希望



596  夢に有難う



夢を見ました。

本当に久しぶりのインドの夢でした。最初は何処か分かりませんでした。ホテルの冷蔵庫の中や部屋が現れ、何か暑
い感じでした。そして、駅のシーンに変わりました。駅前や駅の中の中央待合室あたりのゆったりした場面が見え、私
たち旅行者数名も割りとのんびりしていたように思います。
乗車券はオーガナイザー(団長)の方が持っておられたようです。しかし、大きな乗車券には乗る車両の番号は書いて
ありましたが、座席番号は書いてありません。やがて掲示板に乗る列車の入ってくるプラットホーム番号の案内がでま
した。スーツケースなどをプッシュカートに乗せ急いでプラットホームに向かいます。構内は入り組んでいて中々プラット
ホームに着きません。やっとの思いで着くと,物凄い混雑で列車は今にも出ようとしています。最後尾の車両に乗って
いる車掌に大声をあげてシグナルを送るのですが、要を得ません。前へと進むうち列車は出て行ってしまいました。年
若いオーガナイザーが私に、この込み合う状態が予測できたのであれば、どうだこうだと説教を始めます。私は話を遮
り多少熱くなった気持ちを抑えつつ、ステーション・マスター(駅長)に掛け合いに行くと言っていました.そして、眼が覚
めました。
懐かしかった。
30年も前によく行ったインド、そしてよく乗った列車でした。駅の中やプラットホームに人が多かったのは当たっている
のですが、夢の中ではかなり状況設定が違っていました。実際のインドでの30年前の鉄道駅の有様は、まず荷物は
駅ポーターを使って運びました。インド人ガイドが入念に乗るべき列車、プラットホームで乗る車両が止まる位置などを
駅ポーターと打ち合わせして、かなり時間に余裕をもってプラットホームに行ったものでした。切符も私やオーガナイザ
ーが手にすることはありませんでした。全てインド人ガイドの技量に頼って、初めて鉄道の旅が可能であったと思いま
す。寝台車の上に敷く寝具もレンタルして借り、列車に乗せ降ろししたりベッドメイキングを専門にしてくれる若者を雇っ
ての旅でした。騒然とした駅やプラットホームの雰囲気を久しぶりに思い出しました。今はどうなったことでしょう。
もしかしたら、ヨーロッパ並みのスムーズに動く鉄道システムに変わってしまったかも知れません。あの鉄道の旅は、イ
ンドそのものでした。列車を待つ風景は、洋装あり民族衣装あり、男女、車掌、ポーター、外人旅行者、物売りが入り乱
れて、頑丈に鉄でつくられた列車をめぐり、繰り広げられる10分〜20分のドラマでした。こんなに興奮して夢から覚め
たのは久しぶりでした。

インドさん有難う。



597  ユダヤ人について



1500年代初め、スペインのイザベラ女王(新大陸アメリカを発見したコロンブスのパトロン)の孫にあたるカールは神
聖ローマ帝国皇帝カール5世として、同時にスペイン帝国皇帝カルロス1世として、ヨーロッパや新大陸アメリカを中心
にした世界中に睨みを利かした最高権力者になりました。

この皇帝に金銭面での援助をしたのが、アウグスブルグ(古代ローマ人のつくった歴史ある町)の商人たちでした。わ
けてもヤコブ・フッガーは'陛下は私のアドバイスなくしては皇帝の王冠をかぶることができないのは、みんな良く知って
いる'と云ったそうです。
ユダヤ人によるシンジケートが商品流通の鼎であったことをよく言い表しています。スペイン帝国も何とか16世紀は新
大陸アメリカからの物産の大量の流入で栄えましたが、ユダヤ人をスペインから追い出したのが結果的には帝国を斜
陽に向かわせることになりました。
第1次、第2次世界大戦でもロスチャイルドに代表されるユダヤ資本が連合軍の援助に回り勝利しますが、取引の結
果イスラエル国が生まれ、今に至るパレスチナ問題を含む中東地域を複雑なものとしています。ユダヤ人は結束が固
く商才に長け、シンジケート網をつくり排他的に,主にユダヤ教により結ばれていて歴史の中で大きな役割、影響を与
えてきました。イエスをメシア(救世主)と認めず杭に架け、メシアを未だ待ちつつ選民として生きているのがユダヤ教徒
です。
実業界,政界、学会をリードする優秀な人材を送り続けるユダヤ人です。
よくもここまで歴史を通していじめられ目の敵にされながら生き抜いたものです。安全はタダでなく、幾ら金を出しても安
全を買えるものなら,そうして生きるという信条などは日本人には考えられない世界です。旧約聖書(ヘブライ語で書か
れる)の中に書かれているユダヤ民族の歴史、そしてイエス以降の現在に至るまでの迫害などの厳しい体験をした人
達です。世界にはユダヤ教徒、ユダヤ人ほどではないにしても似たような体験を持つ民族は多くいます。

私たち日本人は世界の中において、生き抜く精神的逞しさを持っているでしょうか?



598  教会の鐘の音が朝も夜も鳴り響く街



ドイツのシュバーベン地方の都、アウグスブルグにきました。

町の名の由来は,帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスからつけられました。ドイツで一番観光客が訪れるロマンチック
街道沿いにあり、ローマ時代から開けたところです。
中世の時代は金融業で財を成したフッガー家のお膝元として有名になりました。特にヤコブ・フッガーは'神聖ローマ帝
国皇帝カール5世は、自分に相談することなしには王冠を被るのは難しい'と語ったそうで、随分と金銭や経済面の援
助をしたようです。今もこの町は昔と変わらずフッガーがつくった建物があり、五百年の長きに亘って使える建物にも驚
きますが、それ以上に貧しい人達や老人への暖かい思いやりが伝わってくる当時から今に至るまで老人ホームだとい
う長屋風の建物などは、アウグスブルグ市民の優しさを感じます。
町一番の大通りはマクシミリアン(カール5世の父の名)といい、その通りには中世の建物が残っています。この町の繁
栄を支えた大富豪たちの住居や市民の自冶の象徴である市庁舎や教会などがあります。戦争の度、火災や破壊の被
害を受けましたが主要な建物は、昔通りに復旧してあり大変に美しい目抜き通りです。この町でモーツアルト(1756〜
1791)の父レオポルドが生まれました。
シュバーベン地方の人々の気質は、質素を旨とし'銀行に預けるよりは自宅の床下に現金を蓄える'といったイメージだ
そうです。

泊ったスタインゲン・ベルガーホテルはフッガーゆかりの建物が並ぶマクシミリアン通りにありました。そして朝となく夜
となく何処からか教会の鐘の音が響いていました。



 599  ドイツの原子力発電所は川のほとりに



ヨーロッパでは原子力発電に頼るエネルギー供給を減らそうという動きが、ここ数年活発になっています。

日本の専門家の方々と訪れたのは、1990年代の末の頃でした。アウグスブルグから西へ1時間、ドナウ川のほとりに
グンド・レミンゲン原子力発電所がありました。周辺は静かな佇まいで小さな村や農場などがあります。受付で30分か
けて身分証明の手続きや身体検査があり、会議室へと案内されオペレーション責任者から説明を受けました。OHPを
使って真面目なドイツ人の印象通り、しっかりした準備をしてありテーマ別に専門の担当者が説明しました。私のような
全くの素人が聞いていても分かったような錯覚を覚えるほどです。多分にそれは通訳の能力によるものでした。

発電所の事故原因の2割弱はヒューマン・ファクター(人的原因によるミス)だそうです。
神ならぬ人間はミスを犯すことがあり、自主的に申告できる環境が大切だという説明でした。この発電所でバイエルン
地方(ドイツの南部一帯)の電力の1/3を供給しています。
コントロールセンター室では、24時間フル活動で4シフト制、6組(12〜13名で構成)に分かれ6週間で一巡する形で
働いています。
ドイツの格言にあるように'天使が旅をすれば空が微笑む'の通り、日本から16人の男性エンジェルたちが来たのを喜ん
でくれたのか、5月の暖かい日差しに包まれています。

次は、ネッカーGKN原子力発電所に行きました。そばにはネッカー川が流れ、古い街道が走っています。数百メートル
離れたところに小さな集落があり、統一された赤い屋根、クリーム色の壁の家が教会の尖塔を中心に集まっているの
が、昼食の時発電所の最上階のゲストルームから見えていました。デザートは巨大なイチゴケーキがオプションではな
く義務として食べるように云われ、さすが大食いのドイツだという印象を持ちました。紅白のワインもありましたが、いづ
れもこの村や近くの村の丘からつくられた地ワインです。
ここでは、原子炉格納容器室に入りました。容器室に入る前と後で器械による身体への放射能の有無検査がありまし
た。映画で観たシーンの再現を自分が主役で演じている気持ちに少しなりました。燃料棒の入った放電中の大きな水
槽の水の色の美しいのに感動しました。イタリアのナポリ近くカプリ島の青の洞窟内の水の青に匹敵するほどの印象で
した。

日本では、海のほとりどちらかと言えば、一般の集落とは隔たったところにあるのに、ドイツの原子力発電所が川の中
流につくられていて、近くには村や牧場があるのにも驚きました。



600  中世は働く人、戦う人、祈る人の時代



額に汗して働く人が出世しようと想えば、戦う人になるか祈る人になるかしか道はありませんでした。

スタンダールの描く'赤と黒'の世界です。赤とは軍服の色であり黒は僧侶の着る僧服の色です。農家出身のジュリアン・
ソレルが背伸びして世に出ようともがく姿は、18〜19世紀に至るまでのヨーロッパでの厳しい環境を表しています。今
でもヨーロッパでは国を超えて共通していることは,上流階級(貴族や実業家)と一般労働者階級の二層で構成される社
会という目で見るのが分かりやすいと思います。

例えばチップやノブレス・オブリジェ(貴族の責任)などの言葉に残る責任感、義務感を背負って生きる支配者やリーダ
ーの中に、今もヒーローとして語られるナポレオン、ド・ゴール、ネルソン、ウェリントンなどに自らを厳しく律して生きる
支配者層の戦う人の姿を感じます。ヨーロッパは地続きで繋がっています。歴史ある町は町の周辺を壁で囲み、陸の
孤島に似た姿を見せていました。町に住む人は一朝事が起これば武器を持って戦う人になりました。町に1年と1日住
めば、自由人になれる仕組みもありました。町の空気は人を自由にするという格言もあります。自由を得るには責任あ
る戦う人、市民にならなければなりません。こういった中から近代ヨーロッパ人が生まれました。大陸に住む人は、歴史
を通して戦って生きぬく生活の中、平和な時は少なかったようです。
丁度ヨーロッパの冬は太陽が殆ど顔を出さない厳しい冬ですが、それを戦争の脅威に明け暮れた時とすれば、時々日
が差す暖かいひとときが平和と感じられたと表現した犬飼道子さん独特の表現を思い起こし、冬の風景をヨーロッパの
歴史に例えた才が冴え渡ります。
さらに定期的に襲った恐ろしい疫病(コレラ、ペスト、インフルエンザ、チフス、マラリア、麻疹など)やライ病、栄養失調
などで亡くなった人の数が戦で死んだ人を上回るそうです。祈る人の役目が大切であったこともよく分かる気がします。

翻って狭くない海で囲まれた日本は、海が市壁や城壁の役割を果たしたようにも思います。海を渡ってやってくる情報
や技術は恐怖を与えるものでなく、むしろ生活を向上させる有難いものが多く、安心して取捨選択して役に立つものを
利用できる立場にあったようです。

日本国内は大陸の人と異なり,礼儀をわきまえていれば割りと階級の階段を駆け上ることも可能でした。働く人の階級
は職人は匠,農業に携わる人は天に近い人といわれ、むしろ尊敬もされました。どちらが幸せだったのでしょうか?


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