希望




591 勝ったり負けたりの歴史は大人へと成長させる?



1815年6月18日ブリュセル郊外のワーテルロー村で14万人の兵隊が戦った、フランス軍と連合軍(英国、ベルギ
ー、オランダ、プロイセン)の戦場跡に行きました。

当時、前夜降った雨で足元はぬかるみ、戦いは昼前から始まり夕方にはフランス軍が総崩れとなった天下分け目の関
が原といった様相でした。攻撃したのはフランス軍(鉄砲や大砲と騎馬部隊の併用を得意にした)でしたが、雨のため
機動性に長けた戦法が機能しなかったのと、カリスマ・リーダーであったナポレオンが戦場にはいなかったことが災いし
たといわれます。ナポレオンは体調を崩していたともいわれていますし、プロイセン軍を恐れていたともいわれます。トッ
プ・ダウン式の大陸での生き方、戦いの中でリーダー不在のフランス軍は破れ去りました。ナポレオンは捕虜となり英
国へ連れて行かれ、船で判決が出るまで待機させられました。その際甲板上から見えた郊外や田舎の風景が気に入
り、引退後は英国の郊外に住もうかと側近に漏らしたと言い伝えられますが、大西洋上の孤島セント・ヘレナへ島流し
になりました。
パリ/ロンドン間をつなぐユーロスターのロンドン駅はワーテルローであり、フランス人にとっては余り聞きたくない名前
を英国はつけています。パリに行けば、逆にオルレナンの少女、ジャンヌ・ダルクが騎馬姿で剣を抜き英国を破った勇
壮を英国人は目にすることになります。



592  マルモッタン美術館前の公園での土曜日の夕暮れ時



パリの16区にあるマルモッタン美術館を閉館間際の30分,郊外線と地下鉄を乗り継いでド・ゴール空港から駆けつ
け、滑り込みセーフで駆け足で館内を見て周りました。

見所はモネの絵のコレクションです。インプレション(印象)という名前や印象派の画家たち(インプレショニスト)が初め
て、権威ある画壇で評価されるきっかけになったモネの作品'レバントの日の出'(1873)やその隣に掛けてある小さな
絵に見とれました。
その小さな絵とは、ノルマンディのトロービル海岸をパラソルをさして歩く女性(1870)ですが、新しい絵画の時代の到
来を告げる印象深い大作でした。美術館の建物も庭も19世紀のブルジョアの勢いを充分に感じさせるものです。

行きは急いでいたのでメトロ駅(9番線のLa Muette駅)から公園を横切り直行したので、周りには目が届きませんでし
たが、帰りはこの広い公園で憩う人達の姿に目が行きました。4月の初め暖かい日差しの注ぐ中、芝生に横になってく
つろいでいる家族連れや恋人たちが大勢います。この16区に住む人達は、パリの中でも特に裕福という評判です。

係りの男性が1人いて、無料で手で回す素朴な回転木馬の周りは家族連れで賑わっていました。かなりペンキも禿げ
ていますが、乗るのを順番待ちしている様子です。木馬に乗っている子供たちは手に短い木の棒を持ち、係りの人の
傍にぶら下げてある金属製の輪を目掛けて回転する木馬上から棒を突き出しています。首尾よく棒が輪の中に入ると
自動的にリングが棒に落ちるようになっています。やんやの歓声が上がっていました。
疾走する馬上から的のリング目掛けて槍を突き刺す大人のゲーム(アルゼンチンの牧場でカーボーイ達が実演したの
を見たことがあります)がありますが、そのゲームの子供版といったものでした。係りの人はリング(輪)を切らさないよう
に,自動的にリングが下にさがり棒の標的になるようにつくられた器具にスペアリングを上から入れつつ、子供たちにも
注意の目をやっています。回転木馬を回す役をかってでている父親もいました。
おそらく古くは、中世の時代騎士たちが疾走する馬上から槍で歩兵を蹴散らしたり、儀式化した騎士同士の槍試合な
どにルーツがあるのでしょう。

空港へと向かう途中、トロカデロ広場で夕日が沈み行くころエッフェル塔に見とれ、さらにシャンゼリーゼ通りでも路上
のカフェで休み、イースターが終わって間がない週末のたそがれ時行き交う人を眺めていました。
飛行機を乗り継いで、日本へと帰る合間を利用しての挑戦でしたが、充実したひと時でした。



593  警官の愛称はボビー



1829年ロンドンにおいて、ロバート・ピールさんによって創設されたのがロンドン警察だそうです。

今も警官のことをボビー(ロバートの愛称)と親しみを込めて呼ぶ人もいます。産業革命でロンドン市が大きく発展し、新
しい警備の必要から生まれました。銃ではない、こん棒(如意棒?)1本だけでロンドンを見回っているボビーのきりりと
した姿に,気軽に市民や旅行者が声を掛け易い、生活に密着した優しい関係をみると、伝統を大切にするイギリスの
頑固ないい面が残っているのに気付きます。

現在では、警官よりも私設の警備保障会社が先進国を始め世界で広まっています。
1970年代以降、顕著に発展しているビジネスで,事件の発生を未然に防ぐ予防警備の点でも今後さらに伸びると考
えられています。



594  外国人が日本語を上手に話すのを聞いてもどこか




ベルギー・オランダの旅をして、日本女性を母にオランダ男性を父に持つ女性に、数日ガイドしてもらいました。

名はめぐみさんといい、姿見も背の高いのも100%外国人です。日本語はマースリヒトの大学で習い、半年ほど東京
に語学留学したこともあるそうです。彼女の話す日本語を聞いていて、何処か私たちの話す日本語と違うのを感じま
す。
ウラル・アルタイ語に属する日本語は、膠着語といって、て、に、を、へ、などの助詞をつけて文章をだらだらと続けてい
くところに特徴があるそうです。
概して、外国人で日本語を上手に話す人でも、てにをへの使い方が難しいのではないでしょうか?それが何となく私た
ちの耳に、彼らが話す日本語を異なる響きに感じさせているように思います。
ウラル・アルタイ語系の言葉を話すというバスク人、フィンランド人、ハンガリー人、トルコ人,韓国人の話す日本語に是
非機会があれば、注意深く耳を傾けてみたいと思います。



595  ある方の述懐



1941年12月に太平洋戦争は始まりました。

当時、この人はホノルル近郊に住んでいました。12月7日の日曜日、早朝7時ごろ真珠湾攻撃が始まりました。屋根
の上に登って見ていたそうです。それは見事なもので、軍事施設と係留されている戦艦だけを狙ったものでした。周辺
の市民の住む住宅地区は、火の手は上がりませんでした。本願寺ミッションで日本語学校の先生をしていた、帰米2世
(生まれたのはアメリカで育ったのは日本)のこの人は、半年後の42年の5月に現在のホノルル空港近くのサンド・ア
イランド(軍事基地)に連行されました。およそ1年間この基地に監禁されました。何回か日本軍によるホノルル空襲が
あったそうで、時には取り調べ中の最中にもありました。白人の取調べ官は雲隠れしたそうですが、この人はサンド・ア
イランドに入れられた時から腹を決めていたそうで、その空襲の時も一人取調室に残りました。
空襲が終わった後、おっかなびっくりで帰ってきた係官から勇気があると感心されたそうです。考えてみると、スパイ容
疑で拘束されたわけで、このような蛮勇を見せることは逆に疑いを増すことになったかも知れません。
やがて、アメリカ本土のユタ州ソートレイク市近くのトパーズ収容所に送られました。半年そこで過ごしたそうです。何回
かに渡ってアメリカに忠誠を誓うかと尋ねられたそうです。天皇陛下や親、兄弟に銃口を向けることが出来るかなどの
質問も含まれていました。

当時の帰米2世にとり、日本に対して刃を向けることは出来ないことだったでしょう。
短波放送を通して送られてくる日本語放送は、日本が勝っているという内容の戦況情報であり、収容所内での若者の
態度も日の丸のついた鉢巻を頭に巻き反米感情丸出しの行為もあったそうです。この方は、日本語通訳の養成機関
の先生にとの依頼を断り、最終的には最も手ごわい反米感情を持つ人達を収容するためにつくられた、収容所へと移
されました。
カルフォルニア州とオレゴン州との州境に近いツーレイクに43年9月ごろから入れられ、終戦までいました。46年1月
にオレゴン州ポートランド港から船で横浜近くの久里浜に帰って来ました。桟橋には捕虜交換などで帰国した日本兵も
多く上陸していたそうです。
そういった元日本兵たちは、港に来ている日本人たちから、あなたたちがダメだから戦争に負けたんだと罵倒される中
で上陸していったそうです。故郷へと向かう列車でも窓を壊して乗り込んでくるなど、規律はなくなっていたそうです。こう
いう日本なら帰って来なければ良かったとも思ったそうです。

米国はこの人の言葉を借りて云えば、やはり偉大な国であったということになります。確かにイタリアやドイツも日本同
様,米国を敵として戦ったのですから、収容所へと送られるドイツ系移民があっても可笑しくはないと思います。しかし、
日系アメリカ人のみが疑われ(実際は、カナダやメキシコ、ペルーなどに移民した日本人も含めて)収容されました。そ
の背景には、日本人の拡大された捉えどころのないイメージがアメリカにはあったようです。1900年代に入ると、何回
かに亘ってアジア人のアメリカ移民受け入れ反対運動がありました。空襲下、取調べ中堂々とて、動かなかったこの人
のような態度が日系アメリカ人への恐れを抱かせたのかも知れません。

この人は二度とアメリカの地を踏む積もりはないそうです。
サンド・アイランド、ユタ州のトパーズ収容所において、自分の気持ちを取り調べ官に伝えました。日本に対してだけは
銃口を向けるわけにはいかないが、米国人の務めとして喜んでヨーロッパ戦線に行く気持ちがあると、取調べの都度
いいました。しかし、考えてみると米国人である以上、どの国に対しても戦争であるからには戦うのは国民の務めです。
古代ギリシャ以来の常識といえます。日本に対してだけはご免こうむりますと言った、この帰米2世を初めとする一部の
日系アメリカ人に対して、殺すことはせず収容所生活をさせ、家族を呼び寄せ同じ屋根の下での生活や結婚、赤ちゃ
んの誕生に至るまで許したアメリカを,今となれば素直に感謝し認めています。

戦後10年近く過ぎ自殺した親戚の方は、日本陸軍の中佐であった人ですが,元軍人に恩給が支給されることが国会
で通ったのを知って、まもなく納屋の鴨居で首をくくられました。それ以前にも何度か自殺を試みた人でした。戦争で部
下を大勢殺したそうで責任を感じておられ、自分ごときが恩給を貰うわけにはいかないと思われた末の行動でした。
日本人としての、いや日本で育ち成長した人として、日本への気持ちが愛国の心を育て、戦争という非常の状況下で
のそれぞれの反応を生みました。
さて、大切なことは何だったのでしょうか?


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