希望



541  テキサスのユニークさ



テキサス州は、アメリカで唯一6つの国旗を過去に持つところです。

スペイン、メキシコ、フランス、テキサス共和国、南部同盟、そして現在のアメリカです。ほぼ食料品は自給自足できる
ほどで、広さは日本のおよそ2倍、人口は2千万人弱で、テキサス州を一国とみなすと、世界で9番目の生産高となりま
す。
1836年、アラモ砦で200人弱の人がメキシコ軍に対して2週間持ちこたえた末、全滅しました。その年の半ば、ヒュー
ストンの郊外で、逆にメキシコ軍を破り,独立を勝ち取りました。独立後10年は持ちこたえましたが、経済危機に陥り
アメリカに加盟しました。
またアラモ砦の戦いやヒューストン郊外でのメキシコとの戦いの結果、現在のアメリカの国土のほぼ25%にあたる地
域、カルフォルニア、ニューメキシコ,ネバダ,コロラド、オクラホマ、などがメキシコからアメリカへと加盟することになりま
した。



542  カルタゴを語ったフランス人考古学者



セム族系の言葉には、アラブ語やヘブライ語、、そしてフェニキア語が含まれるそうです。

読む場合は、右から左へと読みそのように書かれています。カルタゴの遺跡の残る丘の上につくられた博物館の中
で、案内役のフランス人考古学者は、セム族は子供を犠牲にして神に捧げる習慣があったと言い、この遺跡から息子
たちを殺し焼いて灰を入れた壺や記念碑が見つかっていると語りました。一つの例として、聖書にアブラハムが息子の
イサクを神への生贄にしようとしたエピソードをとりあげました。

カルタゴ海洋都市国家は、故郷にあたるフェニキア(今のレバノンあたり)との摩擦は避け、地中海の西へ新天地を求
めました。
伝説では、フェニキアの背後や近くにあるバビロニア、ギリシャとの戦いを避けて、地中海を旅したフェニキア出身の王
家の姫が、北アフリカ海岸(カルタゴあたり)に住む先住民族ベルベルとの取引で、牛の皮を細く切り、つないで領土を
広く貰う知恵を出して以来、カルタゴは始まりました。
カルタゴの町は、地中海の中央に位置していて、軍事、交易、情報の要にあります。ヨーロッパ、アフリカ、アジアの接
点であり、シシリー島やサルジニア島、南フランスや南スペインに基地を持って発展しました。

ポエニ戦争(紀元前3〜2世紀)の結果、ローマの軍門に屈しましたが、カルタゴの女性の多くは幼い子供の手を取り、
自ら命を絶ったエピソードが残っているそうです。
政治体制は、民主的だったそうで、女性にも自由な活躍の機会があったそうです。軍港は、大変に大きな立派な設備
を備えたもので、外海からは決して見えないようになっていて、200隻以上の軍船が入るものだったことが、調査の結
果分かっています。町の周囲は60キロとも90キロともいわれる壁が取り巻いていました。これらの壁は、7世紀の末
アラブ・イスラム勢力の侵入により、完全なまでに壊されてしまいました。
チュニジア政府観光局支援のモニターツアーであればこその専門家の説明は、奥の深いところにも話が及び、一層旅
は味わいあるものでした。



543  ハイデルベルグ城から英国を見ると



14世紀にドイツで最初に大学ができたハイデルベルグでは、17世紀初頭の城主の妻として、イギリスのスチュアート
朝のジェームズ王の娘、エリザベートがやってきました。

2人の仲は大変に睦まじく、王が新妻にプレゼントした砂岩製の門が、ハイデルベルグ城のそばの庭に残っています。
この2人の孫に当たる方が、フランスのブルボン家ルイ14世王の弟君オルレアン公に嫁いだことで、17世紀の末、
ライン河やネッカー川一帯をめぐる王位継承戦争が起こりました。
フランス軍はこのファルツ選帝侯(神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権利を持つ)の都ハイデルベルグを焼き払いました。戦
いでは、山の中腹に造られた城も破損され、その後の落雷などもあり修復途中のまま遷都したので、崩れた城の姿
が、今もそのまま残されています。

もう1人の孫に当たる人が,北ドイツのハノーバー家のジョージで、イギリスの王家の血統を引くことから、18世紀の始
めに英国王ジョージ1世として迎えられ、英国ではハノーバー王朝が始まりました。その際、王に誘われて英国に渡っ
たのが、バロック音楽の巨匠ヘンデルでした。後世、ジョージアン様式、ジョージアン時代(ジョージ1世〜4世の18世
紀や19世紀初めをいう)という名で呼ばれる英国の安定した繁栄をつくりあげました。



544  残業しないから軽くて済んだ!



2001年9月11日、朝の出勤時間に起こったニューヨークの世界貿易センタービルへの旅客機ごと突っ込んだ惨事か
ら、半年後に起きたイタリアのミラノでの州庁舎ビルへのセスナ機衝突事件は、また同種のテロかと一時は騒がれまし
た。

結局は、そうではなく悲観した男の自殺飛行だったことが判明しました。時刻は、夕方5時半だったそうで、ビル内には
すでに人はほとんどいなく、帰宅してしまっていたそうです。わずかに2人の人が犠牲になりました。公務員は、午後2時
過ぎで仕事は終了の国です。
今は、州庁舎の修復も終わり、元通りの姿(凸レンズような形をした高層ビル)を見せています。第2次大戦では、ミラノ
の町は焼け落ちた建物が多く、この州庁舎ビルも戦後つくられた、評判のデザイナーによる作品です。そばには、193
1年、時の最高権力者ムッソリーニが古代ローマの栄光を、20世紀に再びイタリアの地に蘇らせるべく造らせた、ヨー
ロッパ最大級の大理石の巨大な中央駅があります。



545  白鳥村には新旧の白鳥城がある



南ドイツのロマンチック街道の町フュセン近く、アルプスにほど近いところにシュバンガウ(白鳥)村があります。

ここからマイクロバスや馬車に乗って、あるいは歩いて山の中腹につくりかけのまま残る、白壁の美しいノイ・シュバン・
シュタイン(新白鳥城)へ行きます。他方、この麓の村にある古い白鳥城は、黄色い外壁を持つキャスル(居城)で、ル
ードウィッヒ2世の父マクシミリアン2世がつくったものです。喧騒の巷バイエルンの都、ミュンヘンの本城を後にして、猟
をしたり家族と一緒に憩うために、よく滞在したようです。幼かったルードウィッヒ王子も馴染みの別荘だったことでしょ
う。初めて、黄色い壁の旧白鳥城の中に入りました。部屋は新白鳥城とは違い、実際に長い間、王家の家族が住んで
いただけに落ち着いた雰囲気で、家具や壁に掛かる絵、また幼いルードウィッヒ2世や弟の胸像の彫刻が置かれてい
たり、母親の写真、勲章など数多くありました。かっては、上流階級の人々が楽しんだというビリヤードの部屋もありま
した。窓から見えるアルプスや湖の景色は格別のものでした。
この可愛い弟ですが、後に狂って死んだそうです。何故か悲しい家系のようです。
新白鳥城は、旧白鳥城が見下ろせる高台にありますが、1/3近くが未完成のままで終わりました。入水自殺をしたル
ードウィッヒ2世でしたが、同じ村に立つこの新旧白鳥城を見て,ふと息子は父を乗り越えようとするコンプレックスから、
ここにキャスルの建設を思い立ったのでは?と思い、受付の人に尋ねて見たのですが知りうる限りの資料の中には、
そういったことはないそうです。
母親は、スポーツ好きで、運動神経の発達した人だったそうで、新白鳥城の裏側の渓谷の上に、吊り橋が当時かかっ
ていたそうで誰もが怖がる中、その橋を渡り山中をよく散歩したそうです。
新白鳥城を始め、人里離れた所に離宮を造った浪費癖を非難され、国王としての資格を剥奪されたルードウィッヒ王で
したが、今は、ドイツで最も人気の高い観光地となっています。歴史の皮肉なめぐり合わせを感じます。
  

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