546 '減点パパ'のテレビ番組がありました
昔、NHKの番組で'減点パパ'というコメディアン三波伸介さんが司会して、子供を相手に子供の語る父親の顔の特徴を
さらさらと白い画用紙に描いていき、絵を見て誰が父親なのか当てるものでした。
最後に父親が登場して、三波さんの軽妙な問いかけに家族のエピソードを語り、ほのぼのとした暖かいムードに仕上
げるといったものでした。しかし、何故タイトルが減点パパなのか今もってよく分かりません。
日本では、生来減点式の生き方,採点方法が好まれるように感じています。自分を謙遜して,へりくだってあるいは否定
して生きる建前の上にあるように思います。自分を小さくし目立たなくすると、例え失敗しても人は余り強く非難すること はなく、自分にとっても大きな傷とはなりません。人の成功を喜ばないのが世の常かもしれません。
歴史的に見ても、悲劇のヒーローが讃えられ、最期が哀れであれば大衆に同情され人気が上がります。またヒーロー
を倒した敵役の勝利者は、表向きはヒーローを讃え神社などを建てて供養鎮魂する姿勢で、自分の力を陰に隠し表向 きは慎ましく振舞うことを由としてきました。プラス、積極志向よりは、マイナス、消極志向の人が多いように思います。
さらに調子に乗っていえば、暗算の得意な日本人は、引き算を苦もなく頭の中で行い、買い物でのおつりの受け渡しも
スムーズに行います。ヨーロッパなどでは、おつりを貰う場合、足し算方式で行うため、商品の価格におつりを加えて行 き、最終的に満月(最初に渡した金額)にします。減点(引き算、消極)ではなく加点(足し算、積極)のように感じます。
547 1999年5月1日から6日にかけての中国旅行の思い出
久しぶりに中国へきました。
北京の首都空港は、以前と変わっていません。成田空港を手本につくられました。しかし、建物の中の飾りつけや広
告、売られている品物は大いに変わりました。貴賓室を使い、外国人旅行客を優先する飛行機の利用はもう過去のも のとなり、一般客でごったがえす中、喫茶店で休憩して搭乗口へ向かうといった風で、他の国と全く変わらないものでし た。北西航空で2時間半乗り、西安に着きました。機内では、簡単なサンドイッチと飲み物が出ました。以前のように記 念になるようなおみやげ品が配られるサービスはなくなっていました。背もたれのヘッドカバーは、白い清潔な布で何処 かの被服会社の提供によるようで、宣伝も書かれています。
西安の飛行場は、町から40キロ離れた、かん陽の地にあります。新空港を選ぶに当たって霧が発生しにくい土地柄と
いう理由で選ばれたそうです。このかん陽は、歴史では秦の始皇帝(紀元前3世紀)が都を置いたところです。当時を 感じさせるものは殆ど残っていませんが、女性ガイドの歴史眼に明るい王さんの案内で、長安(西安と同じ)へとバスで 向かって行くのは中々のものでした。打ち続く戦乱の中で、この地にあった秦時代のモニュメントは壊され崩れ去ったと いいます。僅かにバスの中から、前漢時代(紀元前2世紀)の王家の陵墓が見えていました。分けても6代目の有名な 武帝の両親の、大きく盛った饅頭型の陵が2基並んで、道のすぐ近くにあります。発掘はこれからのようですが、有名 な始皇帝陵も未だだそうで、理由は先祖の墓を暴くことに対する伝統的な懸念や現在の発掘技術の未熟度にあるそう です。これは特に、始皇帝の兵馬ようの発掘の際、起きた彩色された土人形(埴輪)の色が失われてしまったことへの 反省もあるそうです。
黄河最大の支流である、い水を渡って1時間かけての西安城への入場でした。このあたりは、年間降雨量も600ミリ
(500ミリ未満だと灌漑用水が必要といわれる)で、畑が広々としていて、小麦やトウモロコシ,綿などを主に作っていま す。この時期、農家の庭には紫色の花をつけた木が多くあり、桐の木だそうです。中国では、桐の木を植えると,いい お嫁さんがやってくるという言い伝えがあるそうです。主食は麺や饅頭となり、饅頭は中にアンや詰め物が入っているも のは包といいます。何も入っていない饅頭でも充分味があり、よく食べます。この地方の名物料理の一つにギョーザが あります。湯にいれて、蒸して、焼いてと様々に食しますが、何百種類のギョーザがあるそうです。後日、有名なギョー ザのレストランで一夜食べましたが、20種類ほどでした。この店では、200種類も出せるとのことです。最後に食べた のが小粒の真珠のようなギョーザでした。世話をする店の人が、適当に鍋からすくってお茶碗にいれてくれました。そし て、自分の茶碗の中に何個ギョーザが入っているか数えていてください。食べ終わった後で数に関する説明をすると意 味有り気に言って部屋を出ていきました。
やがて行われた説明によると、一つは一路平安、二つは夫婦円満、三つは3・6・9と中国人が最も大切にする目出度
い数字、四つは春夏秋冬、五つは五穀豊穣、0はというと中国人の好む丸、つまり幸せ、全ての悩みを取り去り欠ける ことのない様だそうで、中国らしい誰もが満足がいくような説明、配慮に一同爆笑となりました。
泊った西安城内にあるホテルは、平成天皇・皇后両陛下やクリントン大統領も泊られたほどだそうです。翌朝、部屋か
ら見える広々した町の風景の中に、新しく高層ビルが出来ていたり、古い町並みも残していて大きな街路樹が東大路 通りに育っていて、そこにはバスや乗用車(以前はあまり見なかった)が走り、自転車に乗ったり歩いている人がいて早 朝とはいえ、少しずつ夜明けと共に町が活気づいていくのが感じられます。どんどん変容していく中国を象徴する景色 で、昔ながらに変わらないのは一面に広がる空の青といったところです。
中国では、地名などに方位・方角を意味する漢字をつける習慣があります。江南,江北は揚子江に対してであり、河南,
河北などは黄河から見てだそうです。あるいは,山西、山東、広東、広西なども類似です。西安は陝西省にありますが, 江南省の西に位置するところからつけられたようです。陝西省は山また山の土地柄ですが、僅かに西安のあたりが山 間の平野であり、有名ない水が流れています。守るのに絶好の土地柄だったそうです。この省は、人口は3千万、20 万平方キロ,西安市は周辺を入れると600万人の都会です。
中国は、省あるいは自冶区が行政上のトップです。自冶区は、少数民族五つの人達に任されています。五つとは、内
モンゴル、チワン,回、ウィグル、チベットとなります。その他、国の直轄都市が四つあります。重慶、上海、北京、広州で す。回族は結婚式は夜おこない、漢族は昼で終わらせそれ以上長引くと不吉だとして、民族により様々な違いがあるそ うです。
唐(7世紀〜10世紀始め)の時代、華清池は温泉が湧き出る避寒地であり、皇帝の別荘がありました。長安から東へ
35キロほどいったところにあります。華清池へ行く途中、有名な覇水を渡ります。その昔、東の方へ旅立つ人をここま で送り、柳の枝を贈ったといいます。柳はリォウオと発音し,引き止めるという意味の言葉と同じ音声になるそうです。 今でもこのあたりには、柳の木が多く植えられています。西安はその昔長安といいましたが、それは長慶平安という四 文字からとられたそうです。明の時代(14世紀〜17世紀)に西安へと名が改まったのですが、その理由は蛮族の反乱 を征し、西北部の安定を願ったことや地震が少ない土地がらが重なってつけました。
秋には、ザクロや柿が美味しく、子孫繁栄を願ってザクロと落花生(いづれも実が鈴なりになる)を、花嫁に食べさせる
習慣だそうです。この国の歴史の中で、4大美人と讃えられるのは、西施(戦国時代の人)王昭君(漢時代の人で西域 の匈奴の王へ嫁ぐ)チョウセン(三国時代の人)そして楊貴妃だそうです。しかし、これら4美人はパーフェクトであった のではなく、それぞれ何か欠点を持っていました。楊貴妃は体臭が強かったので、おそらく玄宗皇帝とは風呂を共にし なかっただろうというのが、ガイド女史の説でした。玄宗や楊貴妃の使った風呂があり、見学の目玉になっています。今 は、温泉は枯れてしまいました。またこの地で、1936年12月12日早朝、西安事件が起こり国共合作が成立しまし た。国民党のリーダー蒋介石を部下の張学良が捕らえ、共産党と手を組ませ日本軍に対して戦う取決めをさせまし た。張学良の父親は張学林といい、日本軍の仕掛けた爆弾で列車死しました。北京の郊外、盧溝橋でのことでした。
華清池の近くには始皇帝の兵馬ようがあります。8千体ほどの埴輪が発掘されていますが、1千体修復されました。始
皇帝陵墓の東側1.5キロほど離れたところに5米の深さで、大小合わせて4箇所に平均身長1.8米もある埴輪の兵 隊が始皇帝を守る意図で埋められていました。1974年3人の楊さんが、畑に水をやるために井戸を掘っていて、偶然 見つけたそうです。未だ未発掘の始皇帝陵墓の方は、皇帝が38年もかけてつくったものです。13歳で王位につき、な みいる6つの敵国を平らげて、自ら中国初の皇帝になりました。埴輪の兵隊が多く造られたわけは、本物の墓の所在 を隠すために、そして盗掘を防ぐ役目がありました。
漢の時代の記録によると、皇帝は即位すると死ぬまでずーと自分の墓を、国家予算の1/3をかけてつくったそうです。
始皇帝の兵馬ようが、ほとんど東向きにおかれていますが、秦は一番西に位置していて、他の6つの敵国はいづれも 東側になり、敵国の人々の恨みや復讐を防ぐ意図だったようです。国慶節(10月1日)などは1日だけで25000人も の人が、見学に訪れるところとなっています。この埴輪塚を最初に見つけた3人の楊さんの1人は、今も元気でここの 友誼商店で頼まれれば、本やみやげ物の埴輪人形に、サインをして生活しているそうです。元々は、字も書けない人だ ったそうですが、今はすっかり腕も上がり上手な字を書かれるそうです。始皇帝は13歳で即位して、38年在位して51 歳で洛陽へ行く途中、急死したといいます。敵に死を悟られないため、かん陽の都へ帰るまでの長い旅の間、皇帝の 車には腐った魚を持ち込みごまかしたというエピソードが伝わっています。
兵馬ようは1号館は歩兵部隊、2号館は戦車,武者、騎馬兵などから成っていて、騎馬兵は百体以上も見つかっていま
す。秦軍の強さの秘密は騎馬隊を使っての、今で言う新兵器を使っての編成にあったのかも知れません。3号館は司 令部だったと考えています。戦闘服ではない埴輪の人形があり、中には鹿の骨を焼いてそのヒビの割れ具合で吉兆を 占う場面も見つかっています、呪いや占いが戦争に、あるいはリーダーとして大切なものであったことが分かります。大 変に込み合った兵馬ようでしたが、中国人は概して大声で話をするようで、誰もが勝手に怒鳴りあっているように思えま した。数日後、北京でのことでした。
市内観光で天安門広場を見学してから、徒歩で紫禁城へ入り裏門へ出る予定で、天安門近くの路上でバスを降り、バ
スは裏門へ回送しました。後部座席に2〜3人乗せて走る自転車を改造した乗り物が何台も客待ちでいましたので、日 差しも強いので幸いと思い天安門広場だけでもこれに乗ってぐるっと見ようとガイドの女性に頼んで乗ったのですが、5 分と走らず広場も通ることなく天安門(紫禁城入り口)へと連れて行かれました。ガイドは怒り、車夫4人を相手に大暴 れ、いや言葉で口角泡を飛ばすとはこのことかと思われるほどの立ち回りを見せてくれました。口約束(契約)に対する 互いの言い分を目の当りにみていました。凄まじいものでした。女性ガイドの気の強さにも感心しました。美人で背もす らーと高く、、一方車夫は背は低めでがっしりした体格です。映画でしか見られないシーンが10分近くも,かぶりつきの 席で見られた思いでした。
西安市内にある碑林博物館では、中国で生まれた5つの書法が見られます。
てん書(秦時代にでき、象形文字に似ている),楷書(漢の時代),隷書(三国時代),草書・行書となります。
この博物館は、宋(10世紀〜12世紀)の時代に知識人の習得しなければならないとされた、13冊の必読書を石版に
彫り、ここに置いたのが始まりでした。拓本や写本で学ぶ学生たちが分からない箇所を確かめる時に、ここに来れば解 決できる石でできた辞書の保管所の役目を果たしました。平成という文字も、ここにある孔子の石に刻まれた文章に地 平天成という4字があり、そこからとられたとの説明でした。漢字を共に使う日本と中国ですが、同じ漢字でも違う意味 になるものも多々あります。珍しいところを挙げると、
手紙 中国では、便所で使う紙をさし、トイレットペイパー
汽車 中国では、自動車のこと
火車 中国では、機関車のこと
娘 中国では、母親のこと
愛人 中国では、法律で認められた夫や妻
走 中国では、歩くことになります。
先に述べたギョーザの専門店では,錫製の徳利(とっくり)で紹興酒を暖めてサービスしてくれました。この徳利が売り物
になっていて、10個以上買えば1個につき500円も値引きしてくれるというので、皆さんで協力して10個を少々超えて 注文しました。更なる値引きはと問うと、他のテーブルでは30個も買ったのに我々と同じ値引きであったと、婉曲的に 断るところなどは、諦めざるを得ずユーモアのあるおしゃべりで、大陸で鍛えられた言葉回しに手玉に取られた次第で 滑稽でした。商人,商売の商は、中国の建国神話にまで遡る商の国からきています。
夜は、別のホテルへいき、フランス料理のフルコースを食べた後で、踊りや楽器の演奏を観賞しました。楽器を奏でた
人達の腕前は相当なもので、素晴らしい音色を出していました。食事では、上等のフランスワインを3本頼みました。一 本が1万円(中国人の平均月収にあたる)でした。ショーの始まる直前に責任者が舞台に立ち、照明器具が不良で外 国製のため修理ができず、本来の照明効果が覚束ない旨、涙を浮かべての口上でした。実際には、さほどのことでは なかったのですが結果として、飲み物代がタダになってしまいました。万事塞翁が馬のことわざを期せずして味わった 次第でした。
明けて3日は、西北航空で3時間かけて甘粛省の西の端にある,河西回廊のオアシス町敦煌へ初めて向かいました。
想えば、1970年代の半ば中国のシルクロードへ観光で行けるという話を聞いて以来、25年経ってしまいました。イン ドで起こった仏教が,千年の歳月をかけて日本へ伝わったことや、初期には釈尊を恐れ多いということで、姿・形で表 すことをしないで、足型やストゥーパ(仏舎利塔)、傘などで婉曲に存在を感じた芸術でしたが、やがてガンダーラ(ヘレ ニズムの芸術と接することで)の地に、偶像の仏が生まれ仏像を彫ったり、描いたり,土を捏ねて固めて色を塗ったり、 金属で造ったりする芸術へと発展しました。インドのアジャンタ・エローラ石窟(紀元前1世紀〜紀元後7,8世紀)あたり にみられる仏教芸術が,信仰と商業、交易に支えられ遠く旅をして、大乗仏教となり北へと伝播して、シルクロードを通っ て中国、朝鮮、そして日本へとやってきました。
僅か3時間で西安から飛べば、20世紀初めまで全く世界から忘れられていた、仏教芸術の宝庫が敦煌で見れると思う
と感無量の気持ちでした。西安はその朝は雨が降っていましたが、こうして飛んでいると日も差し出しています。昨夜の ショーにも登場した飛天(エンジェル)の故郷シルクロードへ向かう飛行機は、ほぼ満席で9割が日本人でした。流れて いる音楽も日本人に合いそうなもので、スチュワーデスの笑顔も商業的でない、いたって自然なおおらかな感じで、大 陸の人柄がでた気持ちのいいものでした。予定通り10時半には、少しの緑と乾いた土色の大地の敦煌飛行場に着き ました。西安からは1800キロ,列車では30時間かかるそうです。敦煌県の4%のみがオアシスで、綿や小麦、トウモロ コシなどを水を利用してつくっています。春4月は、砂嵐のシーズンで5米先も見えなくなります。夏の気温は30〜38度 にあがります。秋には昼と夜の温度差が20度もあります。冬は平均気温はマイナス15度であり、年間降雨量は40ミ リにも満たないそうです。市内の人口は15万人で、95%が漢人、残りはウィーグル人やチベット人など15の少数民族 から構成されています。敦煌の南は西海省、西はウィーグル自冶区、北は内モンゴル,東は河西回廊です。祁連山脈や 北山峰に挟まれた北西回廊の奥にあります。
敦煌の町は、圧倒的に観光によって生活している人達が多く、ホテルやレストランにお土産店,絨毯工場や夜光杯加工
工場等あります。20年前までは、ホテルといえば敦煌賓館があるだけでした。VIPがきた時、泊る建物でおそらく195 0年代、ソ連の技術指導者が使っていたことでしょう。しかし今は、20あまりの3つ星ホテルが建ち、年間国内からの観 光客が40万、国外から4万、そしてその7割が日本人だそうです。鳴砂山は縦横20x40キロの砂山で敦煌の町のそ ばにあります。いまではお堂や門が立ち、その前は土産店が両側いっぱいに並んでいます。門からはラクダに乗った り、ラクダの引く乗り物や歩いて15分いった所に、月牙泉があります。この泉は昔から自然に湧いていました。
男性ガイドのラン氏によると、子供のころ彼ら少年仲間は、よくこの砂山に遊びに来てこの泉で泳いだそうです。私たち
が行った時には、ブルドーザーやシャベルカーが泉の底の砂を,かきあげていました。泉のそばにはいかにも古びた宮 殿風の木造の建物があります。これは、何年か前に出来たものだそうです。ラクダを降りると、すぐそばにゲルがあり その中で休めるようになっていて、地元産のヨーグルトが昔懐かしい牛乳瓶に似た容器に入っていて、紙の蓋を手でこ じ開けて飲むのですが、冷たくてかつ固く下半分は固まっているため、ゆっくりストローですすりながら飲みました。冷た くて甘酸っぱくてとても美味しいものでした。用意してあったヨーグルトの数もさほどではないようで、我々だけで売り切 れてしまいました。ラクダは2つ瘤があり、落ちないように手で掴むものがしっかり出来ていて悪くありません。砂山の上 には別に金を払えば登れるように階段が取り付けてあります。登った人の話ですと、頂上からさらに奥にずーと砂丘が 続いているそうです。
敦煌には8大名所旧跡があり、鳴砂山、月牙泉,莫高窟、玉門関、陽関、白馬塚などです。昼食は宿泊ホテルでとりまし
た。2年前にできた1番新しいもので、食事も部屋も満足しました。正面玄関を入ると、ロビー奥には化粧レンガででき た壁絵があります。太陽が四方に光を発散し、太陽の中心には火の鳥鳳凰が描かれています。鳳凰は,火から生まれ た永遠に不滅な鳥で中国の陰陽では女性、太陽は男性、月は女性竜は男性となります。このホテルの特別室で3度食 べましたが、内容はラクダの足の裏やその傍の肉が出たり、コブがフライされていたり、ワニやカエルなどの珍しい食 材を上手に調理してありました。
昼食後は昼寝のリズムのある地域だそうですが、我々は早速莫高窟へ向かいました。70キロ離れていて、バスで1時
間ほどかかります。莫高窟の名の由来は、ただ高いところにあるからそう呼んだとも云われ、海抜1300米です。また 別の説によると、鳴砂山がかって莫高山といわれたことがあり、そこから名づけられたともいいます。492窟までは番 号がふられています。千年以上にも亘って掘られつくられたもので、窟内のデザイン建築、塑像や壁画などが魅力であ り、中国3大石窟の中で最大のものです。西涼、北魏時代に始まり隋、唐、宋、明の時代にかけて人が住み、窟は増え ていきました。紀元後366年に何故ここに最初の石窟がつくられたのか? 交易ルートに近く西域へと向かう中国最後 の地に人々が集い、栄えたようです。しかし、明時代以降全く忘れられ20世紀に入り,道教の僧が偶然に石窟内の穴 の中に書簡が山と埋もれているのを見つけました。だが、これらを西欧からやってきたイギリスのオーレル・スタインや フランスのペリエ、日本の大谷探検隊などが安く買い、持ち去って以降世界に知られるようになりました。5万点にも及 ぶ貴重な資料が持ち去られたと言います。現在中国には僅かに1万点の資料が残るのみです。700になんなんとする 石窟が、長さ1.6キロにも及んでいます。いくつかの石窟を懐中電灯を受付で借りて、照らして見ましたが、古いもの ほど質がいいように感じます。インドのエローラ・アジャンタ石窟と比べるのが相応しいとは思いませんが、地形的に見 て似ている感じです。町からあるいは街道からさほど遠くなく、そうかといって街中の賑わいからは離れており、信仰と 商業、権力者の寄進により成立し、引き継がれてきたように思いました。壁画に見るべきものが多いように思いまし た。外に出ると5時半というのに日差しは強く、これから100キロ離れた陽関まで行き、敦煌へ帰ったのは9時過ぎでし た。大急ぎで豪華な食事を食べ、10時過ぎから我々の為にだけ待ってくれている、舞踊をみるべく別のホテルへいき ました。
さて陽関の関所ですが、宋の時代に洪水があり、流されてしまいました。僅かに丘の上に一つの狼煙台(狼火)が崩れ
て残るだけといいます。実際に当時は、狼が多く生息していたそうで、狼の糞を集めて燃やし合図を送ったところから、 狼煙という漢字が使われたようです。今の陽関の町は、人口5千人、祁連山脈から流れ出る地下の水脈を伝わって湧 き出す水を利用しての農業、特に葡萄やスイカなどの果実が栽培されています。日照時間が長く、光合成が盛んにさ れるので美味しい甘みのある果実が良く育ち市場価値も高いそうです。砂漠の中、レンガの壁が網目になっている風 通しがいい倉庫が立ち並んでいます。それらは、葡萄を乾燥させ干し葡萄にする施設だという説明でした。
紀元前88年に玉門関と共に、この陽関の地に関所がつくられたといいます。しかし、やがて海のシルクロード(唐の時
代から)の発達につれて、陸の方は衰退していく運命だったようです。
砂漠のアクセントとしては、蜃気楼、竜巻、地平線、そしてラクダぐらいしか食べない背の低いラクダ草と呼ばれる草が
あるくらいです。ここの部落の人達の住居は、他の地域と比べると収入も3倍もあり、家は大きく入り口も広く綺麗にし てあります。陽関の集落を過ぎて、少し登り勾配の坂を上がると、陽関遺跡の入り口です。小さな博物館と売店があ り、その先に最近出来た見晴台があり、史跡指定の石碑が立っています。一望の砂漠が前面に広がる風景です。昔 旅した人は、敦煌から2日がかりで西域に向かう最後の関所である陽関にラクダに乗りやってきたそうです。長安とイ スタンブールの距離は7千キロあり、敦煌から3つの西域への道が始まっていきました。。
敦煌へ帰る途中、夕日が地平線に沈む頃、バスを停めてしばらく休憩を道路端でしました。紀元前2世紀から紀元後5
世紀まで、シルクロードは生き生きと人々や物を情報を運び続けましたが、やがて砂や風、洪水などにより使われなく なりました。1987年井上靖原作'敦煌'をもとにして映画がつくられました。その際、撮影用に敦煌城がつくられました。 丁度その場所が望める所でバスを停め、日の沈み行くのを眺めていました。シルクロードをロマンに満ち、身近に感じ させてくれた学者たちの著書や井上靖さんや司馬遼太郎さんたちの小説や旅行記、画家の平山郁夫さん、NHKのお陰 です。敦煌は沙州にあります。水の少ない、水の乏しい所,沙獏の言葉は的を射ています。日本で書く砂漠は正しくな いのでしょうか?本当の沙獏を知らない、あるいは持たない国としては、許してもらえるかも知れません。西域の特徴 は、ぶどう酒、夜光杯、琵琶(楽器でキジ産が有名)、馬(汗血馬)そして砂とでもなりましょう。唐の詩人王幹の謳った' 葡萄の美酒 夜光杯、飲まんと欲して琵琶馬上に催す。酔うて沙場にふすも、君笑うなかれ。古来征戦幾人か帰る'は この辺りが相応しい情景といえましょう。
夜光杯は祁連山の玉石からつくるもので、敦煌の工場では大きな石の塊を時間をかけて小さくしていき、じっくり研磨し
ていました。昔は1ヶ月もかかったものが、今は1週間で出来るそうです。
一夜明けた敦煌の町を、早朝歩いて見たのですが道路は整備されていて、広くとられていて、大きな街路樹や花壇に
ホースで水をたっぷりやっています。中学生が、スポーツユニホームに身を包み、50人ぐらいの集団(1クラス)で男女 一緒に掛け声や笛に合わせてランニングをしていました。
空港へ向かう途中、絨毯工場兼展示場、販売所に立ち寄りました。5月から10月までが旅行シーズンで、毎日チャー
ター機や臨時便が1日に7機近くも西安や北京あたりから飛んでくるようです。この町の水は、郊外を流れている河の 水をせきとめてダムをつくり、貯めた水を町へと流すそうです。飲料水は、地下水を利用していて20〜30米掘れば出 るといいます。ホテルの玄関で美しく着飾った2人の女性が、出迎えや見送りをしてくれました。彼女たちは肩から歓迎 などと書かれたたすきをかけていました。専門の係員が、私たちのビデオや写真を行く先々で撮り、希望販売もしてい ました。まさにこの町は、観光客で生計を立てている人たちで支えている様子でした。大きな絨毯が一つ売れたようで、 売り子と買い手の日本人の間で手打ちがあり、声が一段と弾んで広い展示場に響いていました。ホテル出発前には、 アンケート用紙を渡され記入して欲しいと頼まれました。内容はサービスに関する評価で、これは観光局に提出され改 善を目指すのだそうです。
北京で泊ったホテルは、10年前にできた王府飯店(Palace Hotel)といい、王府井(ワンフーチン)のそばにあります。
ここは昔、王族や貴人が住んでいたところで、紫禁城のすぐ傍にあります。ホテルは部屋の洗面所に至るまで豪華な 大理石がふんだんに使われ、ロビーや地下1,2階のショッピング・アーケードなどに欧米の一流ブランド店が並んでい ます。またホテル近くの百貨店の内装,置かれている商品も欧米や日本あたりの物と比べて、全く変わりありません。 ガイドの話によると、不景気も手伝って外国向けにつくったものがあまり、それを新しくできた百貨店などでも売らざるを えない事情があるそうです。しかし、着実に国内の消費は増え、いい品物への志向が上がり若い人を中心に美しく室内 も飾るなど、スマートになってきています。ガイドの鐘さんは27歳、、大学で日本語を勉強して卒業後、この旅行業に入 り6年を迎えていますが、2度日本へ要人を案内してきたことがあります。月に5〜6万円の収入だそうで、これは一般 の人の倍程度の収入にあたるそうです。
百貨店を出ると、すぐ横の建物の歩道の車道沿いに、ずらーと百人ほど作業服を着て中には金づちを手にした人達
が、腰を下ろして座っていました。この付近で行われている地下鉄の工事で働く一群でした。いかにも疲れきった表情 で,生気もなく座っているのを見ていて、この国の新しい波にうまく乗れなかった人と乗った人のコントラストを見せてい るような風景でした。
ガイドに思いつくままに質問をしてみました。
結婚式は祭日か偶数日が好まれます。例えば、2のつく日は2人の幸せに繋がり、6はじゅうじょう(十乗?)の発音に
似ているので好まれ、8は儲かるイメージでいいそうです。結婚届けを役所に出した後、車でレストランへいきます。そう そうまず朝、車で花嫁を迎えに行き、昼はレストランで昼食パーティを行い、夜は友人たちを招いて夕食会などをする のが一般だそうです。
老人の夢はとの問いかけには、親としては子供が社会人として立派に育つことが、まず第一の願いであり、安い年金で
暮らしている人が多いが、朝起きて公園に行き,友人たちと夕方まで過ごす人も多くいて、将棋などはボケ防止にとて も良いそうです。
祭日は、1月1日は元旦、旧暦の正月は春節の祝い,1月15日は旧暦では元宵節でもち米の団子を食べて祝いま
す。5月1日はメーデー。6月1日はこどもの日。7月1日は共産党の日。8月1日は軍隊の日。9月9日は旧暦では要 人の日で、多くの老人は、山へ登るそうです。そして10月1日は国慶節。旧暦の8月15日は中秋の名月であり、月餅 を食べます。
若者はバーやディスコ、ボーリングに玉突き、カラオケなどが人気の遊びだそうです。若者の夢は一流大学に行き、い
い仕事を見つけること。貿易とか金融関係が人気があるそうです。10年前は、ただ外国語が話せるだけで有利になっ た就職も、今では加えて専門的な技術知識が求められる時代だといいます。
空港へ向かう途中少しの時間、瑠璃廠へ行きました。明の時代,故宮や天壇公園の屋根瓦を焼く工場がここにつくら
れ、瑠璃瓦をつくったところから名前がつけられました。
清の時代には、この通りに書画、骨董を売買する店が集中し、今でもその伝統が残り北京がどんどん近代化する中
で、この一角だけが昔ながらの平屋建ての建物が残されています。
丁度5月のころ、柳の花が飛び交い、絵もいえないほどの美しい風情がありました。ぶらぶら歩いていると、昔お寺だっ
た所が文化会館として使われていて、絵画の展示や影絵芝居の練習場になっています。その奥の中庭では、この辺り のお年寄りの集う溜まり場の様子で、なかの親切な方が連れて回ってくださり、午後にでもくれば影絵芝居も見学でき ると教えてくれました。別の店へふらっと入ると、そこは伝統の中国茶を販売する店で、日本の岸首相や弟のお嫁さん (佐藤首相の奥さんの寛子さん)、さらにはお父さんのブッシュ大統領などそうそうたる顔ぶれの写真が壁に掛かってい ました。
しばらくぶりに西安、敦煌、そして北京だけですが見て思うのは、随分町が整備され立派な現代建築物が立ち並び、道
路も大きく舗装されていました。飛行機も時間通りに運航し、サービスやマナー,言葉使いに至るまで見事なほど変身 していて、その変化の早さに驚きました。人民服も消え、町には物があふれ出していて、このまま成長すれば、大変な ことになると思いました。瑠璃廠あたりの路地を見ると、昔の風情もありますが、新と旧とが大急ぎで入れ替わりつつあ るのが分かります。いい時期にこの国を旅できました。
548 自然界は淡々と流れて5月のある日
オスの鶏の勘九郎がいよいよ足が衰えて、真っ直ぐ立てなくなりました。
この家に生まれ育ち、いつも庭を自由に歩き回り、夜は物干し竿の上で寝て夜明けを告げるけたたましい一声を毎朝
聞かせてくれました。
昨日は、生まれて1歳ちょっとのメス犬のドーティの小屋近くで,2米近くあるヘビの脱皮した後の皮を見つけました。ド
ーティはすでに母となり、先月は2度目の発情期で、近所の野良犬がうろついていました。元気のいい犬は,年をとった 犬に労わりの気持ちを示す風もなく、かって青春を謳歌した老犬は、死ぬ間際まで若い犬に対する権威を見せ、そして いよいよとなると、家の者には分からない隠れた場所に行って静かに死んでいきます。
エリという犬がそうでした。鶯の声がこだまして、縄張りを危険を知らせ、あるいは求婚のシグナルを発しています。自
然界は、淡々と流れて繰り返しています。
朝の日差しが降り注ぐ新緑の中で春そして初夏の訪れを知らせています。
549 ルネッサンスの中のルネッサンス
ハイ・ルネッサンス期と呼ばれる1495年から1520年にかけて活躍した芸術家たちについてです。
ブラマンテは1444年、ダ・ヴィンチは1452年、ミケランジェロは1475年、ラファエロは1483年、ティチアーノは148
8〜1490年に生まれています。
ダ・ヴィンチはベロッキオの弟子としてフィレンツェで働きましたが、30歳でフィレンツェを離れミラノ大公の下で軍隊の
技師として働きました。ミラノに出て行く前に、中途で残した仕事に'3賢人の礼拝'の絵があり、ウフィツィ美術館のなか
で見ることが出来ます
ミラノでは、1485年にやはり未完成に終わった'岩窟のマリア'を描いています。ロンドンのナショナル・ギャラリーにあ
るのではと思います。そして1496年から98年にかけて'最後の晩餐'の大作を描きました。1499年フランス軍がミラノ を制圧した為、マントバ、ベネチアを経てフィレンツェに帰りました。1503年にフィレンツェ市はベッキオ宮殿内の壁に
フィレンツェの歴史にとり重要な戦闘となった'アンギアリの戦い'の絵を描くようダ・ヴィンチに依頼しましたが、下絵だけ
で終わっています。1506年にフランスの要請がありミラノへ戻ったためでした。フィレンツェで'アンギアリの戦い'を製 作していたころに'モナリザ'が描き始められました。
ローマのサン・ピエトロ大聖堂の建築は、ユリウス2世(1503年〜1513年在位)により始まりました。ブラマンテが最
初の設計をしました。1546年ミケランジェロが責任者となって以降、進展をみました。フィレンツェのアカデミア美術館 にあるダビデ像は1501年の作品であり、ローマにあるモーゼ像は1513〜1515年にかけて彫られました。システィ ーナ礼拝堂の天井壁画は、1508年から1512年にかけて描き、そして同じ礼拝堂の主祭壇の後ろの壁に描いた'最 後の審判'は1534年でした。そのころは宗教改革運動が盛んになっていました。ミケランジェロ自身をこの絵の中に, 生皮を剥がされて殉教したバルトロメオ聖人の顔に描いていたこが、後に分かりました。1512年から1534年にかけ ては,法王レオ10世やクレメンテ7世の依頼で、メディチ家の礼拝堂に飾る墓の設計や彫刻を手がけました。フィレンツ ェのサン・ロレンツォ教会の一角にあります。その後、ローマのカンピドリオの丘の広場やその階段の設計を1537年 から1539年にしています。ロンダニーニのピエタ像は1555年から1564年に亘っていますが、新しいスタイルを模索 したあとが覗われ、彼自身の墓を設計していたとも云われています。亡くなる数日前までノミを振るっていたと伝えられ ています。
ギリシャ・ローマの古典作品に触発され、パトロンとなったフィレンツェのメディチ家出身の法王やミラノ大公、貴族や司
教、そしてルネッサンス期の市民の後押しを得て、さらに信仰に裏づけされ、若年のころしっかり修行を積んだのちに、 独自の芸術を切り開いていった人達の時代でした。未完に終わった作品を振り返ることなく前を向いて生きた人たちで した。
550 日の光を欲しがる国と嫌がる国
オランダへ旅をした時に、ガイド氏が日本人の駐在員の家では、外の通りに面した窓にカーテンが下りているので,かえ
って興味を引き、通行人が覗き込むことが多いといいます。
一方、ほとんどの窓のカーテンが開けれたままで、部屋の中が丸見えで、観賞用の温室植物などがあるオランダ人の
部屋の中は、誰も見ようとしないそうです。暖かい日差しが乏しいオランダのような国では、出来るだけ日の光を大切に し、短い少ない太陽の恩恵を受けようとします。また、殺風景な通りの中で部屋の中に南方の植物を置くことで、少しで も賑わい温もりをみんなで分かち合おうと、通行人への配慮があるのかも知れません。
一方南のスペインやイタリアでは窓を小さくして、さらにその窓の外に木の扉がついていて閉めれば、外からは全く見え
ず、強い日差しが部屋の中に入らず、アンティークの家具調度品が傷まないそうです。しかし中庭(パティオ)には強い 日差しを取り入れ、周りにある部屋には中庭からの照り返しの適当に明かりがあり、これまた快適な生活空間が保た れています。
人柄も北の人は一般に口が重く、南の人は陽気ですし、北の人の南への憧れは強く夏のバカンス期など民族の大移
動かと思われるような、キャンピング・カーや乗用車の群れが北から南へと延々と続くのです。 |