希望


646  風の強く吹く浅瀬で魚や貝を採っていたパタビア人





スヘルト、ライン、マース河の河口に住んでいた人々がパタビア人です。

浅瀬に住み引き潮が残した魚や貝を採り雨水に頼って生活していた人々です。春は冷たい風が吹き秋には強風が吹
き荒れ、土地は砂地で養分は乏しく自然条件には全く恵まれない所でした。2千年の昔、地中海世界からやってきたロ
ーマ人もパタビア人(オランダ人の先祖にあたる)の侘しい生活ぶりを目にして記録を残しています.
このような生活が13〜14世紀頃まで続いた後、他の地域と通商、交易を始めだし、また風の強く吹くのを利用して風
車を使ったエネルギー工学をいち早く考え出し、湿地や沼、湖を農地へ改良して行きました。オランダ人の歩んだ道の
りは大変に厳しいものでした。

ザーンス・カンスのオランダ村は小雨が降っていました。風車が数機置かれていますが、ガイドの説明ですと翼が+字
で止まっていれば仕事が終わったことを意味していて、X印であれば一時休止であって仕事は終わっていないのだそう
です。第2次大戦では、ドイツ軍に対するレジスタンス運動家たちのメッセージの伝達に風車が使われたとも言われて
います。チーズを食べて育つと女性は平均175センチ,男性は185センチになるそうです。ただ17世紀(黄金期)頃
のオランダ人は160センチぐらいだったそうで、口の悪い人に言わせると海外植民地を持って以降,身長が伸びたとも
(栄養が良くなった?)いいます。

空の玄関口アムステルダムのスキポール空港は'船の地獄'という意味があり、過ってこのあたりは入り江になっていて
船が出入りしていたそうです。空港建設のため水をかい出す干拓作業をした際、座礁した船の舳先など残骸が見つか
ったそうです。空港の名もかくのごとく厳しくつける発想は、縁起を担ぐ日本とは異なっているようです。
キューケンホフとは'台所'と言う意味で、過ってはこのあたりは貴族の土地であり採れた穀物や動物の肉を調理したも
のを貯蔵する倉庫や台所があったそうです。今は、春に球根類の花の見本市展示場になっています。チューリップを廻
るバブル騒動も17世紀に起こったエピソードが今に伝わっています。チューリップをさして入れる花瓶は穴だらけの容
器ですが、マッカムといいます。デルフト焼きの一種類の花瓶として作られました。高価なチューリップの花を入れる容
器としてのデルフト焼きの役割も大切だったことでしょう。17世紀の代表的な画家の一人、フェルメールの描いた'真珠
をつけた女'の絵をハーグで見ました。小さな絵ですが、一人の女性が静かにオリエント風な衣装に身を包み笑みを含
んで少し横を向きかげんの描写です。この画家はデルフト出身です。

そういえば、インドネシアのジャカルタはオランダ支配当時はパタビアと呼ばれていました。
         



647  防寒, 防熱に適したジャラバを着る人達


モロッコの内陸にあるオアシス町マラケシュのランドマークはクトゥビアの塔(ミナレット)です。

クタブとは本を意味し、実際本がこの塔の中に置かれていたといいます。
パリのセーヌ河畔につくられたアラブ文化センターの建物の中に、円筒形の垂直に伸びる塔(ミナレット)を感じさせる
空間がつくられています。そしてその中に入ると螺旋状にゆったりとスロープになっていて、本が壁の窪みに数多く立て
かけてありました。手書きで写したコーランや各種の専門書がつくられた中世の時代です。文字を解する人も少ない
頃、書籍を多く持つことは、即お金持ちであり、文化人である証明だったことでしょう。
マラケシュのクトゥビアの塔(ミナレット)を建てさせたムワッヒド王朝のアブー・ヤーコブ・エル・マンスール(12世紀末)
は、スペインを征服するため海に面したラバト(現在の首都)近くに造船所をつくり兵隊を海事訓練(水泳や船の航行に
必要な諸々のこと)した後、満を持してスペインへと押し入りグアダラキビル河中流に栄えたセビリアの町を陥落させ、
町の中心にあったキリスト教の教会を壊し、そこにモスクをつくりました。お祈りの呼びかけの為につくったミナレットが
今に残るヒラルダの塔です。さらに凱旋してラバトに帰り、ヒラルダの塔やクトゥビアの塔と同様のスタイルで、さらに壮
大なハッサンの塔をつくり始めますが未完成に終わっています。一代の英雄と言うべきでしょう。
              



648  カスバ街道を旅して



物に恵まれないモロッコから見ると,物に恵まれたアメリカとサウジアラビアは似ているそうです。

いずれもグルメ好きだそうです。そしてアメリカ車はガソリン燃費が悪くサウジアラビアでも持っていき売るのが関の
山、車を買うほうのサウジアラビアは黒いダイアモンド(石油)を産出するが金の使い方を知らない。モロッコは独立以
来、欧米寄りの政策を取りアメリカには軍事基地を提供し、その見返りに経済援助を貰い、サウジアラビアの金持ちは
立派なモスクや別荘をこの国に持ち、金を使ってくれるといった風に、物を持たないモロッコは知恵を出して精一杯生き
ている醒めた見方をガイド氏は、マラケシュのメディナ(旧市街)を歩きながら話してくれました。

メディナでは、風呂やパン屋、モスクは欠かせないトリオだそうです。1週間に1度は風呂に入る人たちで、3度の食事
に必ずパンを食べるし、敬虔なモスリムとしてモスクはマストです。メディナの傍には、ジャマ・エル・フナ(死者のいる
所)広場があります。おそらく町(メディナ)のすぐ外にパラダイスに復活する希望を抱いて死んでいった人達の墓をつく
った場所だったのでしょうか?今は、この広い広場に各種のものを売る屋台が立ち、大道芸人や派手な衣装を着て水
を売り歩く人達(水を売る収入よりは観光客の写すモデルになる収入が多いように見える)の中をここに住む人達そし
て観光客が夕方ともなると大勢集まり、見る人見られる人思い思いそぞろ歩いたり、喫茶店でミント・ティーをすすりな
がら広場を行き交う人を眺めるゆったりした変わらないリズムを楽しんでいます。

このオアシス町を後にして、数日アトラス山脈の峠を南に越えてサハラ砂漠の端っこに位置するカスバ街道に旅しまし
た。
初めて訪れる土地やそこに住む人、風景に接するのはワクワクするほどの魅力を感じます。過ってアフガニスタンを旅
した時、一人の男性客が飽きもせず車窓から移りゆく変化のない殺風景な景色に見入っていたのを思い出しました。
この方は、若い頃から大陸の乾燥して茫漠とした景色を見るのが夢だったそうです。

砂漠近くに住むベルベル族(先住民)の生活の一端でも感じられればと思っています。アトラス山脈を越えて一泊目は
ワルザザートの丘に立つカスバ(要塞)風のホテルでした。四方を高く壁で取り囲んだつくりで、多くの欧米からの観光
客で賑わっていました。きっと彼らにとっても砂漠とオアシスの取り合わせは、日常のリズムでは感じられない魅力に満
ちたものなのでしょう。
そして次の日は本格的にカスバ街道を走り、サハラ砂漠の出入り口の一つエルフードの町へと走りました。
カスバ街道の家の多くは1家族の住む石と土とワラを混ぜてつくった要塞風のもので、この住宅空間をカスバと呼んで
います。決して頑丈に出来ているのではないようで、通常150年ぐらい経てば風化し壊れ出し住むのに適さなくなるそう
です。ベルベル族の一軒のカスバでミントティーをご馳走になりました。壁は厚く外敵からの防御と共に、昼間のサハラ
砂漠からの熱風、夜の冷え込みに備えたつくりになっています。1階に部屋があり、階段を登るとそこは平らな屋上で
雲が近くに見えていました。
玄関を入った中央の壁には古い写真が飾ってあり、この家族の何代か前の人達が住んでいたカスバが写っていまし
た。写真の中の家(カスバ)は立派な外壁を持ち,各壁の角は物見の塔があります。そこにはデザイン(土でつくった凸
凹模様)が描かれていて、この家の紋章(アイデンティティ)になっています。カスバに住む以前はベルベル族の人は、
洞窟に住んでいた時代(今でもチュニジアではそうしている人もいる)があり、洞窟の壁に同様のデザインを描いていた
そうです。また、放牧・遊牧生活をするベルベル族の人々は生活に欠かすことの出来ないカーペットのデザインに、や
はり洞窟などに残るデザインを使っているそうです。
聞いた話の中で一番感動したのは、結婚前の女性は唇の下の顎に家に伝わるカーペットの図柄の刺青をしていて、結
婚後は額の上に嫁いだ先の刺青を入れ自分の所属先(アイデンティティ)を明らかにします。そして、実際にそのように
して織られたカーペット(両家の図柄が描かれた)を目にしたことでした。ミントティーをいただいた家を後にして裏へと
歩いて行くと、まさに要塞そのものを思わせる大変に立派な過って使われていたカスバがありました。写真に写ってい
た建物でした。
数軒の家族が集まってその周囲を壁で囲うやり方で集団生活する住居群はクソールといいます。クソール式のものとカ
スバスタイルが入り混じって街道沿いに立っていました。それほど自然と人間の両方からの危険が一杯の中で生活し
なければ、生きていけなかったということでしょう。
エルフードでは、強風の中四輪駆動の車で早朝砂漠へと行き、ラクダに乗りました。四海が全く同じに見える砂漠の環
境に生きた人々は、星や月を頼りに方角を見極めることで自然と調和していたことを感じました。さらに優秀な日本の
カメラは砂漠の砂嵐の前には用をなさず、砂が入り込んでしまいシャッターが下りませんでした。

何億年か前には、サハラ砂漠は海の中にあったそうで、海の生き物が化石になった岩山がこのあたりで見つかり、今
はみやげ物の一つとして化石入りの石の置物が売られていました。
             




649  トランプの妖しげな魅力




欧米人は友人たちや家族が集うと、トランプをして遊ぶことが多いようです。

欧米に行くと、飛行機の中やホテルのロビーやカフェなどで気軽にちょっとした時間があると、老若男女を問わずトラン
プに興じている風景をよく目にします。
トランプは4種類のカードからなっていて、スペードは刀剣の形をしていて貴族、軍人を表し、ハートは聖杯を意味してい
て聖職者、ダイアは貨幣の形で商人や市民層を、そしてクラブは農民の手にする農具を抽象化したデザインだそうで
す。
歴史の中で職業により階級,階層が分かれ生きてきたヨーロッパで生まれたようです。
日本では封建時代、士農工商と呼ぶ階級社会をつくりましたがヨーロッパと違って聖職者が入っていないのは興味深
い気がします。さらに4種類のカードには13までの数字があり、1枚デビル(悪魔)を入れることで和を乱す仕組みを考
えています。悪魔の誘惑により楽園を追放(人間の祖であるアダムとイブ)されて以降、地上を彷徨う宿命にある人間
を52枚のカードは表しているのでしょうか?
1週7日間に52(週)をかけると1年364日となり、1枚のデビルを足せば正に暦そのものに思えます。神は6日かけて
天地や生きものを創造し7日目は休まれました。7から始める7並べといい、ババ抜きといい何か背景に見え隠れする
ように思うのは、思い過ごしでしょうか?
14世紀ごろできたトランプカードが現存する一番古いものだそうで、イスタンブールのトプカピ宮殿に保管されていま
す。その後、フランスで今のようなトランプが考案されたそうです。
             



650  子供の目、外国人の目


1980年代(バブルのころ)、幼稚園・小学生だった私の子供たちが、日本で一番金持ちの人は月極さんでしょうと,私
に言ったことがありました。駅前近くの一等地には必ず広い駐車場があり、そこには月極と書かれた看板がありまし
た。土地の値段が高騰していた頃でしたので、子供の目には金持ちに違いないと思えたのでしょう。

東京の品川駅の近くには、移民事務所(イミグレーション・オフィスは外国人が日本で働く為に申請や滞在期間延長を
申請を願い出る所)があります。漢字の読めない彼らの間では、電車の乗り降り駅である品川駅のことを外国人の人
達は、スリーボックス(三つの箱)とスリーライン(三つの川)の駅と呼んだそうです。
いづれも日本人の大人には中々考えつかないものでした。
  

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