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571 ムデハルの言葉の由来
ムとはムスリム(イスラム教徒のこと)を意味します。デハルはほっておくという意味で二つを合わせてつくられた言葉だ
そうです。
レコンキスタ(国土回復運動)が13世紀の半ばにコルドバやセビリヤにおいて完成し、スペインの北(アストリアあたり)
から始まったキリスト教徒による長いイスラム教徒との戦いに一応の終止符が打たれました。勿論最終的には15世紀 末(1492)、アンダルシアの一角に残ったグラナダの回教徒の町が無血でカトリック両国王(イザベラ女王とフェルディ ナンド2世)に帰されるまでとされます。スペイン各地において、キリスト教徒の手に支配権が戻っていく中、多くの建築 に携わった職人たちはイスラム教徒のままでスペインに留まり、イスラム様式(幾何学模様、アラベスク模様,装飾アラ ビア文字のコーラン一説を刻むなど)を主にした建造物を作り続けました。乾燥した土地柄で昼は強い日差しが照りつ け、夜は温度が下がるスペインの気候はイスラム教徒の故郷アラブ地方に似ているため、アラブ人の好んだパティオ (中庭)を持ったつくりは、キリスト教徒にとっても合っていたと考えられますし、遠い昔にローマ人がスペインの地を支 配したときにも、きっとパティオ形式の家をつくったことでしょう。
新たに支配者となったキリスト教徒たちはイスラム建築を高く評価すると共に大目に一般イスラム教徒たちを処遇する
政策から生まれた言葉であろうと考えます。しかし、15世紀末からはイスラムやユダヤへの風当たりは強く厳しいもの になりました。
572 東京の通勤電車の乗り降りで走った外国人
ギリシャの西、イオニア海に浮かぶ7つの島のひとつコルフ島出身で、母は日本人父をギリシャ人(船長)に持つ長身
の30歳前後の女性ガイドが、半日アテネの町を案内してくれました。
お母さんはギリシャでの生活が長く、同化してしまわれたようで今もコルフ島(ベナチア共和国の支配に長い間あったた
め、洒落た文化が残る雨の多いところ)におられるそうです。お母さんを通して話し言葉としての日本語は教わったそう で、長じて2年東京の吉祥寺に住み語学学校に通いました。彼女も何故かJRの込み合う駅では、日本人同様プラット ホームを小走りに走った思い出を懐かしく語っていました。
一度だけ子供の頃両親に連れられて行ったのがレフカダ島だそうです。このイオニア海のレフカダ島でギリシャ人を母
にアイルランド人の軍医を父に生まれたのがラフカディオ・ハーン(小泉八雲)であり、ラフカディオの名はレフカダから とられたそうです、2004年は彼が亡くなって丁度百年の節目でした。
アクロポリスの上に立つパルテノン神殿を含むギリシャ神殿は、西に向いてつくられていてキリスト教教会(ヨーロッパで
は聖地エルサレムが東にあるため、東に向けてつくる)とは異なっていることや、神殿内は三つの部屋からなっていて 後日ギリシャ正教会内を三つに分けるのに応用されたこと、神殿の正面(東)前には神を讃えて供える生贄台があった 跡などを案内してくれました。アクロポリス博物館に置かれている彫刻物の殆どは、紀元前6世紀のもので、現在残る パルテノン神殿の一代前の神殿を飾っていた時の作品だそうです。アテネでは、神殿の建物用の大理石はアテネ産の ものを使い、彫刻物はエーゲ海の島からとれる上質の大理石を用いたそうです。館内にはパレアアテネ(アテネ女神を 讃えて行った祭り)に関する彫刻など興味ある大理石像が多く置かれています。大理石像はかっては彩色されていた ので、趣が今の印象とは違っていたのだろうと想像してみました。
彼女は、最近ギリシャ人の高校生の一団をつれてイタリアへ旅行したそうですが、本場で飲むカプチーノが1ユーロ(約
140円)だったことにショックを受けた話をしてくれました。アテネでは3ユーロもとられるそうで、オリンピックに期待した 経済発展が裏目になっていて、インフレだけが進み、そろそろコルフ島へ引き上げようかと考え始めていているような 話し振りでした。
573 アテネ・オリンピックのマラソンコースを1時間5分で走破
ゴール地点(第一回近代オリンピックのメインスタジアム)から逆方向にマラトンの出発地点へと向かって走りました。
マイクロバスに乗ってデルフィのアポロン遺跡へ向かう途中のことです。未だ所々にブルーの線が道路上に残ってい
て、野口嬢(女子マラソンの優勝者)の走った同じ道を運転手の心憎い配慮のお陰で体験できました。ゴール近く何の 変哲もない野原へと入るループ状に道がつくられていて、入っていくと一体の彫刻が見えてきて柵の入り口に何やら看 板が立っていました。その場所こそギリシャ都市国家連合軍が、紀元前490年ペルシャ軍と戦い勝利したマラトンの戦 場跡でした。また元の国道に戻って走るうちほどなくマラソンの出発点へゴールしました。
時間は1時間5分という驚異的なコースレコード(?)でした。
古代オリンピックは紀元前774年に始まり紀元後395年に終わるまで4年に一度ゼウス神殿を祭るオリンピアの地で
行われました。ギリシャの都市国家の代表選手が入念な準備訓練の上、都市国家の名誉をかけて競ったことでしょう。 勝利者のみ月桂樹の王冠、オリーブの小枝、名誉そして金が与えられたようです。選手は市民の資格を持つ非常の際 は戦争に義務として進んで参加する軍人でした。
1896年近代オリンピックがアテネの地で再び開かれました。
そのマラソンで優勝したのはギリシャ人で、軍人だったそうです。1960年、1964年と連続して優勝したアベベ選手も
軍人でした。そして今のオリンピック出場の選手たちは、軍人以上に4年間休むことなく訓練している(古代オリンピック では半年くらい)プロの選手で、企業や国家、パトロンからの支援で支えられたスポーツの祭典となっています。
574 セコムこそ命
長嶋茂雄さんのセコムしていますか?のコマーシャルが流れていた頃、個人として自覚して聞いていた人は余りいなか
ったのではないでしょうか?
1970年に国際文化比較論の一環として書かれた'ユダヤ人と日本人'の本で、ユダヤ人にとって安全を確保すること
が歴史を通して最重要課題であったことを語っていたと思います。安全と水と空気は金を払ってでも確保するのが当た り前と主張したこの本は、話題を呼びましたが当時の日本人にとっては、遠い異国の話として聞いただけでした。
4月に入り林を散歩すると、小鳥たちが盛んに美しい音色を奏でています。背景には、オスがメスに交尾権を勝ち得よ
うとアピールしていたり、首尾よく交わり雛が生まれ自分たちの生活を守るために他の鳥達に縄張りを主張して鳴いて いるのだといいます。決して春が来て浮かれて一杯機嫌での発声ではありません。
海外に行きますと、川が鋭角に切れ込んで曲がって流れている内側に町をつくり地続きの侵略されやすい所は、石や
レンガを使い頑丈な壁を配しています。
イタリアのベローナ、スペインのトレド、チェコのチェスク・クロムロフなどがすぐに浮かびます。あるいは水の中に町を
つくりセコムしたところでは、イタリアのベネチア、メキシコのメキシコシチー(アステカ帝国の都)があります。崖や山、 丘の上につくった町には、スペインのロンダやクエンカ、ペルーのマチュピチュ、イタリアのシエナ、オリビエート、オルテ などがあります。また周りが高い山で囲まれた盆地につくられた町には、ペルーのクスコ、メキシコシティーなどありま す。
国という漢字は、古い字体では内側にも小さな四角があり、二重の壁で武器を持って守る字面になっていました。大陸
に住む人達にとっては、集団で安全を確保することが最も大切な問題でした。その為に個々人が我儘を抑えて町づくり に参加し、防衛に積極的に関わった歴史でした。敵の侵入を受けやすい平地や海の傍に町をつくるのは,相当の自信 の表れとみていいようです。また予測が出来ない病気(コレラ、ペスト,インフルエンザ、発疹チフス、ライ病、マラリアな ど)に対する恐怖もあり、町づくりにより一層熱が入ったようです。実際に統計を調べると、戦争で死傷した人よりは栄 養失調や衛生問題も含む病気で死んだ人の数が多かったそうです。犬飼道子さんは、ヨーロッパの歴史は戦争に明け 暮れた日々だったと本の中で述べておられますが。
それにしても、日本のセコムにはどうだったのでしょうか?
575 冬サルジニア島に行った思い出
地中海に浮かぶシシリー島に次ぐ大きな島で,夏は観光客で賑わうというサルジニア島へ2月に行きました。
古い大陸の一部だった所ですが、今はイタリア本土から200キロ沖合いに位置していて、人口は160万人ほどです。
先史人が残したものに紀元前2千年ごろの石組みの要塞化した塔を持つ集落(ヌラギという)跡が数多くあります。使 われた目的ははっきり分かっていないようでが、緊急の際の避難所だったのかも知れません。似たようなものはスコッ トランドにもあるそうです。先史人は牧畜や農業を主にしていたようです。
地中海のほぼ中央に位置していて、シシリー島同様この島を押さえれば、周辺に睨みが利く絶好の土地柄だったせい
でしょう。数多くの支配者が歴史時代以降支配してきました。
フェニキア、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国、ピサ、ジェノバ、スペイン、オーストリア、サボイそしてイタリア王国、
イタリア共和国といった流れでした。
現在の中心町はカリアリで、良港を持ち丘の上には要塞跡やこじんまりした国立考古学博物館があります。先史人の
知恵や生活が再現されています。内陸のヌオロの町では、民芸博物館の中に伝統の習慣、民謡、祭り、衣装など豊か に生活していた独特の文化があったことを強く印象づけられました。このヌオロ出身のグレーシャー・デルタさんがサル ジニアの生活を書いて、ノーベル文学賞を1926年に受賞しています。
2月の冬の頃でしたが、ヌオロからカリアリへと向かう途中の町のスーパー。マーケットのなかにある肉やチーズを商う
店で、細長いパンを横に長く切り、パンの間にチーズと生ハムをはさんだ特注のサンドイッチをみんなでつくってもら い、移動するマイクロバスの中で頬張った味の良さは今も忘れることができません。またトイレストップで立ち寄った山 の上のレストランは、客もなく閑散としていましたが気持ちよく使わせてくれました。裏庭では、豚を一頭加工する為でし ょうか?ガスバーナーで丁寧に爪のあたりを焼いていました。
この島で採れる小麦からつくるパスタがイタリアで一番美味しいとのことでした。決して恵まれた歴史とはいえないようで
すが、北隣にあるコルシカ島の人達の歩んだ曲折した歴史に同情していたガイドにもっと聞いてみたかったと今でも思 っています。 ![]() |