希望



536  ヨーロッパの魅力とは?



一つは、多様性でしょう。

 それは人種、言語、宗教,文化など広く全般に及んでいます。特に文化面での音楽や絵画、彫刻,インテリア          
 衣服のデザイン、装飾品の数々に目を奪われます。
二つは、協調性です。町の景観は素晴らしく全体のバランスを重視していて、個と集団の意識がしっかり表現されてい
 ます。非常時に備えた没個性的な街づくりの中で、進んで住んだ都市市民の心意気が感じられます。
三つには、持続性があります。教会建築に見られるように気長い思考が表れています。
四つには大陸ならではの歴史でしょう。チャレンジとリスポンス(歴史学者アーノルド・トインビーのキーワード)が繰り返
 された2千年に亘る民族が入り乱れての興亡の結果でしょう。一度や二度の敗北に屈せず大人が自信を常にもち、
 女性や子供を引っ張る姿勢や社会のインフラストラクチャー(教会、病院,市庁舎、学校、公共の乗り物、橋、道など)
 が、しっかりつくられていています。観光で訪れる私たちを、お客さんとして特別扱いするのではなく、平易な態度で接
 する姿は大人を感じます。
五つには、歴史に対する姿勢の深さでしょう。人類史上で、目に見える遺産を1700年代半ばから続々と世界中で見 
 つけ、博物館に入れました。さらに動植物から石に至るまで蒐集して、分類して統合する仕組みを考えだし後世に残
 してくれたことも心を動かされます。、



537  地上の楽園の島で過ごした数日



大西洋上、アフリカのモロッコから100キロほど行ったところにあるのがカナリア諸島です。

7つの島からなっていて、2つの島グラン・カナリアとテネリフェに行きました。関心も情報も持たず行ったのですが、ヨ
ーロッパ人が好んで長期滞在するそうで、本当に素晴らしい所でした。
古代ギリシャ人は、西方の海上かなたにアトランティスという楽園大陸があり、働くこともなく食物は充分にあり幸せな
日々を送れましたが、人間の思い上がりから火山が噴火して、海底に沈んでしまったと考えていました。果たして、カナ
リア諸島が謎の大陸アトランティスの一部だったのか誰も分かりません。世界の多神教の多くは、西方(太陽の沈み行
く方角)にパラダイス(楽園、浄土)があると信じていたようです。逆に一神教では、東方にパラダイスがあるように考え
た節がみられます。

さて、カナリアという名の由来ですが、ラテン語で犬(カーン、カネ)を意味します。
7世紀ごろ、モロッコの王様が派遣した探検隊が、カナリア諸島から犬を見つけて連れ帰りました。王様はラテン語を
解した人でしたので、ラテン語で犬、犬と呼んで可愛がったそうです。やがて、この島々はカナリア(犬の島)と呼ばれる
ことになりました。また鳥でお馴染みのカナリアは、この島々にだけ生息する鳥であったので、島の名前が鳥の名前に
なりました。
ここには、グアンチーと呼ばれた先住民族が住んでいました。博物館には、彼らの生活が再現してあり、石器時代(50
0年前まで)の中にあり穀物を栽培したり、魚やヤギの肉を食べて、主に洞窟に住んでいました。人種的には、白人で
青い目をした背の高い一族と、髪の黒い背の高くない頬骨の横に張ったクロマニオン系の一族がいたようです。彼らは
誇り高く、ヨーロッパ人に服従するのを好まず、長い間戦いがありました。ようやく1400年代の末になり、7つの島がス
ペインの支配するところとなりました。エジプトで主に行われたミイラにしての埋葬が、ここでは行われていました。
昔々、何らかの交流があったのでしょう。

貿易風が北西のアゾレス諸島あたりから吹き、湿り気を含んだ風が島々の山の北側にぶつかり雨を降らせるので、北
側では農業が盛んです。南側は乾燥していて、ヨーロッパ人の好むリゾート施設がつくられています。
200年前、ドイツの有名な博物学者アレキサンダー・フンボルトはテネリフェ島にきて、3700米の山(テイデ山)の頂
から0米の海面までの間に数知れず鉱石や植物があるのを見つけました。またオロタバ谷の美しさを讃えました。
実際に今でも、海抜400米くらいまではバナナ畑として、さらにその上には葡萄や野菜、穀物に果物畑、松林がありま
す。この松はこの島独特のもので、かっては松を使ったバルコニーのある家を造ったそうですが、現在は松の伐採を
禁じていて、砂漠化、乾燥化を防ぐ為に森林を大切に保存しています。やがて1700米辺りまで登ると、雲海を突き抜
けて潅木や葉の尖った植物が生えるところになります。火山岩や火山灰が荒々しく、あるいは時を経て丸くなっていて、
外輪山を通過して火口原へと入ります。この火口原には、50年も前にできたパラドール(国営ホテル)があります。近く
にロープウェイ駅があります。海抜2300米から10分ほどで一気に3550米まで登りましたが、テイデ山頂には雪は
ほとんどありませんでした。

このカナリア諸島には、珍しい木がありますが、わけても竜血樹(ドラゴニアン)の木は奇形の大型のヤシ科で際立って
います。若いときには、水分を多く含んでいて樹の肌は白っぽく蓮根のように中央が膨らみ,端がきゅーとしまるといった
節をいくつも上へ重ねた巨大な姿をしています。しかし、同じものが年をとると、丸々と太っていた時は見せなかった筋
や血管、骨が水分が抜けるに従って浮かび上がり、表面のみずみずしかった皮にとってかわり老いた姿を現します。ま
ことに痛ましいまでの姿で、樹齢千年といわれる竜血樹の古木がありますが、観光の名所になっていました。

2月のこのころは、カーニバルとも重なりサンタ・クルズやグラン・カナリアの町では、連日連夜パレードや移動遊園地,
屋台などでていて,仮装した市民に混じって緑の多い公園や街路樹の下、そして海岸通りを散歩しました。
地上の楽園島での数日間は、夢のようなひと時でした。今思い起こせば、2つの島で案内してくれた女性ガイドたちは、
イタリア人であったり、スペインの本土バレンシアからとか、フランス人であったことを考えると、彼らもまた旅をしてここ
にやってきて、楽園を見つけ安住の地とした理由によるのかもしれません。



538  込み合う車内で小学生を立たせ席を譲らせた母親



韓国の水原近くの民族村を見学した後、大田まで急行電車に乗りました。

車内は込んでいて、通路は人でいっぱいです。そんな中、小学生の息子を立たせ、疲れ気味の妻に席を譲ってくれた、
韓国女性がいました。さらに、子供が手に持っていた網袋に入ったミカンを一つ出させ、わけてくれました。言葉は通じ
ませんが,親切に対してお礼を言い,笑顔で互いに女性同士心を通わせたようでした。
子供の躾をしっかりしている韓国の母親を、目の当たりに見た思いでした。
大田の近くに儒城温泉があり、その温泉に入るのが目的でした。泊ったホテルの隣が市民も入りにくる温泉銭湯です。
早朝から夜遅くまで賑わっていました。着替え室のそばに、散髪やがあり、整髪(900円)し終わるともう一度湯に入り
ました。サッパリしたあとで、朝食をいただきます。朝からたっぷりキムチがついていました。エステツアーが流行ってい
た頃の、寒い1月に2人で旅した韓国の風景でした。



539  列車に乗って



初めてのヨーロッパ(1970年代半ば)の旅で、パリ行きの夜行列車に乗っていました。

ドイツのライン河畔の町、ケルンの駅を何時通過するのか気にして、窓の外を見たり時刻表を見たりしながら、狭い個
室の中で落ち着きなくしていました。ノックがあり、旅なれたヨーロッパに詳しい団長(高級食料品店の社長)が入ってこ
られ、ケルンではなくコロンと発音するのが正しく、19世紀にこの町で香水のコロンがつくられたことや、2千年も前、ロ
ーマ人が植民地(コロニー)をつくったことを歯切れのいい江戸弁で、教えて下さいました。何もかも初めてのことで、恥
を掻いたなどとプライドがうずくレベルではありませんでした。
 

インド仏跡巡拝旅行で列車に乗り遅れ、バスで追いかけ追いかけやっと夜中近く、先回りして駅に入ってきた列車の貸
しきっていた車両に乗りました。しかし、その車両はすでに占領されていて、みんな寝入っています。専任車掌が私たち
の席を、インド人に売り渡していました。無理やり起こして回り、やっと半分だけ席を空けてもらい、夜通し寝ることもで
きず過ごしたこともありました。
同じくインドで乗ったマハラジャ列車では、便器とシャワー室が横に並んでいるため、便器が常に濡れていて気持ちが
悪く、大名列車とは程遠い思いをしたこともありました。


パリ/ベネチア間を乗ったオリエント急行では、夕食のときタキシードや美しいドレスを着た欧米の紳士淑女に混じっ
て、男性オンリーの私たち日本人グループ(企業視察を目的とした10名あまり)が、ゆっくりとしたリズムで出されるフ
ルコースの料理を頂きました。テーブルにはロウソクが燈り、デラックスな雰囲気の中で、欧米の中年の夫婦連れの
方々は夜のひと時をインジョイしておられました。
やっとのことで夕食が終わり、プロのピアニストがピアノを弾いていて、皮製のゆったりしたソファがいくつかある食堂車
の隣のサロン車に移った時には、みなさんは目が据わっていました。
談笑されている中年のアメリカ人夫婦の中に割って入り、勝手に何語が分からない言葉で、奥様方に話しかけた豪の
日本人男性が出始めました。私は、慌てました。
ジョン・ウェインの映画のように、真夜中の決闘でも始まるのではないかと恐れました。アメリカの殿方たちに、次のよう
に言って詫びて回りました。日本を離れて早や1週間、仲むつまじく食事をされている皆様を見ている内、日本に残して
きた奥様方を思い出して、酒の酔いも手伝い我を忘れて、アメリカの奥様方に言い寄っている状況です。お許しくださ
い。すると、ジョン・ウェインたちは、セコンド・ハンド(使い古し)で良かったら、'どうぞ'と寛大に応じてくれました。胸を撫
で下ろした次第でした。

中国の蘭州の駅から上海まで2泊3日かけて、列車で旅したことがありました。
飛行機便のキャンセルのため、急遽変更して手配したものでした。
軟座(一等)車に座り、食事は隣の車両の食堂に行って食べるという恵まれた旅でした。大勢の中国人は、硬座(2等、
3等)車で、食堂車でつくるアルミの弁当箱に入ったものを買って食べている様子でした。全線随行員の話では、運賃
は大人と子供に別れているのではなくて,背の高さによって決められると言い、プラットホームの隅に身長測定器がある
のだそうです。思いがけない数日の列車の旅でしたが、結構楽しいもので景色がだんだん変わっていき、高地から
海に向かって下るに従って、緑も濃くなりました。途中駅で出会う人々の対応もやさしく、人民服を未だ着ているころでし
た。

スペインの新幹線(AVE)は、5分到着が遅れたら、運賃全額返すと聞いていますが、未だ遅れたことはないそうで、ス
ペインらしからぬ正確な運行をしているそうです。各車両には、美人美男子の専任車掌がついていて1等車では、2〜
3時間の短い間にワイン付きの食事まであります。セビリアとマドリッド間を走っています。

カナダでは、バンクーバー/バンフ間の列車が半日遅れで走るというおおらかなこともありました。

ユーロスター(パリ/ロンドン)は、英仏海峡の下を走ります。
19世紀の技術力で海底トンネルをつくることは可能だったそうですが、歴史の中で互いのプライドがあり、政治的に実
現できなかったそうです。しかし、サッチャー首相とミッテラン大統領の英断により、今は海底トンネルが両国をつない
でいます。ただ、折角やってきたフランス人にとり、ロンドンで最初に目にする駅名がワーテルロー(ナポレオンがウェリ
ントンに負けた戦場の名)では、気の毒な思いがします。



540  メーデーとは



古代ローマでは、5月1日はフロラリアと呼び、春の花の女神フローラの祭りを祝いました。

その日は、歌い踊り花で飾った行進をしました。フローラはローマの売春婦たちの守護聖人と讃えられ、売春婦は特に
この日を待ち焦がれました。やがてローマ世界が広がると共に、この祭りは他の地域にも伝えられました。ケルト民族
の間では、5月1日はすでにベルティンという名で祝われていました。4月の最後の日の夜は、ケルト民族の新年の始
まりの日であり、全ての火は消され次の日の朝、朝日が昇ると同時に丘の上に野火を点けたり、聖なる木々のもとで
篝火を燃やして、春の到来そして命の再生を祝いました。家畜が野に放たれ、神々の保護を願いました。ケルト人の祭
りとローマ人のフローラの祭りはやがて一体化します。
ドイツ語圏やスカンディナビアの人達は、悪霊や魔女を追い出すために篝火をたき、ウォルパージスの夜の祭り(ベル
ティンと同様)をしていました。
 
キリスト教にとっては、異教の祭り(5月1日)には最も手を焼いたようです。
中世になると、イングランドでは人々のお気に入りの祭りとして,花を摘んだり小枝に咲いた花を手にして森に入り、夜
通し騒いだようです。性の淫らな行為も行われました。あるいは、村の広場にメイポール(5月柱)を立て、酔っ払いたち
は踊り明かす習慣が始まりました。メイクイーンやメイキングを選び、祭りの主役を務めさせました。もともとは、豊かな
農産物の実り家畜の増産を願って行われたのが、やがてただ人気のある祭りとなりヨーロッパ中に広がりました。何度
か教会は禁止令を出しましたが、うまくいきませんでした。
18〜19世紀になると、この祭りは廃れていきました。しかし、新天地へと移民した人達により、この古い習慣が続けら
れているところもあるそうです。
現在のような形で5月1日にパレードやデモをして祝うようになったのは、19世紀末に、北アメリカで始まりました。産業
革命が進行する中で、労働者への過重な労働時間に反対して、産業労働組合が音頭を取り、1日8時間労働を要求し
ました。1886年5月1日のことでした。ヨーロッパの国々もそれにならい、1889年にパリで世界労働者会議が開か
れ、1890年5月1日をデモの日(集会や行進をする)としました。その後、この日が労働者の労働条件、環境改善の
日として今に至っています。
個人としては、2度までもこの日にソレント半島のアマルフィ海岸で、交通渋滞に巻き込まれ、難渋した思いが強く脳裏
にあります。ナポリっ子は、この日は渋滞するのが分かっていても車、オートバイに乗って、この海岸にやってきて時を
過ごす習慣があるそうです。
  

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