希望



581  何をするか分からないという気持ちがエスカレートすると



太平洋戦争(1941〜1945)では、多くの日系アメリカ人ほかペルー、パナマ、グァテマラ、カナダといった太平洋に面
したあるいは近い国々に移民した日本人が収容所生活をしました。

日米開戦に先立つ1898年に米国はスペインとの間に米西戦争を行いました。キューバは当時スペイン領でした。メキ
シコ湾へ太平洋艦隊を送るのに、南アメリカ大陸南端のホーン岬を回らなければならず、大変な苦労をしたそうです。
そこで、パナマ運河をつくり太平洋と大西洋を結ぶ最短時間で運行できる水の道の発想が生まれ、20世紀の始めに
実現されました。
朝鮮、満州、北支、東南アジア、南太平洋へと勢力を拡大していった日本の戦略、さらに太平洋に沿った国々への日
系移民や、それぞれの国の大使館への武官の派遣などが状況としてあり、真珠湾攻撃の次にはパナマ運河の攻撃を
憂慮しました。戦争が終わってみれば思い過ごしとしか思えないことでしたが、日系人移民を強制収容する案を米国は
採用しました。

不思議なのは同じ敵国だったイタリアやドイツ系移民には何もしなかったことです。考えてみると白人が中心になってつ
くったアメリカ合衆国です。アジアからの米国への移民は随分差別され蔑視があったと思います。何をするか分からな
い、信用できないといった理性ではない感情論が勝ってしまったと思います。
大部分の何も知らなかった、関係のない日系移民にとっては全くの迷惑以外の何者でもありませんでした。数年間に
及ぶ収容所生活は、それまで築き上げた生活基盤を全て奪い去ってしまったのですから。収容所生活は柵もあり、銃
を持った兵隊が見張り塔から監視していましたが、総じて自由で家族の呼び寄せや子供の誕生などの喜びもありまし
た。
日露戦争以後の日本の軍部、政治、産業は右よりとなり、マスコミの扇動も手伝い市民レベルにおいても良識を逸し
た、神国日本を信じるようになり欧米に対する対等、ライバル意識、アジアの覇者という気持ちが日本人共通のものと
なりました。さらに軍人の自己肥大が命取りでした。
戦争は結局縄張り争いにすぎず、心の傷を増すことはしても癒すことはないのでしょう。
隣の中国では、中日戦争終結から60年の節目(2005)に当たり、これまで見られなかったデモが起きています。



 582  日本の何たるかを教えてくれた人



司馬遼太郎さんの数多い作品の中で、日本を日本人を知るための代表作といえば、多くの人が'街道を行く'シリーズと'
この国のかたち'だろうと云います。

私もこれらの本はじっくりと何度か再読しようと心に決めています。
東京の九段に靖国神社があります。もともとは招魂社といい、明治2年に戊辰戦争の際、敵味方を問わず亡くなった人
達の霊を祭るために大村益次郎の発案でつくられました。新しい日本をつくるために、私ではなく公のために新国家の
ために、封建制度から日本一国という飛躍を得るためのものでした。
本当に日本の何たるかを優しく教えてくれた方でした。



583  優しい日本人が好き



'うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川'のふるさと、'海は荒海、むこうは佐渡よ'の砂山、赤トンボなど明治以降に
作られた童謡の多くは、日本の自然や風景を歌い上げたものが多い。
明治になり、初めて日本が一つになり共通の財産として日本の自然が讃えられました。
そして今も外国などに旅をして、みんなで外国の方に日本の歌を歌う機会などありますと、自然に、楽譜など見なくても
共通の心の歌になっています。優しい気持ちの日本人を最もよくあらわしている歌です。
翻って,校歌や鉄道唱歌などになりますと、上昇気流に乗ったように勇ましく縄張り意識が見えて、負けるなライバルを
やっつけろといった戦闘気分を起こさせます。
私は優しい日本人の方が好きです。



584  フラミニア門近くの食堂風景



今も電車の走る歴史あるフラミニア街道を、フラミニア門(ローマから北へ向かうフラミニア街道の出発地点)から20分
ほど歩くと、ボルゲーゼ公園の傍にヴィッラ・ジュリアーノ博物館があります。

ここには先住民族であるエトルスク人の主に墓から出土した副葬品が展示してあります。
エトルスク人は中部イタリア(トスカーナ、ウンブリア、ラッツィオ)からコルシカ島、カンパーニャ(ナポリ近く)に亘り、紀
元前9世紀から紀元前1世紀にかけてギリシャ世界との交易で栄えた文化を築きました。文字もありましたし、部族国
家に分かれて分布して高度な生活をしていました。紀元前6世紀〜7世紀が絶頂期だったと思われます。紀元前5世紀
のテラコッタ製の男女像の蓋のある棺は逸品で、同じような土棺がパリのルーブル博物館にもあります。ジュリア博物
館は、かってローマ法王ジュリア3世(1551〜1555在位)が別荘(ヴィッラ)として使ったそうで、この法王はミケランジ
ェロのパトロンでもありました。ミケランジェロは、この法王のことを'芸術家泣かせで、古典に興味を抱く宴会好きな人'
といったそうです。建物のつくりや庭、噴水や人工洞窟など当時はやっていた様式が今も見れます。

2時間見学して後、ぶらぶらまた歩いてフラミニア門近くまで帰ってくると、昼どき、ひときわ出入りのある食堂が目に入
りました。6〜7卓テーブルがあり、かってローマを舞台にしてつくられた映画の名場面の写真が壁に掛かっている安普
請のこじんまりした食堂です。
サラリーマン、女性同士、学生、中高年の土地の人、バッグパッカーズなど様々な人で賑わっていました。料理はプラ
スチックの皿に載せ、飲み物もプラスチックのカップ、ナイフホークスプーンの類に至るまで全てプラスチックでした。テ
ーブルも30〜40分で客が入れ替わるといった様子で、ゆっくり時間をかけて食事を取るというイタリアのリズムとは似
つかないものでした。値段は安く、出てきた食事の量は多く、味も悪くありません。庶民は何処でもいつも活力に満ちて
いるものです。
イタリアがスローフード(その土地で採れたものでゆっくり飲み食いしようという流れ)の生まれたところですが、スローフ
ードを推進しているローマ支部を訪れたことがあります。責任者の話では、その流れは下降線をたどっていると言って
いたのを思い出しました。

食事の仕上げにカフェ・エスプレッソを注文すると、これまた小さなプラスチックのカップでした。各テーブルは話に花が
咲き、通りには電車や車が走り、人がひっきりなしに行き交っていました。



585  トインビー博士の歴史観の誕生の裏には何が?



20世紀を代表する英国の歴史学者であり、日本を愛し高く評価して下さった方です。

アーノルド・トインビーは、数人の人物や事件に大きな影響を受けて、深く歴史を観る目を養ったようです。まず、母親で
す。彼女自身歴史家でした。次に、彼の伯父さんです。この人は船に乗り世界を見て回り、その体験をアーノルドに話
して聞かせたそうです。三番目には、ツキジデスでペロポネソス戦争(紀元前4世紀のアテネとスパルタの争い)につい
て作品を残しました。この戦争がその後のギリシャ世界に与えた影響、インパクトを明白に語る広い歴史観を述べたも
のでした。
オックスフォード大学で学ぶ若き学生であった頃、ヨーロッパでは第一次世界大戦(1914〜1918)が勃発しようとして
いて、トインビーの目には2400年の壁が取り払われ、ツキジデスが身近に思え歴史の共通性を体験しました。共に学
んだ大学での仲間の半数が、第一次世界大戦が終わってみると、この世を去っていました。人間の空しさを感じ、歴史
を通して人間理解を深めようと世界の各地に存在した文明を広い公平な目で研究するようになりました。ヘロドトスやポ
リビウスなどを通して歴史観の幅を広げました。

ヘレニズム文明はたゆまない発展のモデルとなり、中国文明は調和と不調和の繰り返し発展と退化のパターンを示す
良き例となります。この歴史家は他の文明の位置づけを、この顕著な二つの文明の間に見出そうとしたようです。


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