さん




ワーキングホリデー・プログラムを利用して1年オーストラリアへ雄飛した二十歳前の娘でしたが、ホームシックになりそ
うな時もあったそうです。

そんな日本娘を慰めるのに、海の見える海岸へ連れ出し浜で拾った海草を薄くなった自分の頭にのせてテニスのウイ
リアムズ姉妹だとおどけてみせ、心を和ませて下さったのが娘が第二のお父さんと呼ぶロータ氏です。すでにその時か
ら6年が経ちましたが、私たち夫婦と娘でお礼を言いにオーストラリアへと3週間チャレンジしました。
ロータ家に寝泊りしながら、レンタカーをして昼間はアデレードの町に出かけたり郊外へ遠出もしました。また娘が滞在
中知り合った友人を訪ねたりもしました。そして、アデレードから500キロも内陸にある鉱山の町ブロークンヒルへ3泊4
日で週に2便しかないバスに乗って行きました。

団体旅行の添乗員としてではないプライベートな旅は、私にとっても妻にしても全く知らない人達(娘の友人)に会うとい
う目的でした。
こんなに楽しくリラックスして互いに語らい,笑い、食べたことはありません。真に中国の故事にいう'友、遠方より来る。
喜ばしからずや'を地で行く体験でした。
敷居が高く感じ緊張しがちな私たちを暖かくもてなしてくださった方々の知恵に感動しました。
娘の分析によると、関西の笑いとは違い自分たちがハッピーだから自然にユーモアがあるのがこの国の人達だといい
ます。

さて、これからしばらくは2005年8月末から9月半ばまで訪れた南オーストラリアのことを書いてみます。




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