希望



561  メテオラ(空中)には双頭の鷲の旗がたなびいていて



ギリシャ中部の町カランバカのすぐ後ろには、奇形の砂岩群の山上につくられたギリシャ正教のメテオラ修道院がいく
つか残っています。

まさしく空中高く神の座す天を思わせる荘厳な厳粛な雰囲気のところに、辛抱強く建築材料を運び上げ、修行者と職
人、そしてパトロンの長年に亘る協力の結果出来上がったことでしょう。かっては峻険な岩山に登るには、細い道とか
縄梯子が使われていたので、とても信仰心無くしては訪れることなど不可能だったと思われます。
ガイドによると、ギリシャ正教のお祈りでは三つの指(親指、人差し指、中指)を合わせ、十字を上から下へ、右から左
へ切るそうです。三つの指はそれぞれ神、イエス,精霊を表していて三つが同格であるそうです。イコン(聖画)を大切に
しています。イコンのテーマはイエス・キリスト、マリア,聖人だそうです。各家庭の部屋に飾り神の祝福を願うそうです。
泊ったホテルの部屋にも壁にイコンがありました。彫刻は一切ありません。音楽は楽器は用いず男性のコーラスだけで
す。
一方、ローマン・カトリック教(1054年の宗教会議でギリシャ正教会と別れた)では、五つの指(神、イエス,聖霊、マリ
ア、法王)で上から下へ左から右へ十字を切りお祈りするそうです。絵画、タペストリー、彫刻、パイプオルガン,聖歌隊
などを取り入れています。

4世紀始めにコンスタンチヌス帝が、コンスタンチノープルに都をローマ以外につくることから始まったギリシャ正教の流
れですが、7世紀以降は東方の風土を取り込みオリエンタルな神秘性を湛えたビザンツ教会が育っていきました。教会
の中は一般に暗く、ロウソクの灯りが主で、狭い感じで3つの仕切りがあります。前室、中央の祈り場,奥の部屋となっ
ています。奥の部屋は僧侶だけが使えます。古代ギリシャの神殿内が3つの空間に分かれていたのを取り入れたそう
です。中央の祈りの空間は天井は半円のドームになっていて、窓を通して自然光が上(天)から入ります。天井は神の
座す天を意味し、床は地上界のようです。壁は3段に分かれていてイコン画やフレスコ画が所狭しと描かれています。
上段がイエス・キリストに関するエピソード,中段はマリア関係、下段は聖者、聖人となっています。
女性は、修道院の入り口でロングの巻きスカートを腰につけます。パンタロンはダメだといいます。どうも体のラインが
でるのでいけないようです。しかし、スカートでは下部の足が見えるのでどうかなと思ったりしましたが、主旨は信仰の妨
げにならないように体の露出を避けることにあるようです。男性の修道僧は黒い服に帽子をかぶり、顔のひげも剃らな
いようです。女性は尼僧にはなれますが説教者にはなれません。黒い服に頭にはスカーフをつけます。いづれも人目
につかず控えめに振舞うのが大切だということだと思います。
風通りのいい修道院の展望のきくバルコニーには、ギリシャのブルー(エーゲ海の海の色)と白の国旗と並んで、東ロ
ーマ帝国(ビザンチン帝国)のシンボルであった双頭の鷲(皇帝とギリシャ正教の大司教の2人)印の黄色い旗がたな
びいていました。



562  コンポ・ステーラとは星の広場



コンポ・ステーラはスペイン語であり、日本語に直すと星の広場となります。

さらに、その前にサン・チャゴ(聖ヤコブ)とつけると、北スペインの巡礼地となります。
紀元後44年に今のイスラエルで,聖ヤコブは殉教しました。しかし、この人の遺体はスペインにあります。宗教的に理
解すると、絶対真実ということで事実とは別の次元の扱いとなります。
9世紀ごろから、この北スペインの聖地への巡礼の旅が始まりました。巡礼に行く人は、多くパリに集い、そこからサ
ン・ジャック通り(聖ヤコブ街道)を通ってフランスの聖地を廻りながら、スペインに向かいました。巡礼者は一様に肩か
ら皮のバンドを掛け、その中にはホタテ貝を入れていました。それが同じ志を持つ巡礼者の証でした。中世の時代、ヨ
ーロッパ人にとり三大巡礼の聖地(他にローマとエルサレム)の1つとして盛んになりました。
日本でも、平安時代から室町時代にかけて熊野詣でが盛んになりました。やがて伊勢、、長野の善光寺詣でなども人
気が高まりました。



563  写真の登場は



写真は18世紀末から試みが始まりました。

もともとは科学的な探究心から出たものではなく、偶然が作る自然の美しさやイメージを、あるいは人物の陰影(シルエ
ット)を記録するものでした。現存する最も古い写真は、1826年だそうです。写真が実用化されたのは、1840年代で
す。それまでは、心理的な深みと実際の正確さを表現できるのは、絵画だと考えられました。それが出来た最後の画
家はアングルで、彼をもって終わりました。それ以後の画家で正確さだけをカメラと競った者は敗れていきました。
パリのオルセー美術館に行くと、かっての駅の構内を改装してつくった展示室が、アングルを代表とする古典派・サロン
派の絵画を一方に、そして反対側に写真の登場により、新しい絵画を求め歩き始めた人達の作品(マネ、コローなど)
を並べてあります。
やがて1870年代に入り、印象派の登場へと繋がっていきました。



564  中世騎士道のルーツはサラセンとの戦いの中から



778年のことでした。

キリスト教軍がシャルルマーニュ王に率いられて、ピレネー山脈を越えてサラセン回教軍を打ち払うために遠征しまし
た。しかし逆に追われて退却せざるを得なくなり、そのしんがりをローラン率いる一軍に任せました。しかし味方の裏切
りやサラセン軍の襲撃に会い、全滅してしまいました。そのとき、角笛が響き渡り勇を得たキリスト教軍は、引き返して
戦い勝利しました。

11〜12世紀になって、このときの戦が詩となり吟遊詩人などにより歌われ、ヨーロッパ中に広められ中世騎士道の華
と讃えられました。北スペインのバスク地方でのバイヨンヌかパンブローナあたりの山中の出来事だったようです。
732年にも同様、サラセン軍とキリスト教軍との戦が、フランスのボルドー近くのポアチエでありました。その際もサラセ
ン軍をピレネーの西へと追いやることに成功しました。そのときのキリスト教軍の指導者はカール・マルテルでした。シ
ャルルマーニュ王の祖父にあたります。両戦い共、ヨーロッパ・キリスト教軍にとっては、後には引けない決死のもので
あったと思いますが、戦闘能力や勢いに勝るサラセンにとっては,数多い戦争の一状況にすぎなかったのではないでし
ょうか。日本においても、源平の戦い(12世紀後半)などが後日、琵琶法師などにより弾き語られて(14〜15世紀)行
く経過と似ているように思います。



565  刷り込みの大切さ



生まれて間もない犬を貰い育てた婦人の話によると、この赤ちゃんメス犬はご主人を自分の親や夫と思い込み成長し
たそうです。

またご主人の方も,いつも部屋の中において猫可愛がり(犬可愛がり?)して甘えさせた育て方をされました。ご主人が
仕事で家を留守にする以外は、この犬は奥さんのもとへは来ようとしません。成犬となった今は、ご主人が家にいると
きは、傍を離れず奥さんですらご主人のそばに来るのを拒むそうです。食事の時などは、ご主人の横に腰を落として寄
りかかり濃艶なポーズまでする始末です。
欧米では、子供を育てるのに犬を躾けるようにして行うと聞いています。
鎖ならぬ紐で腰を繋がれた,よちよち歩きの赤ちゃんが、母親から付かず離れず散歩しているのをよく目にします。
犬を飼ってみると、母犬は産んだ子犬を最初の3ヶ月は愛情を深く注ぎ守り育てますが、やがて少しずつ距離を置いて
いき子犬の自主性を育て、いつの間にか互いに知らぬ顔で生きていけるように子離れ、親離れが行われます。実に見
事なものです。
人でも同じことで'三つ子の魂、百までも'といいます。10歳ぐらいまでに親がどのように子供を育てるかが大切です。

奥様の話を傍で聞いておられたご主人は、苦笑しておられました。ペルーへの旅の留守中は、ペット預かり所にお願い
したそうです。
  

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