希望



531  子豚のあぶり焼き料理ポルケッタ



ローマのテルミニ駅近くに、1890年から創業しているポルケッタを食べさせる小さなお店があります。

入り口を入ると、すぐそばに厚い木の台の上に、こんわりと銅色にあぶり仕上がった子豚の胴体が丸ごと載っていま
す。かまぼこ型の大きなプラスチックの容器に入っています。内臓や頭や足はついていません。丸型パンのお腹を半
分に切り裂いて、ポルケッタの2〜3,4枚の切り身をいれたサンドイッチを買っていく主婦やサラリーマンもいれば、店
の中では、10人も座れば一杯になる3つのテーブルの椅子に腰掛け、店の主人の裁量に任せ適当に切ってもらった
ポルケッタを、1/4,1/2,1リットルの安いワイン(赤白有り)を適当に注文して、パンと一緒にかじったり飲んだりし
ながら店の常連たち(年金生活者、近くで働く肉体労働者、店員風など)が、店の主人親子(そっくりの顔をしている)と
時間の過ぎるのを気にする風もなく、世間論議をしています。
店の周りには,一流ホテルやレストラン、ローマ国立考古学博物館やオペラ座、古書を売る屋台販売店や両替や、向か
いは1700年昔に焼いたレンガで水を貯めた巨大な貯水槽があるなど新旧入り混じっていて、ローマっ子の溜まり場
風景に浸れます。

子豚のあぶり焼き料理は、祭りの時などローマ郊外で屋台にあったのを、目にしたことがあります。塩味が軽くしみこん
でいて、こんわりと焦げた皮の部分もコリコリしておいしいものです。同じ料理はスペインやポルトガルにもあります。
半農半牧畜を歴史のなかで営んできたヨーロッパ人にとり、野生の猪を家畜化した豚は縁が深いようです。
一方、中近東の人々は豚は口にしません。イスラム教が禁止しているのは勿論理由の一つですが、遊牧、放牧を主に
生きてきた人達にとり豚は移動に適していませんし、一つしか消化用の胃を持たない豚は聖書の教えにも反しますし、
何でも食べてしまう衛生面で劣る豚は好まれず、草原に生える草を食べ、、きれいな水を探して飲む羊は,古来最も大
切にされた家畜だったようです。
聖書やコーランを奉じる人達は、羊こそ最高の食物としました。



532  たとえ停電しても



ポルトガルでの昼食のレストランも、夕食のファドレストランも同様でした。

しばらくの間停電しました。ロウソクを点け、急場をしのぎました。誰も騒ぎません。静かに時が過ぎ、やがて灯りが戻っ
てきました。長い眼で生きてきた人々の辛抱強さを印象づけてくれました。絶対神を信じる人にとり、たかが人間のなせ
る業には不足や誤りが生じることも、承知しているようです。歌手が歌った曲の中に'ポルトガルの家'と題するものがあ
り、そこにはいつも暖かいスープ、そしてパン、ワインがあり、愛があり、愛するもの同士が抱擁しているというものでし
た。
1998年、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見して500年という節目の年の出来事でした。



533  真っ直ぐなのは床だけ



アントニオ・ガウディの町、スペインのバルセロナでカサ・ミラ邸のそばを通るとき、スペイン人のガイド氏がこのアパート
に住む人の言葉を代弁してくれました。

'この家でただ一つ真っ直ぐなところは床だけだ'と。
ガウディの考えでは、自然界には直線はないそうです。自然を教師とした彼のつくったものは全て流れていて、地中海
の海草や波、木々や昆虫、ヘビに至るまでデザインに生かされています。
19世紀の半ばのバルセロナは、産業都市として栄え、港を利用しての貿易が盛んで実業家や市民のチャレンジへの
意欲が強く、新しい概念で新市街の街づくりを行いました。
今でも碁盤の目のように広くつくられた道には、当時の街灯が使われていて、交差する通りの角は斜めになっていて、
広い四つ角(実際は八つ角)をつくり、馬車を留めるために使いました。
今は自動車が留めてあります。モデルニズムと呼ばれるようになりました。先見の明を持ち、人に頼らない自立精神に
富んだ人達は、今も健在で20世紀末にはオリンピックを行いましたし、サグラダ・ファミリア教会も着々と工事が完成へ
と向けて進んでいます。



534  ナポリに住んでみると



もうじきナポリの男性と結婚するという日本女性が、ホテルに早朝やってきてくれ、カプリ島行きの高速ボートの乗り場
までバスに乗り、連れて行ってくれる手伝いをしてくれました。

4年ほどこの町に住み、生活しているそうです。私は、ナポリに住む日本人に会ったのは初めてでした。矢継ぎ早に質
問してみました。
ナポリのいいところは、まず食べ物が美味しいそうです。やはりベスビオ山の火山灰の台地が育てる麦やトマト、海の
幸などを想像させてくれます。次は、気候がいいと云います。
成るほど古代ローマ時代皇帝や貴族たちが好んでローマを離れ,南へと移り住んだことで分かります。そして、ナポリっ
子の元気がよくて明るい気質をあげました。失業率が2〜3割にも達しようというのに、くじけないで生きているそうで
す。日本にしばらく振りに帰ってみての印象は、みんな元気がなく、バスや電車、地下鉄の中では目をつぶって寝てい
る人が多く、ナポリとは好対照だったようです。

ナポリの良くないところはと訊ねると、役所や郵便局などは当てにならず、行けば時間を浪費するだけだと一刀両断で
した。もう一つ運転マナーの乱暴なことも上げていました。運転免許を取るための勉強をしている様ですが,気の余り
進まない様子でした。

しかし、何よりも夢を持ち、もうじき結婚するという若者特有の輝きに満ちていました。



535  エル・コラーノに住むイタリア人女性ガイド



3月の半ばに訪れたカプリ島は、晴れて風もなく絶好の日和です。

マリーナ・グランデ(大きな港)から向かった青の洞窟(グロッタ・アズーラ)の入り口付近は入場待ちの舟で一杯でした。
20年ほど前、ナポリ大学で日本語を専攻し卒業しましたが、英国系の会社に勤めた為、日本語を使う機会がなく忘れ
かけていました。2年前に会社を辞め第2の職場を捜すうち、日本語ガイドの仕事を思い立ち、昔取ったきねづかとや
らで挑戦してガイドの仕事を始めたといいます。
彼女によると、この青の洞窟は2千年前は古代ローマ皇帝たちのプールとして使われ,憩うための設備も洞窟内に整っ
ていたそうです。今は入り口は低く狭くなっていますが、その昔は、入り口の高さは20米あったそうです。水位が時と共
に上ってしまったようです。
そういえば、岩壁肌に沿ってやってきた舟縁から貴族の住んだ住居跡らしきものが、水面すれすれに見えていました。
またカプリ島は、5キロ離れたソレント半島と、かっては地続きだったと考えられていて、カプリとは猪と言う意味で、きっ
と猪が生息していたのでしょう。この島からは先史人が住んでいたことも分かっています。。

この島の前方に、ナポリ湾越しにベスビオ山が美しく見えています。紀元前79年8月24日の噴火前は2千米もあった
富士山に似たベスビオ山でしたが、噴火後は千米になってしまい形も変わり、今は二つ三つ峰を持つ山になりました。
噴火の激しさを語っています。ポンペイの町は火山灰が5〜7米積もりました。しかし、近くの町エルコラーノは、火山灰
や溶岩、土石流が25米も積もったそうです。ガイド女史はかってのエルコラーノの町の上に住んでいます。一部は発掘
され公開されています。かってエルコラーノには貴族をはじめとする金持ちが住んでいたところでした。ポンペイの遺跡
が休日とかストライキで見れない時は、自分の町の下にあるエルコラーノの遺跡に案内するそうです。

また溶岩の下に埋もれてしまった2千年前のエルコラーノの町プランが、ロスアンゼルス郊外の丘に建てられた、ポー
ル・ゲティ美術館の建物の配置プランに応用されたそうです。
いいガイドの話しには、汲めども尽きない甘い水のような味わいがあります。
  

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