希望



631  全てが砂上の楼閣にならない為に




大陸では、文化や生活環境を町の中につくり上げるのは、主に町の周辺を支配した権力者の技量にかかっていまし
た。

町は周囲を壁で囲み、その中に住む人達は複数階のアパート暮らしで、憩いの場としての公園や水を汲むための噴水
や井戸、風呂やマーケット、教会などキリスト教、イスラム教に共通している街づくりの感覚です。いや歴史はもっと古く
古代ローマやメソポタミアのシュメール人の都市生活にまでルーツを辿れるように思います。
限られた都市空間を日常の生活に最大限に有効活用する知恵と同時に,敵の襲撃など突然非常時の際の備えを考
慮に入れた設計でつくってありました。歴史ある町には武器弾薬を保管する武器庫が町の中心にありましたし、教会の
建物自体が要塞としての役目を果たすほど頑丈に出来ていました。町に住む人達の憩いの場としての広場や庭園、通
りや橋、教会やモスク、風呂や市場などの設備は支配者の腕の見せ所であったことでしょう。

今でも,陽の当たらない暗い壁の中のアパート暮らしをしてきた人達は、本能にも近い外へ、通りへ出たいという思いが
あるかのように夕食前に家族揃って通りをそぞろ歩いたり、市場で楽しい談笑や公園の中を寒い冬でも歩いているほ
どです。コミュニケーションの場としての公共の場があり、公共の場を生活に取り入れ一人一人が使いこなす姿を見て
いると、私たちが知らなかった、いや失ってしまった公共の場やもっと大切な話し合おうという意欲、人を知ろうという好
奇心、子供の心をなくした現代日本人の寂しさを味わいます。
'人類みな兄弟、世界は一つ'などという造語が日本で使われ、見た目には印象はいいのですが、それを実現するには
不可能なほどの努力がいることを意識していない空虚なキャッチフレーズだとつくった日本人が一番知っているのでは
ないでしょうか?

遠く離れた外国の人には憧れ親切もするし夢も持ちますが、身近な同じ顔をした同じ言葉を話す知り合いでない日本
人には全く関心を示さず、語ることもせず無視する現代日本人は、町で生活する歴史的な世界の常識からかけ離れた
状況にあるように思えます。
それにしても、イランで通りがかりの中年の男性が旅の安全や自分の国を町を楽しんでほしいと離しかけてくる態度
に、そしてさらーと別れていく姿には長い歴史の中で積み上げられた魅力を感じさせました。私たちに必要なのは、隣
人にまず胸襟を開いて語りかけ日本人同士の節度ある付き合いを始めてみることのようです。明治の勃興期には清く
責任感の強い芯のある、分け隔てのない広い心を持った政治家,企業家、教育者、官僚、市民、親がいました。

結局の所、人の教育、心の教育、道徳教育が基本にあり、それなくしては全ては砂上の楼閣に帰することになるようで
す。
            




632  子供たちに伝えたいもの




日本人の美しい誇りに思う良いものを子供たちに伝えてあげたい。

どんなものがあるでしょうか?きっとたくさんあることでしょう。古い所から順に思いつくままに書き出してみます。
まず万葉集。歌心がある人なら誰でも参加し、そして選んだ人も広い心を持ち良い作品を身分や貧富、性別の隔てなく
載せました。人々の真実の気持ちがこれほどまでに伝わってくる作品が1300年も前につくられました。
日本人は元々この島々に南方の島々や、西方や北方の大陸からやってきた、異なった文化背景を持つ人たちであり
夢を抱いて移住した人もいれば、住んでいた土地でのやまれない事情から逃れてこの国に住みついた人達が、それぞ
れの技術や生活様式を伝え、この国の風土にあったものをつくりあげたのだと思います。日本人は雑種民族であり他
の土地からやってきた人たちを差別や蔑視しない、むしろ新しくやってきた人を暖かく迎え入れる気持ちをつくり上げて
いったことでしょう。

平安時代は400年近く続き,京を舞台に天皇、公家中心の時代でした。この時期に女性による文学作品が多く生み出
されました。その中に描かれた宮廷での生活は女性が母系制社会を作り上げていて、のびやかな女性の生活ぶりが
分かります。
一転して平安末期から鎌倉室町期には、男性の晴れ晴れしい、誇りと恥に生きた心振りが感じられます。田畑を一生
懸命に耕し、それを守ろうとする個の所有意識や家族を大切にする生き方の芽生えがありました。
室町期から江戸期の初めまで続いた朝鮮や中国、東南アジアへの進出も経済面での利益を求めての事とはいえ、大
きく視野が海外へと広がった日本人をつくりました。
江戸時代の250年は、外に門戸を閉ざし情報がなく淀んだ停滞期と思われた時代でしたが、地方では産業や教育面
での発展がありましたし、江戸や大阪、京都では都会の文化が庶民のものとして爛熟し今に伝わる日本の伝統文化に
なりました。俳句、歌舞伎、人情世話物語、浄瑠璃、相撲など多くあります。

そして幕末から明治の時代がやってきます。初めて日本全体が危機意識を持ち、下級武士を中心にした革命により旧
体制を倒し、新体制(王政復古)のもと真剣に欧米に学んだ留学生や政府・民間の指導者、何よりも明治を生きた人達
が万国法のもとに正々堂々参加し国際社会と競う心を持ち、官も民も潔い晴れ晴れとした気持ちで敵にも塩を送るい
たわりの精神をライバルに対して示したあの頃の日本人は、長い間欧米の圧倒的な力の前にうなだれていたアフリカ、
アジア、中南米の国々に希望を与えました。物には恵まれない貧乏な明治の生活の中で、あれほど高揚した精神の高
まりを日本全体が発揮しえた歴史があったことは誇りに思います。

第2次世界大戦後、廃墟の中から出発した日本が欧米に肩を並べるほど経済発展してつくりだした技術力に裏打ちさ
れた製品(自動車、電化製品、産業機械など)が世界中で賞賛されている今日もまた伝えたい大切な日本人の誇りの
一つです。
             




633  エジプト人をつくっている要素



人はいろいろな要素によりつくられます。

一人の20世紀に活躍したエジプトの文筆家がいます。彼はエジプトをつくっている要素として3つのものを考えていま
す。一つは純粋にエジプト起源によるものです。古代エジプトから受け継いだものです。自然や風土に根ざしたものもさ
しています。
二つはアラブの要素です。アラビア語とイスラム教、さらにイスラム文明を考えます。これらは決して外国から入ってき
たものという概念で捉えるべきでなく、アラビア語は古代エジプト語よりもはるかに身近にあります。
三つは東からやってきた西欧のギリシャ、ローマ、ユダヤ、フェニキアなどを古いものとして挙げ、アラブ、トルコ、十字
軍を中世のものとして、ヨーロッパやアメリカの影響を近世、現代に与えたといいます。
5千年の歴史を歩んだエジプト人を見事に浮き彫りにしています。

日本人の場合はどうでしょうか?
             




634  春には毛虫もピクニック




3月の半ばスペインのラ・マンチャ地方の赤茶けた大地をバスで走りました。

トイレ休憩に立ち寄ったレストランの中庭に毛虫の大群を見つけました。数珠繋ぎになって何組も数十センチから1〜2
米に達しようという毛虫の行列です。
春の陽気に連れられて地中から這い出してきて、皆でピクニックを楽しんでいるように見えました。
葡萄畑の傍には果物の木々の花が白く、あるいはピンクに色づき綺麗です。サクランボの花も日本よりは1ヶ月早く咲
いています。

人間だけでなく毛虫まで春を迎えた喜びを冬眠から醒め、這い出してきて団体での旅を楽しんでいます。


           



 635  バレンシアのカテドラル周辺では



クリスマスの頃と同様に、旧市街地区の街路はネオンの飾りに日が沈むと灯りが点り、春祭りの準備がすっかり整いま
した。

思い思いに散歩している人、広場や通りに出されたテーブルで飲んだり食べたりしている人もいます。教会では、ミサ
が大勢の信者で埋め尽くされる中行われていました。このカテドラルは、イスラム支配時代にはモスクでした。そして、
古代ローマ時代は市場が立っていたところでした。この辺りからは、更に古くフェニキア、ギリシャ、カルタゴ時代の建物
の遺構まで見つかっています。昔々からここを中心にして人々の生活のリズムが営まれ、現在に至るまで綿々と続い
ています。気の遠くなるような長い歴史の上にカテドラル周辺はあります。

歩いて数分も行くと、過って町を取り巻いていた市壁跡や町の出入りに使った壮大な門が残っていて今も訪れる人を驚
かせます
  

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