希望




586  運転マナーと添乗員資質の比較



道路上でレーンをしきりにかえる落ち着きのないドライバーはいるものです。

大抵は周りの車が、程よくスペースを空けてくれるので事故にもならず流れていきます。私は、こういうセカセカ運転
は、上手下手は関係なく路上で車を操作する適正がないと思います。かって私も運転していたので、なおかつ適正では
ない者でしたから同じ仲間として分かります。こういうタイプの人は、運転に対して自信がないのです。目標もないし、マ
ナーもなく、何処を見て運転するのかも定かではありません。その時その時の気まぐれで変わります。他の車の運転手
の気持ちが分かりません。さらに周りの建物や風景を愛でるゆとりもありません。こういう人は、運転しない方が良いと
思います。
一方、旅行の添乗の仕事にも向き不向きがあります。
同じメッセージ、例えば外国は日本と異なり危険があり得ることを伝えるとすれば、ただ例を挙げながら危険について
話すのと、旅を積極的に前向きに捉え、そこに住んでいる人との交流を大切に思い、どのようにすれば難に会わないで
済むかを考えると、姿勢を正しくして周りを見る配慮をするようにアドバイスするのとでは,聞く側にとっても受け取り方が
違ってきます。

やる気を起こさせるような、チャレンジしたくなるような前向きな話し方のできるコンダクター(添乗員)がいいと思いま
す。



 587  ローマのプラザホテルでの思い出



2キロ近い直線コルソ通りは、ポポロ広場とベネチア広場を繋ぐローマの中心通りの一つです。

コルソ通りから枝分かれして行く道の1つがコンドッティ(水の道)通りでスペイン広場に行く道です。そんなローマの中
のローマとでも呼ぶに相応しい所コルソ(競馬という意味)通りに面したプラザホテルにバブル期(1970年代〜80年
代)の頃、よく泊りました。
ドアーマンの立つ回転式入り口を通って中に入ると、右に受け付けがありロビーはさらに奥深く長方形の空間そしてさ
らに広い大きなステンドグラスのキュウポラを持つ正方形の巨大な広間へと広がっていました。1860年につくられたシ
ックなクラッシック調の内装になっていました。バブル期のころは、このホテルに対する評価は決して高くなく、むしろエ
レベーターが古く小さすぎるとか音がするとか、通りに面した部屋からは外の騒音が煩くてよく休めないとか、エアーコ
ンの音がするなど添乗員泣かせのホテルの一つでした。

しかし、2005年の春、懐かしく一人でぶらっと立ち寄ったプラザホテルは何も変わっていませんでした。昔どおりのドア
ーマン、受付、三つに分かれたロビー階の素晴らしい装飾で飾られた空間は、バブル期の日本人には落ち着いて評価
できるだけの目が,風格がなかったことを私に教えてくれました。2階へと登る手すりつきの大理石の広いカーブした階
段の上がり口の両側の手すりの上に置かれたライオン像、床の色大理石の模様,ステンドグラスやストッコ模様やフレ
スコ壁画の壁、シャンデリア,一流ホテルの証である生花が素晴らしい花瓶に堂々と山盛りに生けてあります。
ロビーの中ほどのソファーに腰掛け、グラッパ(葡萄でつくる焼酎)を注文すると、やがてピーナツやピスタッチオ、ポテ
トチップなどの入った皿を一緒に持ってきてくれました。
ゆったりと19世紀半ばの室内装飾を愛でながら、少々感傷に浸った1時間でした。
今は、煩わしい団体客をとることはせず、本来の気品のある個人客相手のゆったりしたリズムに帰っているようでた。。



 588  バイリンギュアルの学校がタイに



幼稚園から小学校、中学校まで一貫した全ての教科を2カ国で教える私立学校がバンコック市内に数年前に出来まし
た。

日本にもあるようなインターナショナル・スクール(外国人の子供を中心にした、母国語を忘れないための、そしてやが
てそれぞれの国へ帰っていくのを前提にした学校)とは違い、ここではタイ人の子供だけが学ぶタイ語を半分、そして他
に子供が選んだ言葉(英語、フランス語,ドイツ語、日本語などがある)を一つ加え、外国語はその国のネイティブの先
生が教える学校です。
タイでは、義務教育(小,中学校)は無料で誰もが受ける権利がありますし、国を愛する人材を育てる責任が国にあり
ます。従い、タイ人の子供を対象にわざわざ有料で,タイ人が経営する外国人教師による外国語を教える私立学校の設
置には、文部省などから疑問や反対があったそうです。
40歳前後の温厚なタイ人校長は学校を開くまでの苦労や、開いてからも今に至るまでのいろいろな苦労を訪れた日本
の県会議員団を前に淡々と語ってくれました。

その日は、会議室にバンコックの文部省からやってきた女性の方がタイ国の教育事情について型どうりの難しく分かり
にくい話を30分近くたどたどしい英語で、スライドプロジェクターを使いされました。次にタイ人校長が校長をサポートす
るスタッフ(10名前後)を一人一人紹介されました。日本人教師を含む各国からやってきた、タイ事情に精通した教師た
ちであり、中には教頭の職を兼ねている人もいました。50名を越す外国人教師は、全員タイの歴史、宗教,文化を大切
に考え子供たちに接し、外国の文化をそれぞれの言葉を通して教え、本当の意味での2ヶ国語(バイリンギュアル)を理
解して使える人を育てたいと考えています。幼児の段階ではタイ語に重点を置き、学年が上がるに従い外国語の時間
を増やすそうです。

東南アジア間での交流、貿易が盛んになるにつけ、互いの国が理解を深め真に平和な地域社会をつくりあげるために
は、共通して語れる言葉の大切さや、それぞれの国の文化を暖かく認める教育が必要と感じた学校経営者や校長、教
師たちそして父兄が周囲の疑いの眼を乗り越えて始まった学校だそうです。
会議室の中には、扇風機が2〜3個回っていました。1時間半の短い滞在でしたが,廊下や教室の中に見る制服を着け
た中流階級の子供たちは、明るくおとなしく振舞っていました。
教室の出入り口には靴が並べられていて、教室内は靴を脱ぎ授業が行われている様子でした。
教育の現場が荒れている日本と比べてみて、この私立学校の希望に満ちた試みを支えているのは、ひとえに教える側
の熱意に因ることが分かります。
住宅の密集する中に建つ、この私立学校は東南アジアの明るい明日を感じさせてくれました。



589  殺人、スパイ、幼児虐待は死刑



千年(9世紀〜18世紀)の長きに亘って独立を保ち、地中海交易で栄えた都市国家ベネチアの顔といえば、デゥカーレ
宮殿(政庁舎)とサン・マルコ大聖堂でしょう。

自冶の象徴である宮殿は、ドージェ(終身元首)の家族が生活したプライベート空間、公の業務を行う謁見の間や政
治,宗教,経済など多岐に亘る分野の議論の場としての大小さまざまなサイズの部屋,裁判所や牢獄、官僚の執務室
などがありました。
公式のデゥカーレ宮殿の出入り口は中庭に面した大理石の階段で、登ると左右両側に二体の巨大な大理石の彫刻が
あります。一つは、ポセイドン神(海の神)でもう一つはマルス神(軍神)です。高速ガレイ船を用い、地中海世界に睨み
を利かせた海軍力(軍事力,暴力)と経済力(オリエント世界との貿易で富を蓄える)と情報力(若いとき、貴族は率先し
て軍人として外交官として商人として外国に行き住み、母国のために汗を流す)の3拍子が長い間揃っていました。そし
て、殺人やスパイ、幼児虐待には極刑をもって対応した厳しい制度の上につくられていました。

様々な色大理石を使いデザインした床や、大きな大理石の自然の模様をそのまま生かした壁、ガラスのモザイクが美
しい宗教画が天井や上部の壁に描かれているサン・マルコ大聖堂はビザンチン帝国やイスラム世界の影響を多く受け
ています。元々は、ドージェの個人用の礼拝堂だったそうですが、西ヨーロッパで数少ないオリエンタルな雰囲気を醸す
教会となっています。



590  地獄と天国がそばにある町



欧州の通貨統合(ユーロ)で有名になったマースリヒトの町は、オランダの最南端にありベルギー、ドイツの国境へも少
し行けば届きます。。

マース川が町の中を流れ、古代ローマ人がここに橋を架け、要塞を築いたのが始まりです。
旧市街はオランダには珍しく堅牢な石造り(通常はレンガを多く使う)の建物や石畳となっていて、風情のあるいい町で
す。川に沿って市壁が残っていて、特に地獄の門と呼ばれる町への正面出入り口は、鉄砲や大砲が普及する以前に
つくられたものです。名の由来は、攻め来る敵と戦う市民の有様はきっと地獄絵を思わせるほど凄まじかったところか
らつけたといわれます。この地獄門のすぐ外には、かってペスト(黒死病)患者を収容した病院があります。患者の目に
は、町の中に入るのを拒むかのようにそびえ立つ門が恨めしく地獄門のように見えたところからついたという説もありま
す。病院だった、この建物はコンサートホールになっていて、その名もペストホールだそうです。
地獄門の壁の並びに市壁をくり貫いて入り口をつくり、倉庫を改造した建物があり、若者の夜の社交場ディスコとなって
いて、その名も天国ディスコといいます。歴史が綿々と流れ続け、現在まで楽しくユーモアを刷り込んで名前を残す、こ
の町の人の知恵に感服しました。


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