希望



526  シャルルマーニュとハルン・アル・ラシッドは親交があった



アラビアンナイトの物語が広くイスラム世界で読まれ、愛されるようになったのは11〜12世紀だという。

同じ頃ヨーロッパでも中世騎士道精神などロマンに満ちた,説話が広まっています。
11〜12世紀は、十字軍運動(キリスト教徒による聖地エルサレムをイスラム支配の手から奪還しようとした軍事、政
治運動)の華やかな頃で、騎士の活躍した時代です。

アラビアンナイトのお話にたびたび登場するハルン・アル・ラシッド王(バグダッドに都してアッバス朝の人)は、シャルル
マーニュ大帝(ゲルマン民族のフランク族出身)とも親交があったことが、ヨーロッパの記録に書かれています。共に8
世紀後半から9世紀前半にかけて活躍しました。
ヨーロッパの騎士道物語の舞台は、伝説の人アーサー王(イングランド)やシャルルマーニュ大帝の宮廷となります。ロ
ーランの歌などは、永く人々に愛され語り継がれました。
一方、中東世界での説話アラビアンナイトは、もともとササン朝ペルシャ(4〜7世紀)時代にかなり出来上がっていたよ
うです。ハルン・アル・ラシッド王は決して名君といえる器ではなかったようですが、熱心なイスラム教徒としてメッカ巡礼
に参加し,祖父で名君の誉れ高いマンスールが築き残した財産と側近のバルマル家の援助のお陰で、後世の人々の
間では、最も富み、栄え、安定した理想の時代とされ、アラビアンナイトによく登場することになりました。
アラビアンナイトの現存する一番古いものは870年代のもので、紙に書かれたものだそうです。紙の製造を中近東、ヨ
ーロッパで最初に始めたのは、このハルン・アル・ラシッド王だそうです。 

理想の政治、理想の騎士像を過去の中に求め、現実の厳しい状況を乗り越えようと考えた騎士道賛美の時代(11〜
12世紀)だったのでしょうか?



527  中世騎士道の鏡、騎士ローランとは?



732年にフランスのポアチエの戦い(ボルドー近く)で敗戦濃厚な中、最後尾を受け持って倒れたのが、騎士ローラン
だったとずーと思っていました。

仕えた王はカール・マルテル(シャルルマーニュ大帝の祖父)であり、この戦いを機にして、キリスト教軍がイスラム軍を
ピレネー山脈の西側へ追い出しただと思っていました。
しかし、ローランの殉死は778年で、場所はバスク地方の山中であり、仕えていた王はシャルルマーニュだそうです。コ
ルドバに西イスラム王朝を築いたアブドラ・ラーマン1世とシャルルマーニュの戦いだそうです。
シャルル・マーニュ率いるキリスト教軍はスペインの内陸にあるサラゴッサ(18世紀に画家ゴヤが生まれる)を攻めまし
たが、陥落させることができず、逆に逃げ帰る途中でバスク人やイスラム勢に襲われて危険になりました。

最後まで踏みとどまって奮戦し角笛を鳴らし続けた悲劇のヒーローがローランであり、中世騎士道精神の鏡と讃えられ
ました。



528  好漢よく好漢を知る



好漢よく好漢を知るといいますが、同時代を生きた英雄が他方を讃えて言った言葉が、残っています。

'クライシュ族の鷹と呼ぶに相応しい人物は誰か?'と問いを発し、'それは西イスラム帝国をつくったアブドラ・ラーマン1
世だ。彼はただ一人、アジア、アフリカを廻り海の彼方の未知の土地へ押し渡る大胆さ、己の機略と忍耐以外に頼るも
のがないのに、よく傲慢な敵(アラブやベルベル族など)をひるませ、叛徒を殺し、キリスト教の襲撃を退けて国を平らに
したものだ。彼以外には誰もなし得なかった偉業'と讃えました。褒められた人は、スペインのコルドバに都をつくったウ
マイヤ家の王子であり、褒めた人は、ウマイヤ家を追い落としたアッバス家の礎を築いた人物と讃えられたカリフ、ア
ル・マンスールです。アラビアンナイトの主役ハルン・アル・ラシッド王のおじいさんです。



529  アンダルシアを讃えてアラブは次のように



スペインの南、地中海に近いアンダルシアのことを征服者アラブは,次のように言いました。

気候はシリアの如く温和、地はヤマンの如く肥え、花や香料はインドの如く豊かに、宝石や貴金属はシナのごとくに満ち
溢れ、そして海岸はアデンの如くに船の停泊に便利である。
あるいは、鳩がその首飾りを貸してやった国、孔雀がその羽衣を着せ掛けてやった国、川にはぶどう酒が流れ、家々
の敷居ごとに盃を差し出している所ともいいました。
地上には楽園が五つあるが、アンダルシアはその一つである。
始めアラーが諸国をつくったとき、どの国にも五つの願いを叶えてやった。この地アンダルシアには、澄んだ空、魚介に
富んだ海、熟れた果実、可憐な女たち、もう一つはの問いに質問者は良い統治をと望んだが、答えてアラー曰く、'それ
はならぬ。それまで備わったならば、もはや天国をこの地上に移すことになる'といったそうな。



530  サラゴッサ協定とは



トリデシャス協定というのは有名です。しかし、サラゴッサ協定というのは聞いた事がありません。

1494年、ローマ法王がポルトガルとスペインの仲裁者となり大西洋上を南北に分割して、以後新たに見つかるそれぞ
れの大陸や島を、それぞれの国が領有していいというのがトリデシャス協定でした。

東南アジアのモルッカ諸島から獲れる香料,コショウが当時ヨーロッパ人にとって薬(ペスト用)として、あるいは肉の防
腐剤、香辛料として大切なものでした。モルッカ諸島の領有をめぐり取り決めがされたのが、サラゴッサ(スペインの内
陸にある古代ローマ時代の遺跡の残る町)協定だそうで、やはりポルトガルとスペインが太平洋上の島の領有をめぐる
もので1529年のことでした。アジアの地の領有権を勝手に決めていました。

第二次世界大戦中に、ヤルタ会談やカイロ協定が終戦を睨んで行われましたが、同様のものと見るのは言い過ぎでし
ょうか?
外交とは口で戦争をすることだと聞いたことがあります。平和の裏には武力と外交、経済や諜報戦争があり、平和の維
持もこれらのバランスに負っているようです。


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