希望




601  私もまた女性ではないのか?



ミネソタ州のバトル・クリークという人口5万人の町に行ったことがあります。

カラマゾー空港からフリーウェーを30分走って着いた町は、インディアンと開拓者とのバトル(戦闘)があった所からバト
ル・クリーク(小川でも流れていたのでしょう)と呼ばれます。カラマゾーとはインディアン語で'煮えたぎる鍋'という意味で
す。アメリカらしい360度周囲が見渡せる平野の中に一つだけ聳えて立つホテルに泊りました。ホテルの2〜300米前
を鉄道が走っていて、時折汽笛を鳴らしながらアムトラック鉄道の客車や貨物車が通り過ぎて行きます。
ウィンチェスター銃(壊れた部品が初めて取替え出来るようになる)の普及と共に、開拓者を乗せたワゴンが通った
ワゴントレイルと鉄道の敷設を行いつつ広がっていったのが19世紀のアメリカです。この小さな町もおそらく同じような
うねりの中から生まれ育っていったのでしょう。何人かのアメリカを代表する人材(ポスト家やケロッグ家など)を輩出し
ました。
この町には、広大な公園(200ヘクタール)が野鳥や森林を保護する目的でいくつもあります。そこで働く人達はボラン
ティアがほとんどです。こういった公園はもともとは、この町で財を成したポスト家やケロッグ家(いずれも朝食でお馴染
みのコーンフレークなどのメーカー)が土地を寄付したのが始まりです。

黒人女性ソジョナー・トゥルーズはこの町で86歳の生涯を終えました。
彼女の生誕2百年を記念して発行されたパンフレットによると、南部アメリカで奴隷として生まれ、育ち、やがて逃亡して
北部アメリカにやってきて奴隷解放のため、また女性の人権獲得のために闘いました。
南北戦争では北軍側に立ち、黒人奴隷達に戦争の重要性を訴えました。
有名な演説の中に、'私もまた女性ではないのか?'と題する短いスピーチがあります。
男同様に汗を流して労働し5人の子供を育てますが、全ての子供が無理やり親と引き裂かれ奴隷として売られていき
ました。いっときとして女性らしく扱われたことのない彼女でした。

'イエス・キリストは男であって女ではない。女は男と同じ権利を持てないのだ'と言った黒人男性に対して、彼女は'キリス
トは何処から来たか?神と女(マリア)から生まれたではないか。男はキリストを生むのに何の役にも立っていないでは
ないか。神が最初につくった女性(イブ)がたった一人で世界をひっくり返す力がある(禁断の実を食べ、楽園追放にな
る)というなら、ここにいる女性が力を合わせれば、もう一度全てを替えることが出来るはずだ'と語り、聞いている人々
に感動を与えました。
黒人奴隷が北ヘカナダへと逃げていく際、この町に立ち寄り昼間はクエーカー教徒(新教徒の一派)の家に隠れ、夜に
なると大挙して北へと移動していったところからアンダートンネル・トラック(地下トンネルの道)が走っている町だという
評判も立ったそうです。
大草原の小さな町にこれだけのエピソードがあることに大きな驚きを感じました。



602  アメリカの朝のテレビ番組を見て



89歳にして大学を卒業(ハーバード大学)した女性や、車椅子生活をする26歳の青年がドクターになったこと、70代
半ばの女性が赤ちゃんを出産したなど暖かいニュースがいっぱいです。

夢と意思を持って生きれば、何でも可能だというアメリカらしい情報です。
そして黒人のプロテニス・プレイヤー'アーサー・アシュ'のライフスタイルをドキュメンタリーで流していました。医療ミスか
らエイズ患者の血を輸血されたのが原因で、エイズになり亡くなった人です。子供を愛し、家族を愛し、社会を愛し、ス
ポーツを通して恵まれない人達に勇気を与え続けた人です。人格者で、各界の著名人たちと協力し合い先頭に立って
人権擁護を訴えました。その為に何度か逮捕されました。1992年に南ア連邦のネルソン・マンデラさんが27年間の
牢獄生活から解放されたことは、よほどアシュ氏を喜ばせたそうですが、以後2人は友人となり亡くなる前のアシュ氏に
わざわざ公用のいくつかをキャンセルしてマンデラ大統領は会ったそうです。またエイズ治療研究のための援助活動も
亡くなる直前まで行いました。自分はダメかも知れないが他の人が救われるのであれば、自分は充分に満足している
とコメントされ本当に惜しまれつつ、この世を去ったそうです。

アメリカへくる度に思うのは、力の限り前進し努力する人を、どういう生い立ちであれ、何を職業にしている人であれ、
声援を送り讃える風土をつくっている素晴らしさです。
神の前に謙虚でありながら仲間である人間に対しては、精一杯自分の信じる道を訴え、仲間と共に歩こうとする人達が
多い国です。



603  コーンフレイクは結核療養所での人気のメニューだった



ビュフェスタイルの朝食を出すホテルレストランなら、世界中どこでもシリアル(コーンフレイクが主)がおいてあります。

このシリアルは米国で19世紀末に生まれたようです。もともとは、結核療養のために全米からやってきたミシガン州の
バトルクリークにあった療養所での病人用の食事として、ケロッグ先生あたりが中心になり食べさせたようです。安静に
して栄養のある食事を取るのが結核には一番いいとされ、朝から肉や卵などを食べさせるといった具合でした。

病が癒えて自宅に戻ってからも、病院で食べたシリアルが忘れられず同じものを食べたいと要望があり、ドクター・ケロ
ッグの弟W.C。ケロッグが販売し市場化に成功したそうです。同じ頃、この町でポスト氏もシリアルを開発し今に名が
残るポストブランドが売られ、大成功を収めました。

バトルクリーク訪問記念にスーパーマーケットでケロッグ社の大型コーンフレイクを買いました。



604  先史人の描いた岩絵があるノールカップあたり



夏至の頃、ヨーロッパの最北端ノルウェーのノールカップ(北岬)に行きました。

北緯71度にありますが、メキシコ暖流が流れ真冬でも海が凍ることはなく恵まれています。真夜中の太陽が水平線近
くまで近づきますが沈むことなく(白夜)再び上空へと放物線を描くように昇っていくそうです。1時間半ほど岬の上から、
あるいは見学用の建物の中から見つめていましたが、肉眼で見る太陽は光が強すぎますし短時間では変化の様子は
見てとれませんでした。僅かに売店で売られている絵はがきの中に、時間を追って撮影した太陽の動きを見ることで変
化の様子が分かります。それにしてもこの北端の地に年間20万人の人が来るそうで、5〜10月まで賑わいます。

また偶然に見つかった6千年前の先史人の描いた岩の上に残る絵(トナカイ、エルク、漁夫や舟など)が見つかり、一
般公開されこのあたりに生活していた人々を偲ぶこともできます。
一度はこの地を訪れたいと願った人は400年前あたりからいたようですが、19世紀末には探検家や王家のプリンス
などが海から船でやってきて、断崖をよじ登って岬のテーブルロックの上に立ちました。私達はバスで近くの町からやっ
てきました。午前3時過ぎにホテルに戻りベッドに入ったのですが、外はあまりに明るく窓のカーテンを引いて眠ろうとし
たのですが、カーテンの隙間から明かりが差し込んでいました。



605  アイビー(つた)のお話



アイビーの中には、少し触るだけでもかぶれてしまう毒素の強いのがあります。
アメリカの植物園で、ボランティアの婦人がわざわざ傍まで連れて行き説明してくださいました。

ほとんどのアイビーはかぶれることはないようです。
英国から米国へ移民した人達が故郷のアイビーを懐かしんで,学校の校舎の壁などに這わせたようです。有名な所で
は、東部海岸(大西洋)に点在する名門私立大学リーグをアイビーリーグと呼びます。コロンビア大学、プリンストン大
学、ハーバード大学などの名前が浮かびます。
アラバマ州出身の3重苦(聞こえない、見えない,話せない)を克服したヘレン・ケラーさんの生家にもアイビーが元気よく
茂ったいたのを思い出します。


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