希望



556  イエズス会の誕生は?



公式に日本へイエス・キリスト教が伝わったのは、戦国時代たけなわのころ、1548年から1549年とされています。フ
ランシスコ・ザビエルにより布教が始められました。

1534年8月15日にイエズス会が発足しました。七人の同志が、聖母マリアが天国に召された日(被昇天8月15日)
にパリの北にあるモン・マルトルの丘の小さな教会に行き、誓いを起てました。何があっても、ローマ・カトリック教会、ロ
ーマ法王の盾となり矛となって、アジアへの布教を志しました。イグナチオス・ロヨラもザビエルもバスク人(ピレネー山
中に古くから住む人達)で、家柄もよく王家の血を引いていました。ロヨラは、戦で負傷し、中年の身で無学からラテン
語を習得しようとパリのソルボンヌ大学へとやってきました。ザビエルは、同じ大学で哲学者になるのを目指して勉強し
ていた青年でした。ロヨラは陰気で我慢強く、ザビエルは若くて陽気で人気がありました。他の5人のうち、4人までがイ
ベリア半島の出身者です。その当時の世相は、オランダのエラスムスの人文主義やマルティン・ルターらの新しい宗教
の息吹が感じられる中、ローマ司教教会そして聖母マリアの忠実なしもべ、騎士として生きることを誓う集団が誕生しま
した。ヨーロッパの中で、古く権威あるパリの大学で学ぶ、外国からやってきた留学生が国際都市で意気投合して生ま
れました。
ロヨラは40代でしたが、他の5人は20代、1人は10代の若者でした。



557  明の鄭和とは



ポルトガル、スペインによる大航海時代(15世紀半ば〜16世紀)に先立って14世紀の末に、明の海将、鄭和は大船
団をひきいて国威を世界に示すべく遠く航海しました。

彼は、四川の昆明湖のほとりで1371年に生まれたようです。イスラム教徒であり、漢民族でもなく更に宦官でした。
生まれて日の浅い漢民族国家,明の3代皇帝永楽帝の提督として'海禁'(鎖国)の国是の中で、遠くアフリカの東海岸
まで達する大航海事業を成し遂げています。航海は7次に及び、現在でいうと、8千トン級の船まで建造しています。第
1次の航海では、大型船62隻、将士2万8千人が乗っていました。
唐、元と続いた海を利用してのアジアや中近東との交易,情報の交流が、鄭和以降は終焉に向かいました。



558  日本人と接するとギリシャ女性も日本化する?



悲しげな目で20年余り日本人のグループを世話してきた小柄なギリシャ女性が、もうじきこの仕事を辞めるといいま
す。

かってのように日本から直接飛行機が入ってくることもなくなり、仕事量が減ってきたのが背景にあるようです。さらにア
テネで行われたオリンピックやユーロへの貨幣の切り替えは、外国から安い労働者の導入があったり、物価の上昇を
招き生活が苦しくなっているようです。
専門のトランスファー・アシスタントとして,飛行場や港とホテルの間を片言の日本語を使い、日本人の世話をしてきた
人です。彼女の目には、日本人は節度があり、清潔好きで時間を守る、多少神経質な愛すべき人達との印象だったよ
うです。辞めるとなると、センチメンタルになっているようでした。

一方、ギリシャの地に住んで30年になるという2人の日本女性が、1日エーゲ海ミニクルース船で働いています。熟年
の2人の日本女性は、体格も仕草も言葉使いも日本人の型をぶち破ったダイナミックな行動派で、同僚のギリシャ人男
性たちを手玉に取っているかに見えるほど生き生きしています。

朱に交われば赤くなり、風土が人をつくるの例えだったようです。



 559  メアンドロスのデザインがいたるところに



古代ギリシャ人にとりメアンドロスのデザインは、永遠,普遍、幸福、不変を意味していました。

このデザインは、神殿の壁、大理石彫刻の女性のドレスの縁取りに、死者を埋葬する素焼きの土の骨壺の図柄に、青
銅でつくった馬車競技の優勝者のヘアーバンドにと多岐に亘り使われていたことが、アテネの国立考古学博物館やア
クロポリス博物館、そしてデルフィの遺跡博物館を見学していて良く分かりました。
メアンドロスのデザインは何処から生まれたのでしょうか?
トルコにある河が、ヘビのようにくねくねと曲がり流れていて、その形からできたという人もあれば、地中海に生息するタ
コの姿を古くからデザインとして皿や壺に使ったのが始まりで、やがて足がメアンドロスへと変化していったという説もあ
ります。
またもっと哲学的に、縦の線はこの世、横の線は死者の世を意味していて、これらの線が連続して繋がっていると考え
た古代ギリシャ人の宗教感を表しているという人もありました。
中華ラーメン、中華丼のふちを飾るデザインを通して見た気がする私たちにとって、メアンドロスのデザインは、ギリシ
ャを身近に感じさせてくれました。



560  春たけなわのデルフィ神域では



アーモンドの木にはピンクや白の花が咲き,遺跡の野には芥子菜の黄色い花が一面覆っています。

空では、小鳥たちが求愛の音色を響かせて鳴いています。ネロ皇帝(紀元後1世紀)が、デルフィの劇場で歌った折、
小鳥たちはその悪声に耐えられず一斉に飛び去ったといいます。人間だけが皇帝の仕打ちを恐れてじーと聞いていた
そうです。
アポロンの神託は、40〜50才の巫女が1年交代で、1ヶ月に1度アポロン神殿の中の最奥の部屋で、トランス状態に
なって告げたといいます。その部屋は地下から湧き上がる悪臭(メタン、エタンなどのガス)でもうろうとしていて,神官
(男性)が巫女の発する声を聞き取って,仲介したようです。依頼される神託の是非は、政治的、経済的に繊細な場合
が多く、抽象的にお告げを表現したと考えられています。長い間に亘って、デルフィの神託は人々の信頼を勝ち得まし
た。4年に1度行われたお祭りでは、スポーツや詩のコンテストが開かれ、スタジアムやヒポドローム(馬車競技場)、劇
場はギリシャ世界から集まった人々で満ちていたといいます。

19世紀の末に始まったフランス考古学者による発掘で、村の下に埋もれていた古代の神域が明らかになりました。博
物館の中には,馬車競技で優勝して間もない、馬の手綱をしっかり握っている静かではあるが満ち足りた表情の青年
の凛々しい立つ姿が,一際目を引きます。青銅で造られていて、生き生きした目やまつ毛、ワンピースの服が風で膨ら
んで競技に支障をきたさないように上半身を紐で結んで背中はたすきがけであったことや、揃った足元の美しさ、永遠
の象徴メアンドロスの模様の入ったヘアーバンドでカールした髪の毛を束ねていて、当時馬車競技が人気が一段と高
かったことが感じられました。
高校卒業前の旅行シーズンにあたったようで、アルプスの北からやってきた先生に引率された若者たちを多く見かけま
した。中には、遺跡の立ち入り禁止の縄の張ってある中に入って石壁の陰に、何人かの若者がたむろしています。そ
んな姿を見つけると、ガイドのアンジェラ(47歳なので巫女になれるかも知れないと豪語していました)は、フランス語で
厳しく注意していました。叱られた青年たちも粛々と従っている風景は,いつもながら大人が権威を持つヨーロッパその
ものでした。
  

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